近江 坂本散歩②(御殿)1滋賀院門跡

はて、坂本に御殿なんてあったかな?  まあ、どうぞ。

門跡というのは、皇族・公家が住職を務める、格の高い寺院のことです。天台宗(山門派)ではいくつかの門跡寺院があります。有力なところとして、青蓮院、三千院、妙法院や上野と日光の輪王寺(上野は通称寛永寺)がそうです。この辺りは出家した皇族(法親王)が住職を務めました。

滋賀院も門跡ですが、さらに別格でここに住む住職が天台座主になります(つまり総本山比叡山延暦寺の住職の住まいが滋賀院)。先に挙げた有力門跡寺院の住職から選ばれることが多かったようです。

てなことで、延暦寺の山上には住職はおらず、必要な時だけ山上出張してました。宗教的にそれでいいのかよ?とも思いますが、まあ、この辺は「大人の事情」ってやつだな。

と、ともかく、そんなことで、地元では滋賀院を「滋賀院御殿」とも呼んでるそうです。滋賀院へのアプローチは、他の里坊とは別格です。

 こんな道を進んでいくと

まるで城塞のような正門(勅使門)が現れます。 石垣も高いですね(人と比較してください)。時代劇でも出てきたような・・・しかし、寺というより城です。 武田信玄の迷言「寺は城、寺は石垣、寺は堀、金は味方、他人は敵なり」を思い出させます(毒効きすぎてごめんなさい。調子乗りすぎました)

通用門。だいぶ敷居は低くなってて(笑)拝観入口はこちらです。座主がおられた寺だからか、門(右側)には「延暦寺事務所」と書かれていて、さらに天台宗務庁が隣接してます。 宗務庁、宗議会、審理局。うぉー、バチカン市国みたいっす。(昔はまさにそんな感じだったでしょう)

天台宗の機関 より

寺の内部は、大きな建物を渡殿でつないだ作りになっていて、寺院というより御殿(高貴な方の住まい)という感じが強いです。

二階書院

寝殿には、座主接見の間もあります。上段の間にさらに二畳畳が重ねて敷かれており、将軍様の謁見の間のようです。 昔の天台座主の権威がどれほどのものだったのか、よくわかります。

内仏殿から望む琵琶湖(遠くに見える丸山は、近江富士と呼ばれる三上山)

庭園 作庭は小堀遠州  ちょっと石が多すぎて、うるさくないかなあ・・・

建物は、明治10年に火災で全焼し、多くの建物は明治12年に延暦寺の山上から移築してきたものだそうです。重機もない時代に、山上から山下へ移築って、どんだけ金掛かるんだよ・・・あるところにはあるものですねえ。

と、全体的に批判的な視点で書いてしまいましたが、500円で御殿建築の体感できるので、建築に興味ある方にはお勧めです。建物内の襖絵は狩野派で、ガラスに収まらず直に眺められます。まあ、永徳とか探幽のようなビックネームの「おお!」って感嘆するほどの出来ではありませんけど・・・ 

近江 坂本散歩①(街歩き)

以前、比叡山横断旅で通った、坂本を再訪しました。

坂本はかつて、比叡山の物資調達を支える商業都市であり、比叡山でのお勤めを引退した高僧が隠居暮らしをしたハイソな街であり、石垣積みの職人集団である穴太衆の故郷でした。明智光秀の居城があった場所でもあります。

坂本は大津市北部にある地域である。日吉大社参道の両側には比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が並び、穴太衆積み(穴太積みとも)と呼ばれる石垣が街路を形成している。戦国時代には三好長慶に敗れた室町幕府12代将軍足利義晴・13代将軍足利義輝と細川晴元らが都落ちしてこの地に逃れ(後に朽木村へ移動)、安土桃山時代には明智光秀により坂本城が築城されたが、本能寺の変や続く山崎の戦い後に明智秀満が城に火を放った。

wiki

京阪電車・石山坂本線の坂本比叡山口駅を降りると、さっそく駅の右手に、史跡があります。日吉茶園です。

解説看板によれば、 最澄(比叡山開祖・伝教大師)が中国の天台山から茶の種を持ち帰りここに植えられたとのことで、わが国最古の茶園と称されているそうです。 前来た時には気が付かなかったよ・・・。あ、そういえば、最澄はここ坂本の出身。出生地とされる場所に生源寺というお寺もあります。

もう昼です。お昼は駅近くの『鶴㐂そば』。創業1716年・・・ そばもおいしいけど、店構えがすごい。

近江結味(おうみむすび)そば。 たれを麺にかけてお食べください と言われたんだが、自分としては、普通にざるそばみたいに食べた方がおいしかったよう。ま、まあ好きに喰えばいいでしょ。

値段的に安くはないけど(そばって高いよね)、「有名店プレミアム」が乗ってるとは感じませんでした。値段相応でおすすめできる味かと。

食べてないのでわかりませんが、お隣の日吉そばさんもよさそうです。google mapの口コミを見ると、コスパならこっちですね。建物も風情あります。

追記。司馬遼太郎「街道をゆく」の16巻 「叡山の諸道」にこの2軒のお店のことが書かれています。鶴㐂と間違えて日吉そばに入ってしまい・・・。興味ある方は読んでみてください。味についての言及はない・・・と思うのですが、そのあたり晦渋な文書で真意が読み取れません。彼は分かりやすい文章を書くことに特徴があると思うのだけれど、ここはさて、どう解釈すればいいのか・・・

昼食後、もう一か所駅近で立ち寄り(勝手に見に)ます。栗田建設さんです。

ここ坂本の石垣を積んだ職人集団を穴太衆というのですが、その穴太衆の流れが現代まで脈々と受け継がれているのが、栗田建設さんなのです。 wikiにも書かれてます。

穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと])などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は・・・

粟田家
江戸時代初期の阿波屋喜兵衛が祖で、会社組織として存続している。1964年(昭和39年)に十三代目が粟田建設を商号とし、1972年(昭和47年)に有限会社化と十四代目継承、2005年(平成17年)に株式会社化。2017年(平成29年)時点では、粟田純徳(すみのり)社長が「第十五代目穴太衆頭」として活動を行っている。

wiki

建物自体は、普通の小さめの建設会社家屋に見えましたが、出ている看板が違います。

美しい穴太衆の石垣ですが、これは技術的には何がすごいのでしょうか?

僕が説明するより、地盤のプロがこのネタでブログ記事を書かれているので、そちらをお読みください。栗田建設さんのHPに書かれた穴太積みの解説をまとめ、さらに読みやすくしてくれています。

宅造法の技術基準で、石積擁壁は5m以下で練積みとし、3平米に1箇所の水抜穴を入れることとなっています。


建築紛争になると、石積擁壁が5m超だから危ない、空積みだから危ないなどという人がいます。もしそれが本当なら、姫路城などの20m以上あろうかという空積みの石垣の上に観光客を入れているのは、傷害未遂・殺人未遂に問われてもおかしくないことになります。

でもそんなことありませんよね。何かが違っているんです。

知り合いの永井さんが、自宅の近所ですごい石垣が創られているということで写真をアップしてくれました。


石には「第15代穴太衆頭 粟田純徳」と刻まれています。かっこいい~!・・・

穴太衆(あのうしゅう)積は美しい

閑話休題。

坂本というと、つい山麓の「日吉大社」「滋賀院門跡」「旧竹林院」などの有名どころが思い浮かびます。もちろんそれはそれで素晴らしいのですが、 メインの通りから、一歩横道にそれた横小路(大将軍神社の通り)なんかも街歩きが楽しめると思います。町家とその先の寺院街の石垣通りなど。

町家群。左側の町家にズームを当ててみると・・・

 ばったん床几。ふだんはこのように収納しておいて、腰を掛けたり(商談とか?)するときに倒して座れるようにします。元は陳列棚だったので、そういう使い方としても使われていたのかも。

格子窓に犬矢来  犬が家におしっこかけないように設置された?という説もありますが、この場合は格子出窓の下の空間塞ぎと、道路と家屋をゆるやかに区切るような役割をしているのかな。 これじゃ雪の重みには耐えられないですよね・・・

隣家境の処理。たぶん、水路中央が境界だと思いますけど、こういう風なしつらえができたら、連坦した家屋に連続性ができて、街並み的にはいい感じだよね って見てました。もっとも、隣も同じような建物でないとデザインとしては成立しないので、いろんな形状や色の家が並ぶ現代の住宅街への応用は難しいかもしれないのだけれど。 

このあたりに、最近の日本の住宅街があんまり美しくないよな って感じる要因の一つがあるのかもなんて思ったり。

寺院地区の石垣通り。統一感があっていい感じですよね。

 これらの寺院は昔の里坊(僧の隠居所)だったと思うんですけど、現代ではどうやって生計を立ててるんでしょう?成り立ちから考えて、檀家(お墓)がたくさんある とも思えないのですが・・・。こういう景観は残るといいなあ と思いつつ、そういう方面の持続可能性まで考えると、なかなか難しいところもあるよね とか思ったりして。