岐阜散歩 (名鉄株主優待利用旅)

大垣駅から岐阜駅までは、JRで12分。240円で移動できます。

岐阜駅に着いたら街歩きの前に、「シティタワー43」へ行きましょう。この43階に無料の展望台があり、これから歩く岐阜の街並みを一望できますから。

駅から北側を望む。正面に見える円錐形の山が「金華山」で、頂上に岐阜城の天守閣が立っています。市街地からは、非常に高い位置にあるんだなあと驚かされます。奥に見える緑地が、鵜飼で有名な長良川です。結構遠いですが、明日はあそこを目指して歩きます。

岐阜駅でちょっと奇異に思ったのが、駅前にデパートがないこと。駅前のデパ地下で弁当を買って、ホテルの部屋で食べる心積もりだった(かなりコスパ高い贅沢!)のですが、デパートはないし、岐阜駅には駅弁屋すらありませんでした。 成城石井があったから、そこで買いましたけど・・・

 もちろん岐阜にデパートがないわけではありません。 例えば高島屋。岐阜駅から離れた「柳瀬商店街」の一角にあります。 商店街のアーケードのなかに、高島屋が存在しているなんて今まで見たことがなく、新鮮な風景でした。 岐阜の人たちは、駅前で買い物をする場合は、名古屋まで出るんでしょうか?

岐阜駅前は再開発中のようで、先ほど触れた「シティタワー43」もその一環だと思われます。が、その足元には、まだ手つかずの広大なシャッター街が存在します。本来であれば、ここを再開発するのが王道だと思うんだけど。

「繊維問屋街」です。 戦争で空襲を受け焼野原状態となった岐阜駅前に、旧満州からの引揚者がバラック然とした小屋をつくり古着や軍服などを売るようになったのが始まりで、俗にハルピン街と言われたとか。

岐阜が繊維の街として発展してきた経緯もあり、問屋街は強大な政治力を持っているのでしょうけど、都市計画的な視点から見ると、駅前のこの広大で低層のデッド空間。現状「宝の持ち腐れ」に思えるのですが・・・

追記 記事を読んだ方から情報をいただきました。「昨年、繊維問屋街の駅正面に、道路を挟んで左右に2棟のタワーマンションが建つ計画が発表されている」そうです。  

興味が湧いたので調べてみたら、問屋街・駅西地区の再開発は現在進行形で、スカイウイング37,リブラ21や紹介したシティタワー43などが再開発で高層化されているそう。 失礼しました。

残る問屋街も、再開発事業が動いているようです。地権者が多いから実現に時間はかかるでしょうけど。  現状の問屋街が見たい方はお早めにどうぞ!

岐阜市 平成13年12月 「岐阜駅周辺地区整備計画の策定に向けて」アンケート  添付資料に加筆

ツインタワー(左右に2棟のタワーマンション)の完成イメージ図はこちらで見られます。→日本の超高層ビル   

つか、岐阜市中心部は不動産バブル中だなあ。

ま、街歩きを続けましょう。 江戸時代、岐阜の政治中心は長良川に近い(駅北)岐阜城ではなく、駅南にあった加納城でした。だから、古い街並みを堪能するなら駅南に向かうべき、でしょうけど、空襲で焼けちゃったみたいでそちらにはあまり何もなさそう。

そこで、岐阜の街東側の山沿いを、北へ長良川を目指し歩くことにしました。山すそには神社仏閣が点在しています。ちょうど、京都で上加茂神社を目指し、東山のほとりを北上する感じですね。

山の手前には「御鮨街道」っていう古い街道もありますから。古い街並みもちらほらあるかと。 御鮨って、長良川でとれたアユをなれ鮨にして、尾張藩が幕府に献上したやつですね。その運搬道ってこと。

途中、町中で「成金神社」★に寄ります。

うーむ、鳥居は金ぴかだし、後ろでタワーマンション分譲中だし、神社周りで公園整備を絶賛工事中。いかにも金回りがよくなりそうな神社です。朝早くから、結構な参拝者がいますしね。      ★正しくは「金(こがね)神社」です・・・

 岐阜市の中心市街地に来月、35階建ての再開発ビル「柳ケ瀬グラッスル35」が完成し、近隣の金(こがね)公園が芝生広場や遊具を備えた憩いの場にリニューアルされる。
柳ケ瀬商店街にあるデパート「岐阜高島屋」の南側に、再開発の構想が持ち上がったのは1988年で、昭和が終わろうとしていた頃。シャッターを下ろす店が増える中、議論を重ねた末にようやく2014年に地権者らでつくる「高島屋南市街地再開発組合」が発足し、19年10月に建設工事が始まった。

岐阜・柳ケ瀬に35階建てタワマン 公園も整備 3月4日に完成式

このあと「伊奈波神社」と「橿森神社」は行くので、「金神社」も参って三社参りとしゃれようかと。

岐阜市中心部に点在する3つの神社「伊奈波神社(いなばじんじゃ)」「金神社(こがねじんじゃ)、そして「橿森神社(かしもりじんじゃ)」は、それぞれ父・母・息子をお祀りする神社です。
夫婦・親子関係にあたることで、三社を巡ると夫婦円満や子宝・金運アップなど、さまざまな御利益が期待されるということで、江戸時代より「三社まいり」が伝わっています。

岐阜市「三社参り」で運気UPの半日トリップ

てこてこ歩いて、山のふもとにある橿森神社へ。 神社は特にどうということはないのですが、織田信長がこの神社の周辺で「楽市(楽座)」を始めたという場所なので。

もともと岐阜街道(御鮨街道)に面しており、信長が岐阜に入る前から市が立っていたよう。

後ろにある山の南側に、多くの塔頭を持つ「瑞龍寺」というお寺があるので寄り道します。ここは臨済宗の修行道場で観光地ではありません。が、山を北に背負い、観光客もいないから、雰囲気のある寺じゃないかと思いまして・・・

うん。いい雰囲気ですねえ。 見られるのはこのくらいですけど、塔頭の一つで、変なものを発見しました。

左側の石碑に「軍神広瀬中佐御母堂之墓所(側面に「昭和十五年」」とあります。「坂の上の雲」を読んだ人ならわかると思いますが、日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死し、日本初の軍神になった広瀬武夫の母かと。あ、でも確か大分出身のはず。なんでここに?

広瀬中佐異聞/1 太平洋戦争開戦の1年半前に建立 岐阜の寺門前に石碑 /岐阜
岐阜市中心部の梅林公園の近くに仏寺「雲龍院」(同市寺町)がある。その門前の脇に石碑を見つけたのは今年2月末だった。碑文は「軍神広瀬中佐母堂之墓所」。裏に「昭和十五年六月」とある。


広瀬中佐異聞/2 雲龍院に記録なし 頼るは史資料 「どなたもみえません」 /岐阜
「軍神の母堂」の墓を見ようと思い立ち、雲龍院を再び訪ねたのは4月半ばだった。電話で事情を話すと、藤田かよ子さん(82)が応対してくださった。
 「嫁いで60年近くですが、30年ほど前、またいとこと名乗る男性が一度、来たことがあります。長崎から来たと話していました。その後、広瀬武夫を調べている学者のような人がたまに話を聞きに来ましたが、何も分かりません。もうずっと、どなたもみえません」。寺は戦災を免れたが、記録は残っていないという。

毎日新聞 有料記事

有料記事なので全部は読めないけど、詳細は不明だそうです。そうですか・・・

そのあと、御鮨街道や山沿いの道を北上します。街道と言っても新しい建物が多いですが、ところどころに古い建物や趣のある横道が残っていたりします。

んで、伊奈波神社に到着。岐阜では有名な神社らしく、1月11日は平日なのに、初詣のため?アクセス道は車で渋滞発生中。僕は歩きだから関係ないけど。

延喜式神名帳に載っている神社で、岐阜の総産土神なんだとか、それじゃ混むかもな。

社伝によれば、景行天皇14年、武内宿禰が稲葉山北西の椿原(現在の岐阜公園内の丸山)に五十瓊敷入彦命を祀ったのに始まるとされる。壬申の乱の際に天武天皇が当社に戦勝を祈願したという。
 天文8年(1539年)、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在地に遷座した。この際、その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。以降も、岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けた。明治6年に県社に列格し、昭和14年に国幣小社に昇格した。
 『延喜式神名帳』では、美濃国厚見郡の神社として「伊奈波神社」の社名は記されていないが小社として「物部神社」の社名があり、これが当社に合祀された物部神社であるとされる。

wiki

そのあと 正法寺に岐阜大仏を見に行きました。

日本三大大仏の一つ。らしいですよ。

日本三大仏(にほんさんだいぶつ)は、日本にある大仏の中から代表的な3尊を選んだものである。うち2尊は奈良県奈良市の東大寺にある奈良の大仏と神奈川県鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏が挙げられる。残る1尊は時代とともに変遷しており、戦後以降は富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏や兵庫県神戸市の能福寺にある再建された2代目の兵庫大仏など諸説ある。

wiki

何がすごいって、この大仏、 木の骨組みに竹で編み、粘土を塗った上に紙(お経が書いてある)を張り、漆塗、金箔で仕上げてあること。中学校とか高校の体育祭で造るマスコットのハリボテと基本構造がおんなじ~。それで13mくらいのものを作るなんてね。   んで、この大仏を収める大仏殿も趣があるね。

これがお寺?って感じだよね。屋根の反りぐあいとか、どことなく中国風っていうか。 というのも、このお寺の宗派が、江戸時代に中国から伝わった「黄檗宗」だからでしょう。1832年に大仏開眼(完成)建物もそのころだろうけど、共に地方の寺が単独でよく作ったもんだよね。 

さて、もう少し歩いて、長良川周辺まで来ました。 ここには「川原町」という、古い街並み(商家)が戦火を逃れ残っています。広い範囲で残っていないのは残念ですけど、夕刻や朝方に散歩するとよい雰囲気です。

せっかくなんで、長良川にかかる長良橋を渡って対岸も散策してみましょう。国際会議場とかあるけれど、僕は崇福寺へ。岐阜生まれの快川紹喜が住職を務めたお寺です。

「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火自ずから涼し」 この言葉を聞いたことあると思いますが、美濃の国の生まれで快川紹喜(かいせん じょうき)の言葉です。
戦国時代の臨済宗の僧侶で、この崇福寺の職を務めた岐阜にゆかりの僧です。
崇福寺に61歳まで住し、甲斐の武田信玄に招かれ塩山恵林寺に入寺した、その後織田信長公の甲州攻めにより敵対する武将をかくまい、織田信忠の引き渡しを拒否したため焼き討ちにあい一山の僧と共に焼死した。そのときこの名言を残したとされています。


何の因果か分かりませんが、この崇福寺は織田家の菩提寺となってます

レッツ 岐阜

寺の内部は拝観していませんが、ご住職夫妻?はお庭の手入れをされており、非常にきれいに整えられていました。飾られていた門松が変わった形で(竹を斜めに切らず真横に切断している)、由来を聞いておくと良かったな と思いました。

長良川から見た岐阜城(金華山)です。ふもとに今宵のお宿、長良川温泉。

さすがの大河、かなり広い河川敷で、増水時でもかなりの水量を処理できるだけの空間があると思うんだけど、川沿いのホテルの擁壁には、洪水時の水位表示が。

うわ、ギリギリ。  穏やかな時からは想像できないですねえ。

岐阜からは、名鉄で帰りましたとさ。

*2023年10月14日追記  岐阜高島屋閉店だそうです。せっかく隣接して再開発ビルが完成するってのに、なかなかうまくいかないものですねえ。ま、僕らの世代だと、「どうしても百貨店で買わなきゃ」って品、ないですもんねえ・・・

岐阜市柳ヶ瀬地区にある岐阜県内唯一の百貨店「岐阜高島屋」が来年7月末で閉店することが13日に発表された。隣接地では今年、大型マンションが入る再開発ビルが完成するなど人流増が期待されていた中での撤退に、地元は衝撃が走った。市街地活性化に取り組んできた市の関係者からは「ショック。民間事業者の話なので尊重するしかないが……」と恨み節が漏れた。

「柳ヶ瀬ブルース」ヒットから11年後に開業、「街の誇り」岐阜高島屋が閉店へ

大垣散歩 (名鉄株主優待利用旅)

名鉄(名古屋鉄道)の旅なのに、大垣には名鉄通ってないじゃん! はい、おっしゃる通り・・・

名鉄の西の端である新羽島駅まで行くことにしました。竹鼻線とか羽島線とかって、こういう機会でもないと乗ることはないでしょう。が、新羽島駅の近くに観光対象は何もないの。

唯一あるのが、新幹線の岐阜羽島駅です。 てか、新幹線岐阜羽島駅はJR在来線と接続しておらず、列車でのアプローチはこの名鉄ローカル線のみ。なんつーか、いろんな意味で「無理こやっこ(政治的な落としどころとしてここに)設置された駅」って感じがプンプンしますねえ。 

長大な新幹線・岐阜羽島駅前に設置された、名鉄新羽島駅のしょぼさを見ても、名鉄の「付き合わされてしかなく設置しました感」がありありと見えるようです(笑)。

と、ともかくこの岐阜羽島駅前から、1時間に1本(550円)、大垣行きのバスが出ているのです。そこで、「そうだ 大垣行こう」となった次第。古くからの城下町だし水郷だし、街歩きが楽しそう。

バスは、巨大な「箱舟」の前を通ります。これ、東海道新幹線の車窓で目立ってたよねぇえ。なんかそのうちに解体されるかも だそう。

かつて、三洋電機の冷菜株主で、結構損を出した僕からすると、季節は違いますが

「夏草や兵どもが夢の跡」って気分になります・・・あ、大垣は芭蕉の奥の細道の終着点でもありましたね。 ははは。

「ソーラーアーク」三洋電機、大阪の不動産会社に売却 解体検討、岐阜・安八町
三洋電機(大阪)が岐阜県安八郡安八町大森にある太陽光発電施設「ソーラーアーク」を大阪の不動産会社に売却したことが29日、分かった。2001年に完成して以降、人目を引く斬新なデザインに注目が集まり、地元のシンボルとして存在感を放ってきた。
不動産会社の担当者は「今後の活用方法については未定。解体や売却も含めて検討する」と話している。

岐阜新聞

さて、大垣駅に着きました。駅前の大通りを歩きます。人口十六万程度の都市にしては、駅前商店街でけっこう店が開いていますね。立派なものです。 養老鉄道や樽見鉄道などの駅が大垣駅前にあり、まだターミナルとして機能しているからでしょうか?

このあと、市内を流れる「水門川」沿いに南下します。 

水門川はもともと、湧水を水源とする小河川だったのですが、大垣城整備に際し改修され、城の外堀兼運河として利用されました。したがって、大垣の旧城下町を囲うように流れています。多くの自噴水もあることから「水都」とされています。

川の水も割ときれいそうだし、橋に張り出しを設け水辺が眺められるよう、それなりに整備されていますが・・・

「水は遠きにありて思ふもの」というコンセプトに見えました。水都としての魅力を引き出すには、もっと水に触れられるような整備(例えば、中村良夫の太田川整備みたいな)があるといいよなって感じました。

途中、藩主戸田氏の菩提寺である圓通寺によりました。この方が初代藩主の戸田氏鉄さん(の銅像・大垣城)とお墓(圓通寺)。

戸田氏は、もともと三河国渥美郡を本拠にしていた氏族です。通説では、当時の当主戸田康光は、竹千代(のちの徳川家康)が今川氏へ人質に行く際、その護衛を任されました。ところが、裏切って竹千代を織田に売ってしまったされます。んでも、その割に一族は江戸幕府に厚遇されているんですよね。不思議・・・こうなると、「戸田康光の裏切りは事実ではなかった」 という最近の説が正しいのかもしれません。

★一西の嫡男が氏鉄くんです。

康光は竹千代を駿河に送ると見せかけ、今川氏の仇敵・織田氏に届けたため、今川氏の追討を受け康光・尭光は討ち死にした。ただし、近年の研究では戸田康光の裏切りは事実ではなく、松平・戸田連合対今川・織田連合の戦いに敗れた結果、今川氏に敗れた戸田康光は滅亡し、織田氏に敗れた松平広忠は命は助けられたものの竹千代を織田氏への人質に出すことになったとする説が出されている。分家して仁連木戸田家を立てていた康光次男・宣光は今川方についてその命脈を保ち、宣光系の嫡流が戸田宗家となった。

戸田氏の嫡流は徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつとして数えられた。嫡流は主に松本藩を与えられている。支流には主に宇都宮藩として7万石を与えられていた光忠系、主に美濃国大垣藩主として美濃に10万石を許されていた一西系などがある

wiki   戸田氏

大垣観光のおすすめは、市役所駐車場に車を停め、歩いて四季の広場から奥の細道結びの地記念館と住吉灯台(川湊)を散策することかもしれません。

市役所前にある桝屋を覗いて(大垣は桝の生産全国一だそう)
四季の広場 向かいに立つ、福祉会館の喫茶コーナー、350円で一日モーニングやってておすすめです。
こっち側の古い民家を利用したカフェもおしゃれだけれど
川湊のあと

ここが芭蕉の東北・北陸旅の終着点であり、伊勢へ旅立った地でもあります。

おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。
「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。


8月21日頃、美濃国大垣(岐阜県大垣市)に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。 結びの句
「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」

wiki おくのほそ道

旅への出発に際し詠んだ歌と対をなしていますね。「行く春や 鳥啼なき魚の 目は泪」

記念館入口の大垣市に関係したアニメの紹介

右の「聲の形」は割と有名なんですけど、左の「おあむ物語」が歴史マニア的には興味を惹かれますねえ。これは戦国時代を生き抜いた老女おあむ(父が石田三成に仕え、関ヶ原の合戦時に大垣城に籠城していた)が、平和な江戸時代に孫に当時のことを話して聞かせた物語です。

おあむの父は、石田三成配下の三百石取りの高級武士だったのですが、朝夕は雑炊を食べ、兄が山へ鉄砲撃ちに行くときは菜飯を炊いて弁当にもっていき、自分も菜飯が食えたので兄に鉄砲撃ちに出かけるようたびたび勧めて、行くとたいそううれしかった とか、衣類も十三の時自分で作った服が一枚しかなく、それを十七まで着ていたので、脛が出て恥ずかしかったとか、戦国時代の耐久生活を語ってくれる貴重な本です。

ま、最後は「当時は昼食を喰うなんて夢にも思わず。今の若い衆は衣類の好みに心をつくし、金を使い、食べ物にも好き嫌いを言ってもっての外」と小言を言って、孫に嫌われるんですが(笑)。人間はいつの時代もかわらんのぇ。

大垣は「美濃路」の宿場町でもありました。当時の大動脈である東海道は、名古屋の宮(熱田)から船で桑名まで渡るのですが(七里の渡し)、水難事故を恐れた旅人や貴人が遠回りでも海路を避け美濃路を行きました。

関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市)から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。
東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。

wiki 美濃路

往時の大垣の地理的ポジションはこんな感じだったようです。

舟運で伊勢湾と連絡できた大垣は、美濃路によって東海道と中山道を結ぶ役割も果たした。水上交通と陸上交通の結節点でもあった大垣は、伊勢湾、木曾三川、中山道を経由し、さらに琵琶湖、淀川水系を経ていけば太平洋から京、大阪そして瀬戸中井へと通ずるルート上にある。琵琶湖の北端は日本海の敦賀にも近い。つまり大垣は、近江以西と美濃・尾張以東をつなぐ関門・ゲートの役割を果たしてきたといえる。

林上「名古屋圏の都市を読み解く」より

今でも旧街道を歩けば、古い家並みがそこかしこに残っています。

柿羊羹で有名な、つちや本店

完全に個人の趣味ですが、角地に立つ旧家(商家に多い)では、家を変形五角形に造る場合があります。そうすると、五角形の家屋にどういう風に屋根を掛け処理するか?・・・これは見物です。隣家との接続点処理も含め、複雑な屋根の接合部は雨漏りのリスクが高まるため、手間(大工の腕)も金もかかるんですが。

そういうのを見ながらてこてこ町中を歩き回りました。

そうそう、あと東海地方にいると、広告とかなんかのスポンサーとして「OKB」という言葉に時々出会います。 OKBとはこちら↓。

はい。こちらが「大垣(O)共立(K)銀行(B)」の本店でございます。たかだが地方の銀行が、なんでこんなにスポンサーとかやってんだよ?と思ったら。

2015年(平成27年)4月1日より岐阜県の指定金融機関になった。
名称は、株主に旧大垣藩士族の士族と西濃各郡の地主の平民が協力して発足したので、「共立」とした。明治の前期、岐阜県内には6行の国立銀行が設立されたが、現存しているのは大垣共立銀行と十六銀行(第十六国立銀行)の2行のみである。
2007年(平成19年)3月期現在、預かり資産(公共債、外貨預金、年金保険、投資信託の合計)は7,123億円、個人ローンは7,367億円と、ともに東海3県に本店がある地方銀行・第二地方銀行間でトップの残高となっている。

wiki 大垣共立銀行

ははあ。大垣のみならず、東海地方有数の名門企業でございましたか。さようでございますか。

このあと岐阜市編に続きます。乞うご期待。