西尾の縄文時代

注意書きはこちら

ここでは、だいたい紀元前5,000年から紀元前500年ごろと見てください。(縄文前期~晩期)

縄文前期の気候はいまより暖かく、気候学では「ヒプシサーマル」と言われる時期に当たり、海面が今より4~6mくらい高かったと言われます(本によりいろいろ)。

つまり海岸線は現在よりずーっと内陸にあったのです。これを「縄文海進」と言います。

このころ西尾に住んでいた縄文人の痕跡として、「貝塚」があります。海で貝を拾い魚を取り、あるいは陸上で狩りをして食べたあとの貝殻や骨を捨てたところです。貝殻が圧倒的に目立つから「貝塚」です。

ゴミの貝殻をわざわざ遠くへ持っていて捨てる なんて面倒なことはしないでしょうから、当時の貝塚は、海岸線の近くにあったと考えられます。

そこで「西尾市史」「吉良町史」「幡豆町史」「一色町史」に記載された貝塚・遺跡の位置を地図に落とし、そう遠くない位置に海岸線が来るという条件から、標高6mを海岸線として作成した地図がこちら。 (佐久島に貝塚があるのですが、一枚図に入らず省略しまして、すいません)

縄文時代の西尾市(概略推定)赤の点が貝塚・遺跡あと

碧海台地と八ツ面山、それに東部丘陵以外海の底!

(左下に点線で示すのが、現在の海岸線。中央の点線は現在の矢作古川)

厳密には、ここに表示した貝塚の存在した時期は2000年の間に散らばっており、その間に気温の変化に伴い、海岸の高さは上下しました。図に示したのは一番進んだ時をイメージしています。

ちなみに、標高5mの位置は元図では分かりません。4mでやってみましたが、貝塚から海岸線までがあまりに遠くなってしまうため、たぶん標高5~6mくらいに海岸線があったと考えるのが妥当かと。ってことで、「概略としてこんな感じ」。

貝塚からわかることとして、人々は丸木舟で海に出て、網やモリを使って魚を捕まえていました。もちろん貝も拾います。貝はアサリ、シジミ、ハマグリ、カキなんかが多かったみたい。

陸上には鬱蒼とした照葉樹林が広がっており、採取したドングリやトチの実を石のすり鉢ですりつぶし、弓矢で鹿やイノシシを狩り、土器と火で調理して食べていました。宗教や祭祀のため土偶や石棒を持ち、人によっては抜歯もしていたようです。

 

参考

西尾市史に出ていた貝塚と標高の高さを示すと釜田貝塚(10m)、八王子貝塚(12m)、枯木宮貝塚(5m)、清水貝塚(5m)、新御堂貝塚(7m)

貝塚で発見された石器の中に、黒曜石(火山ガラス)製のものがあったそうです。この辺りで黒曜石が出るのは、長野県の和田峠です。市史も長野県諏訪付近の とあります。 それがこの地で出たということは、当時すでに交流があったことを示しています。

西尾の歴史を地理と絡めて語るぞ

新しいカテゴリーを立ち上げます。

文化財巡りをしているうちに、歴史や史跡は地理と大きく関わっていることに気づいてきました。

例えば   西尾市を貫く矢作川だが、新しい河道は江戸時代に掘られたもの。古くは矢作古川、さらに古くは弓取川として、今とは違う場所を流れていた。

例えば 西尾は海に面し、歴史上何度も干拓を行い土地を広げてきた。現在はそこに土地があることが当たり前なのだが、各時代時代の遺跡は、現在とは違う土地形状の中で建造されたことを考える必要がある。

でも、なかなかこの地形と歴史をひっくるめて解説してくれる郷土史ってないんですよね。(一番近いのは、吉良町史だけど、それを市内全域に当てはめてみたい)

だから、自分でやっちゃいます。

底本になるのは、 「西尾市史」「吉良町史」「幡豆町史」「一色町史」と、たぶん隣接する「岡崎市史」「幸田町史」「碧南市史」

また、地形図として国土地理院「デジタル標高地形図で見る東海地方の凸凹」DEM版を使います。これがデジタルと言いつつ、PDF形式でしか提供されないのが腹立ちますけど、まあね・・・

西尾市中心部のイメージはこちらです。

ちなみに、上の方を左右に流れるのが矢作川。矢作川の南の台地を「碧海台地」って言います。昔海がもっと内陸まで迫ってた頃、ここから南の逆三角形の高台は海に突き出した半島だったはず。 この辺りは律令時代には「幡豆郡」と呼ばれ、東側の山地のほうに郡役所がありました。

その時だかは分からんけど、西側の飛び出た半島を「西の尾根」とか呼んで、それが「西尾」のもとになったんじゃないか・・・って何かの本に書いてありました。出典忘れちゃった。すいません

僕は史学者でも地理学者でもないんで、厳密さは求めないでください。「郷土の歴史概要が分かればいいや」くらいの感じで見てください。  ではスタート。