西尾の歴史を地理と絡めて語るぞ

新しいカテゴリーを立ち上げます。

文化財巡りをしているうちに、歴史や史跡は地理と大きく関わっていることに気づいてきました。

例えば   西尾市を貫く矢作川だが、新しい河道は江戸時代に掘られたもの。古くは矢作古川、さらに古くは弓取川として、今とは違う場所を流れていた。

例えば 西尾は海に面し、歴史上何度も干拓を行い土地を広げてきた。現在はそこに土地があることが当たり前なのだが、各時代時代の遺跡は、現在とは違う土地形状の中で建造されたことを考える必要がある。

でも、なかなかこの地形と歴史をひっくるめて解説してくれる郷土史ってないんですよね。(一番近いのは、吉良町史だけど、それを市内全域に当てはめてみたい)

だから、自分でやっちゃいます。

底本になるのは、 「西尾市史」「吉良町史」「幡豆町史」「一色町史」と、たぶん隣接する「岡崎市史」「幸田町史」「碧南市史」

また、地形図として国土地理院「デジタル標高地形図で見る東海地方の凸凹」DEM版を使います。これがデジタルと言いつつ、PDF形式でしか提供されないのが腹立ちますけど、まあね・・・

西尾市中心部のイメージはこちらです。

ちなみに、上の方を左右に流れるのが矢作川。矢作川の南の台地を「碧海台地」って言います。昔海がもっと内陸まで迫ってた頃、ここから南の逆三角形の高台は海に突き出した半島だったはず。 この辺りは律令時代には「幡豆郡」と呼ばれ、東側の山地のほうに郡役所がありました。

その時だかは分からんけど、西側の飛び出た半島を「西の尾根」とか呼んで、それが「西尾」のもとになったんじゃないか・・・って何かの本に書いてありました。出典忘れちゃった。すいません

僕は史学者でも地理学者でもないんで、厳密さは求めないでください。「郷土の歴史概要が分かればいいや」くらいの感じで見てください。  ではスタート。

矢作神社と矢作川

岡崎市矢作町にある「矢作神社」に行ってきました。 この神社はそれほど有名な神社ではないのですが、西尾市にも流れている「矢作川」の名前の起源にゆかりのある神社なので、一度見ておかねば と思った次第です。

矢作川右岸23.4k地点に神社は位置しています。東海道と矢作川が交わるあたりで、ここに架かる橋を「矢作橋」と言います。

距離標

第十二代景行天皇の御代、日本武尊は東海の荒ぶる神、服従せぬ東夷を平定するためこの地(三河国蓬里〈ヨモギノサト〉)に着いた。ここは海のように広い川が洋々として流れ、民が言うには「東にそびえる高石山に賊が群がり人々を悩ます」と。日本武尊はこれを討たんと、矢を作る職人である矢作部たちに矢を作るよう命じた。矢を作るための竹は川の中州にあったが、川の流れは速く、矢作部たちは竹の生えている中州まで行けなかった。そこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり竹を切り取ってきた。矢作部たちはこの竹を用いて1万本の矢を作り、日本武尊は素戔嗚尊を祀り、賊を討ち果たしたと伝えられる。この矢竹の一部が矢作神社にある矢竹やぶであり、この故事によりこの神社は矢作神社と呼ばれることになったという。(wikiと神社の資料より)

川の中州に生えている矢竹の一部が、矢作神社にある「矢竹やぶ」だそう。下の写真ですね。真ん中にある石をうなり石と呼び、1335年、新田義貞が足利尊氏との戦で戦勝祈願を行った際に、この石が唸ったそうで。これを神の加護と信じて勝ったと。

矢竹やぶとうなり石

矢に羽根を付けることを「矧(は)ぐ」と言うそうで、「矢矧(やはぎ)」川→「矢作」川と表記されるようになったようです。このようなルーツを持つ岡崎には、竹矢を製造しているメーカーさんも残っているそうです。「竹製の矢」ってかっこいいんだけど、ジュラルミン製に押されてなかなか厳しい状況だとは思います。(ちなみにモトは高校時代、弓道部でした・・・)

神社の祭神は「素蓋鳴尊、豊受大神、保食神」です。

神社は矢作川の堤防に面しており、河川内はきれいに整備され矢作橋緑地として開放されています。中州に竹やぶは・・・ございません。

矢作橋付近

写真に写っている橋が「矢作橋」です。江戸時代はこの橋が、日本最長の橋でした。広重の「東海道五十三次・岡崎」にもこの橋が登場します。

岡崎 矢矧之橋 さ、さすがにデフォルメしすぎじゃないかね、広重君!

また戦国時代には、日吉(後の豊臣秀吉)と蜂須賀小六が出会った場所としても有名です。そのころは、橋ではなく渡し船だったのですが。

そうそう、「矢矧川」→「矢作川」で思い出したのですが、戦前の日本帝国海軍では、二等巡洋艦(軽巡洋艦)の艦名に「川の名前」を付けることになっていまして、「矢矧」という名前の巡洋艦が二隻存在しました。筑摩型防護巡洋艦2番艦の矢矧と、阿賀野型軽巡洋艦3番艦の矢矧です。

防護巡洋艦矢矧については、大正10年蒲郡港に停泊していた際、乗組員が矢作神社に参拝し1/100の模型を神社に奉納されたそうで、まだ神社に現存しているそうです。(展示してあれば見られる!と密かに期待して神社に行ったけど、展示してない!)

軽巡矢矧は1942年(昭和17年)に進水でしたから、戦争中で参拝とか悠長なことはできず、奉納模型はありません。この矢矧は、1945年四月戦艦大和に従い沖縄へ水上特攻し沈没しました(坊ノ岬沖海戦)。

こちらは、えーと、模型がモトの部屋にあります。(中央のフネ)

重巡利根・軽巡矢矧・駆逐艦照月

なんでそんなものが個人宅にあるんだよ~。

艦艇マニアなんですんません。プラモだし許してくれい。

地元にゆかりのある名前を差し引いても、最も好きな軍艦です。 魚雷発射管の上の航空甲板や、小さめの艦橋が、バランス取れてていいですねえ。(オタクの方だけ理解してください)