依佐美送信所記念館

ちょうど70年前のこの頃(正確には12月2日)、日本から一通の無線通信が発信されました。

文面は「新高山登レ一ニ〇八」。太平洋戦争開始を告げる、真珠湾攻撃の暗号電報です。この暗号文は、当時の連合艦隊旗艦「長門」から発せられ、2つの無線送信所で中継され、各地の隷下部隊に通達されたのですが、中継された送信所の一つが、愛知県刈谷市にあった依佐美(よさみ)送信所です。

電報は1941年12月2日に岩国市柱島沖合の旗艦「長門」から有線で東京霞ヶ関の東京通信隊(東通)に送信され、同所から船橋と依佐美から「中継」された。船橋から短波と中波が、依佐美から潜水艦向け超長波が送信されたと考えられる。

依佐美送信所

施設は近年撤去されたのですが、一部が残され記念館となっています。そこを訪れました。

もともとは、日本〜ヨーロッパ間の遠距離無線通信(モールス)を「長波」で行うことを目的に建設された施設でした。ヨーロッパとの通信は愛知県刈谷にある依佐美が送信所で、三重県四日市市に海藏受信所が設置され、名古屋に送・受信所をコントロールする中央通信局が置かれました。

初のヨーロッパへの通信は、1929年(昭和4年)、ワルシャワへ向けて送信されたものでした。 この歴史的経緯について、IEEE(電気・電子・情報工学関連の国際的標準化団体)が、技術進歩の一里塚としてマイルストーン認定を行っています。

施設は、通信回路、アンテナ、それらを動かすのに必要となる電力施設*、建屋等からなります。

*高周波発動機は安定した大電力が必要なので、専用変電所から供給された商用電流(交流)で交流電動機(モータ)を回し、その回転で直流発電機を回し発生した電流(直流)に再変換、制御して得られた安定した電流を直流電動機と高周波発動機に使用するという、複雑な手順を取っていました。

復元された施設内は機器でいっぱい。*機器は当時のもので、特に心臓部である高周波発電機は最先端だったドイツ製。機械遺産やら技術遺産やらに認定されています。

直流電動機(モータ)と高周波発電機

アンテナを張る鉄塔は、高さ250mのものが、横2列×縦4列の計8本。およそ500mの間隔をおいて建てられていました。

左上ー専用変電所 中央左ー送信所、中央左右〜アンテナを支える鉄塔8基
変電所とつなぐ専用電話。解説には 「1923」とあるので、大正12年頃のもの?

ところが、施設開設後じきに、小電力で通信可能な短波無線が開発されます。海外通信も短波が主流に。依佐美送信所でも短波設備を増築し、長波・短波の欧州向け無線通信の拠点として活躍・・・とありますが、実際には24時間のうち、短波を使うのが22時間、長波が2時間くらい。巨額の金を掛けた長波施設、正直宝の持ち腐れか・・・

ところが!長波は水中でも減衰が少なくよく届くことから、 潜水艦への通信に最適ということが分かったのです。(状態が良ければ、でしょうが、水面下15mでも受信できたそうな)てなことで1941年、依佐美送信所は対潜水艦の通信拠点として日本海軍の管轄下に。それが「ニイタカヤマノボレ」につながるわけ。

(真珠湾攻撃には)航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が選ばれた。

wiki真珠湾攻撃

施設は戦後、在日米軍に接収され、1994年に日本に返還されるまでは、米国海軍の送信所として使われていました(長波の施設に戻ったので、潜水艦向けでしょう)。

返還後、これらの鉄塔や送信所は撤去されましたが、僕は子供時代、付近を通るたびに「でかい鉄塔だな」と見ていた記憶があります。 

 送信所の跡地に記念館が造られたのが2007年。 

高さ250m鉄塔の一部(25m程度)が残されています。 鉄塔基部は逆三角形型になっています。これは・・・

鉄塔が風で揺れても荷重を下部に均等に伝えられるよう、球状基礎になっているから。鉄塔の保持は張線(ワイヤー)で支えていました。

短い余談  真珠湾奇襲電報にある「新高山」とは? 標高3,952m。当時の日本最高峰です。(富士山は3,776m)現在の台湾は玉山の旧称。

長い余談電報は1941年12月2日に岩国市柱島沖合の旗艦「長門」から有線で東京霞ヶ関の東京通信隊(東通)に送信され・・・」とあります。

桂島沖合の泊地に泊まっていた旗艦長門(連合艦隊司令長官・山本五十六座乗)から命令が発せられ、係船浮標に繋がれた通信ケーブルから東京へ有線通信されたんだろうけど、それなら連合艦隊司令部は船上ではなく、東京近郊の陸上にあったほうが指揮に有利だったんじゃないかなあ? 

日露戦争、海軍はほぼほぼ本土防衛戦。一回の決戦で決着がつきましたので、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が旗艦三笠で船上陣頭指揮を取ることが合理的でした。、けど、太平洋戦争で連合艦隊司令長官が戦闘で船上陣頭指揮を取ることはありませんでした。

日本海軍の対米戦略は、もともと本土防衛戦に近い、一回の海戦で決着をつけようとするものでした(補助兵器で敵艦隊を漸減させ、主力艦隊で決戦して勝利!)。したがって日本の主な軍艦は、この思想で割り切り設計された(一回使い切りもあり得る、防御力や航続力より攻撃力と速力重視)いわば「奇形の造形物」でした。 模型にするとカッコいいんだけど。

日本はまず、南方資源を確保する。そのときは当然ながら、アメリカの植民地フィリピンを押さえる。これに対して、アメリカはフィリピンを奪還した上で北上し、日本本土に向かう。これを日本はマリアナ諸島、ないしは小笠原諸島のラインで邀撃〔=迎撃〕決戦をする…ようするに、日本海軍にとって輝かしい歴史である、日露戦争における日本海海戦の再現を狙っていたのだ。

その際、艦隊決戦が行なわれるまでの間に、少しずつアメリカ艦隊の戦力を減らし、連合艦隊との戦力比を有利にするという、漸減作戦にも重きが置かれた。軍艦の要求性能もそれに基づいているので、日本の艦隊は遠くまで航海することを想定していなかった。

アメリカはあくまで仮想敵だった? 日米開戦を止められなかった「海軍の誤算」

が、山本五十六は、「そんな日本に都合のいい戦い方、起こるわけ無いだろ」と現実的に考えた結果、真珠湾を航空機奇襲し、一気に形を付ける「ばくち」作戦を実行します。

それでアメリカが音をあげなかったので、この戦争が1回の決戦で勝負がつかない戦いであり、戦域が広範囲に広がり長期戦になることも明白に見えていたでしょう(てか、賭けに負けたからあとは勝てる方法は無い・・・あとは絶対国防圏を守りつつ持久してチャンスを待ちつつ・・・軍人としての死に場所を探し・・・っていうのが本音だったのではないかと)。

であればなおさら、指揮・通信の有利さに加え、狭い船内での司令部の利便性向上や関係各所との連絡調整の容易さ向上のため、早期に陸上に移動すべきだったと思います。

(1994年5月、連合艦隊司令部が最後に海上。旗艦・大淀にあったときの司令部人員は、戦時増加要員を含まないで106人にもなります。 出典:学研「日本の軍用船」より) 

実際に連合艦隊司令部が陸上(横浜・日吉)に移ったのは、1944年9月。終戦までわずか1年。ここで移転しても、もう日本には油がなく、動ける軍艦がいない・・・なぜいつまでも船上にこだわったんだろ?

塩をめぐる話

毎日暑い日が続きますね。 塩分を取って熱中症対策をしましょう。

ということで、今日は塩を回る話です。 西尾と塩のつながりは、以前「塩の道〜三州街道」という記事で紹介しました。

三州街道とは、愛知県の岡崎から長野県の塩尻まで続く街道で、海岸で製塩した塩を、内陸へ運ぶ道として使われた街道です。

塩の道〜三州街道

この記事にいくらか追記をします。8月29日まで、西尾市の各種施設で塩にまつわる企画展示をやっており、1日で3施設を回ってきた成果でもあります。

岩瀬文庫(市立図書館本館併設)にて企画展「塩」、一色学びの館(市立図書館一色分館)にて企画展「一色の塩づくりの歴史と人びとのくらし」、西尾市塩田体験館(吉良町)こちらは常設で西尾市吉良町での塩作りの展示をしています。

日本の塩作りの歴史(史的に確認できる意味で)

721年 「常陸国風土記」藻が製塩に使われたことを示す最古の文献資料

901年「日本三代実録」塩浜(塩田)の記録としては最も古い文献資料

塩作り製法の発展

①海水を煮詰める

海水から塩を作るには、どうしたらいいでしょう?はい、海水を煮詰めれば塩ができますね。 事実、最も古い時代には、土器で海水を煮詰めて塩を作っていました。 が、海水に含まれる塩分濃度はわずか3%程度(それでも舐めると十分しょっぱいけど)。ただ煮詰めるだけじゃ効率が悪いです。もっと効率よく塩を作るには・・・なんとかして「濃い塩水」を作り、それを煮詰めればよろしい。 なお、「濃い塩水」のことを「かん水」というのです。 さて、日本人はいかにして「かん水」を得る工夫をしてきたか・・・

②藻塩焼き

藻に海水をかけて乾かす。その作業を何回か繰り返し、藻を焼いて灰にします。この灰に海水をぶっかけて濾過すると、海水より濃い塩水「かん水」が取れます。あとはそれを煮詰めます。常陸国風土記時代の製塩方法です。

③塩田(揚げ浜式)

固めた砂浜(塩浜)に、人力で海水を何度もまいては乾かし(天日干し)、塩分をたくさん含んだ砂をつくり、この砂を海水で洗い流してかん水を採る方法です。 三代実録にかかれているのが、この方法でしょう。  人力で海水を汲んでまいたり、砂を集めるのが重労働だけど、藻塩焼きより効率は良いでしょうね。

④塩田(入浜式)

潮の干満差を利用して塩田に海水を引き込む製法で、これにより海水を汲み上げる労力が要らなくなりました。碁盤の目のように引かれた浜溝から海水が塩田全体に広がり、毛細管現象によって砂の表面にしみ出すので、塩分を多く含んだ砂ができます。これを集めて沼井(ぬい)に入れ、上から海水をかけてかん水をつくります。入浜式の製塩は、室町時代末期にはすでに行われており、昭和30 年頃まで約400年にわたり盛んに行われました。

日本海水 日本の塩作り

上の解説で「沼井(ぬい)」と言ってるのは下の写真の枠のこと。西尾で「沼井」と呼ぶのかはわからないけれど。塩田から表面の砂を集めて箱に集めるの、超重労働だよね〜。

西尾市塩田体験館の体験塩田

それでも、「揚げ浜式」のように人力で海水を汲んでまく労働が無くなっただけでも大進歩!「入浜式」は、室町時代から昭和㉚年代まで行われた息の長い製法でした。この製法は瀬戸内海地方が発祥ですが、地域特性もあり、そこ(特に赤穂地方)が日本でもっとも製塩が盛んな地域になりました。 瀬戸内地方の優位点とは・・・

・晴れの日が多く、雨が少ない ・遠浅の海岸で、潮の干満差が大きい ・花崗岩質の砂質土(塩田に適す) ・海波が少なく海上交通に適す(塩の流通面)

うーん、小学校か中学校で習う「瀬戸内気候」と「地域の産業」と繋がりか・・・理にかなってますな。

あ、ちなみに塩田による塩作りは、江戸湾でも行われていたんですけど、江戸時代に江戸湾最大の製塩地帯だったのはどこでしょう?   

答えは 行徳(千葉県市川市と浦安市)です。 ネズミーランドは、その跡地なんだと。

戦時中に一時的に復興したものの最後に残った塩田も1949年のキティ台風によって壊滅的な被害を受けた。その後市川市・浦安市の沿岸区域ともに東京都心から至近にある・税金が都内よりも比較的低廉であったことで塩田だった土地の埋め立てが昭和中期から進行するが、この塩田が存在する最大の理由であった少雨・乾燥の気候が評価され、湿気を嫌う業種の事業所・工場が多数立地するようになった。舞浜の東京ディズニーリゾート、市川塩浜の物流倉庫群がその最たる例である。

 wiki 行徳塩田

⑤流下式(枝条架式)塩田

昭和30年代〜の、機械(ポンプ)を使う手法です。

昭和30 年頃から昭和46年まで行われました。ポンプで汲み上げた海水を緩やかに傾いた塩田に流し、塩田をゆっくり移動して乾燥してきた海水を竹の枝を組んだ「枝条架」の上からしたたらせ、太陽と風で水分を飛ばしてさらに濃縮させます。陽射しの弱い冬でも安定生産でき、砂を動かす重労働の必要もないため、入浜式塩田と比べて生産量は2.5 ~ 3 倍に増加し、労力は10分の1 になりました。

日本海水 日本の塩作り

生産力は上がり、労力は減るけれど、機械や設備を買うための初期投資が膨大。 ・・・西尾では、昭和28年の13号台風(13号台風の浸水については、前に記事にしました)で塩田が壊滅的な被害を受けたのを機会に、「愛知塩業組合」を結成し、集団でこの流下式塩田の設備を整え生産を開始(昭和32年)しました。

 海水を汲み上げるポンプに使う電力がすごくて、当時、中部電力西尾営業所の一番のお得意様が「愛知塩業組合」だったそうな。

が、イオン交換樹脂膜法による製塩(工場でやるから、天気とか関係ない)が普及し、昭和46年に全国の塩田は廃止されることに。

 昭和47(1972)年以降の日本の製塩法は、イオン交換膜と電気エネルギーを利用してかん水を採り、真空蒸発缶で煮詰める方法に変わりました。海水が原料であること、採かん・煎ごうの2 工程があることは従来同様ですが、これまでのような広大な塩田が必要なくなり、天候にも左右されないため、効率良く優れた品質の塩を造ることができます。

日本海水 日本の塩作り

西尾にあった塩田の「枝条架」は、その場で焼却処分されます。(それを組合員が見つめている写真が、塩田体験館に残っています。なかなか壮絶です。)

塩をめぐる神社話

・塩作りと縁の深い西尾市だが、塩に関係する神を祀る神社は、西尾市一色町にある「鹽竈神社」のみ。 ただし、特に塩にまつわる神事等はないし、地元では「塩の神」というより「産土神(生まれた土地の守り神)」という扱いのよう。

この神社、海を干拓してできた「新田」の鎮守が起源なんだけど、周りは家が密集した集落なんだ。でも、この神社前で標高わずかに0.5m。塩田にはいい場所だけど、堤防が逝っちゃうと、川の河口だし防災上やばそうだよう。(13号台風の教訓は?)

閑話休題。塩竈神社の本社たる宮城県の鹽竈神社ですが、その歴史を手繰ると、西尾(三河国幡豆郡吉良荘)ゆかりの人物とも縁があるようですな。

奥州管領の吉良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。

wiki鹽竈神社

吉良 貞経(きら さだつね)は、南北朝時代の武将。三河国幡豆郡吉良荘の前期東条吉良氏3代当主・吉良経家の子として誕生。奥州管領となった吉良貞家の弟で、兄を助け陸奥国における吉良氏の覇権確立に尽力した。

wiki 吉良貞経