「歩道橋」で考えたこと

真夏のクソ暑いさなか、歩道橋を渡ってこう考えたことはありませんか?

「なんで自分の足で歩く人間様(歩行者)が立体交差のため階上へ上がらされ余計に汗をかき、機械の力で移動する自動車(エアコン付)が、平面を通過していくんだ、おかしいだろ!!」

文語的に繰り返すと、 歩道橋を利用するのは主に児童生徒と高齢者、いわゆる「交通弱者」です。一方、自動車運転者は、いうなれば「交通強者」でしょう。

交通弱者(こうつうじゃくしゃ)とは、日本においてはおおむね二つの意味がある。一つは「自動車中心社会において、移動を制約される人(移動制約者)」という意味で・・・

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で、「交通強者」が利便性と高速移動性(平面交差)を得て、「交通弱者」が不便な立体移動と、通過に余計な時間浪費を強いられるのは、理不尽ではありませんか?

また、歩道橋は冬季には橋下を風が吹き抜けるため、地面に接する道路より凍結しやすいです。四本足の自動車が凍ってない道路を移動し、二本足の人間が凍って滑りやすい歩道橋を歩く・・・まじで危険を伴います。これ正当化できんの?

歩道橋建設は「経済性」とか「効率性」で正当化されてきて(公共事業なので、費用対効果分析をして「是」と判断されたはず)、現在もそれを改善する方向には進んでいません。でもその正当性、突き詰めると本当に正当化できるのかな って。

最近は老朽化した歩道橋を撤去して、横断歩道を復活させる という事例はあります、

新しい道路の開通にともなって新設された歩道橋がある一方で、古いものについて、架け替えではなく撤去されていると推測されます。実際、歩道橋が老朽化にともない撤去されて横断歩道に変わったという話は、最近よく耳にします。

古い歩道橋、架け替えではなく撤去のワケ 時を経てお荷物に? 維持管理に知恵絞る自治体

が、これだとそもそも歩道橋を設置した目的である「交通事故と渋滞への対策として歩行者とクルマを構造的に分離すること」を満たしていません。 「老朽化した歩道橋は危険だから撤去しなきゃいけないし、代替施設はお金がないから作れない」という身もふたもない行政の現実はもちろんわかるのですが、元の木阿弥に戻すって、社会としてそれでいいんでしょうか? 

日本が成熟社会になっていくにつれ、「弱者や少数派を救済していくべきだ」という思想は高まっていると思うし、実際セクハラやパワハラみたいな行為に対する抑制風潮は(まだまだ根深い問題とはいえ)急速に改善傾向にあることは事実だと思います。

それでも、同様の論理で「歩道橋を撤去し歩行者を平面交差させ、自動車を地下に走らせる」というような交通弱者救済プロジェクトは、聞いたことがないです。  もちろん現実的に難しいことは分かるのですが、そのような意見すらあまり聞かないのはなぜなんだろう と。

「日本橋で主に景観の観点から、首都高の高架を地下化する」というような巨大プロジェクトなら動いているのですけど、これは人が平面を通行することは満たされているわけだし、個人的には「景観」より小さな「人間移動の不便さ」をちまちま解消する方が先決じゃないか・・・と思うんですよ。ま、これは首都高の老朽化、耐震化の側面もあるでしょうけど。

都心環状線のうち日本橋の上部に架かっている区間(日本橋区間)については、特に2000年代に入ってから景観上の議論や沿道開発の具体化を経て、現在では「高架部分を撤去し、立体道路制度を活用して地下化」することが決まっています。

「首都高速道路と日本橋の景観をめぐる言説史」をたどりつつ「景観への感性」を考える 【その1 前編】

 

・・・先ほどの問いには簡単には答えなんて出ないのですが(★)、一つ技術的?な指摘を。

 歩道橋設置を正当化する根拠の一つとして費用対効果で図った「経済性」を挙げたのですが、ここで言う経済性は完全なものではありません。例えば、ここで述べたような「交通弱者が被る不利益や不便さ」は考慮されていません。ぶっちゃけ、そういう要素を定量的な経済価値に換算するのが難しいからです。

他にも考慮されていない要素は多々あります。まあ今の費用対効果分析はかなり「項目を絞った」あるいは「うまく計上できていない」費用しか見込めていない、不完全なものであることは確かです。 

んで、自動車を例にして「計上しずらいから計上されてない要素」をなんとか盛り込んでみたら、その費用はどのくらいになるんだ?ってことを大真面目に換算した経済本があります。 宇沢弘文「自動車の社会的費用」岩波新書1974です。

考え方としては、交通弱者にも十分配慮された道路を建設し、その建設費用を交通強者なり税金で負担したらいくらになる? というものです。

ある行動によって、第三者あるいは社会全体に与える被害のうち、本人が負担していない部分を社会的費用といって、通例なんらかの形で金銭的表示が与えられる。・・・

日本における自動車通行の特徴を一言で言えば、市民の基本的権利を侵害するような形で自動車の通行が認められ、社会的に許容されていることである。この傾向は高度成長期を通じていっそう加速化されたが、その後の低成長期に入っても修正されることはなかった。・・・

ウエブレンの制度主義の考え方により・・・自動車の利用によって市民の基本的権利が侵害されないような形で道路をはじめとする社会的共通資本を整備したとするとき、東京都の場合、1973年のデータを基にして計測すると、どんなに少なく見積もっても自動車一台当たり、毎年200万円となる。

「自動車の社会的費用」著者要約より抜粋 出典:弘文堂「社会学文献事典

 社会的費用の内部化は結局、歩行、健康、住居などにかんする市民の基本的権利を侵害しないような構造をもつ道路を建設し、自動車の通行は原則としてそのような道路にだけ認め、そのために必要な道路の建設・維持費は適当な方法で自動車通行者に賦課することによって、はじめて実現する。

このとき市民の基本的権利を侵害しないような道路とは、次のような構造をもつと考えてよいであろう。まず歩道と車道が完全に分離され、並木その他の手段によって排気ガス、騒音などが歩行者に直接被害を与えないような配慮がされている。・・・

また歩行者の横断のためには、現在日本の都市で使われているような歩道橋ではなく、むしろ車道を低くするなりして歩行者に過度の負担をかけないような構造とし、さらにセンターゾーンを作って事故発生の確率をできるだけ低くするような配慮をしなければならない。・・・

「自動車の社会的費用」 pp20

実際には巨額になるので、そのような整備は現実的ではないけれど、そのような方向性で道路整備はなされるべきだし、費用対効果分析はその方向で改善されていくべき という理想論としては成り立ちます。

というか、公共事業投資はそのような方向性であってほしいのですが。実際には自動車移動をスムーズにするものばかり・・・もう高度成長期じゃ、ないのにね。

宇沢弘文の文はやたら「、」が多くて読みづらく(上の引用文はだいぶ消したのだ)、内容も回りくどくて分かりづらい(当社比)のだけれど、「自動車の社会的費用」を発展させ提唱した「社会的共通資本」という考え方は、これからの時代に大事になって来る思想だと思うなあ。

経済学者の宇沢弘文(1928‐2014)が世を去ってから、今年の9月18日でちょうど10年になる。・・・
宇沢は、主流派の経済学(新古典派経済学)の理論にもっとも貢献した日本人経済学者である。しかし、それはおもに米国のスタンフォード大学、シカゴ大学で研究していた時期の業績を指している。没後10年に際して岩波書店が、「人間と地球のための経済学—今、宇沢弘文と出会い直す」と銘打ち、『社会的共通資本』や『自動車の社会的費用』(いずれも岩波新書)を推薦しているが、これらのロングセラー作品は日本に帰国してから著したものだ。


宇沢を語るのが難しいのは、米国時代の「前期宇沢」と、不惑の歳に帰国してからの「後期宇沢」、あたかも宇沢がふたり存在したかのように評価が割れるからである。とくに経済学者は「前期宇沢」を高く評価しながらも、「後期宇沢」を敬して遠ざけてきた。・・・

宇沢が構築しようとしたのは環境学であり、それは21世紀の経済学が進むべき方向を指し示していた。環境学の目的は、環境だけを大事にすることではない。「ゆたかな社会」について、宇沢が説いている。
「すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるという、本来的な意味でのリベラリズムの理想が実現される社会である」。
「ゆたかな社会」を実現するために、社会的共通資本を中心とした制度主義の考え方を、宇沢は提唱したのだった。

今よみがえる伝説の経済学者「宇沢弘文」の思想 21世紀の経済学者の課題「社会的共通資本」とは

 

追記(★)日本で「交通弱者救済プロジェクト」があまり流行らない理由候補の一つとして、これを宇沢の言う「市民の基本的権利」という問題として捉えると、この議論が参考になるかも。

日本で人権教育というと「弱者に寄り添い、優しく思いやりを持って接する」といった優しさ・思いやりの側面が強い。しかし、これは大きな危険性をはらむ。本来であれば人権の保障は「政府の義務」だが、個人の「思いやり」の問題に帰すれば、自己責任論がまかり通ってしまう。

「優しさ・思いやり」が強調される日本の人権教育、世界と大きくズレている深刻政府の義務が自己責任にすり替えられる危険性

国民の多くが、歩道橋という権利侵害の解消は「政府の義務」なのだと考えるのか、あるいは自己責任(自家用車買えとか、家庭で何とかしろ!)と考えるかにより、「交通弱者救済プロジェクト」の進度が変わる という考え方は、一理あるような気がします。

環境省流「火に油を注ぐ」会議運営法

「火に油を注ぐ」 ただでさえ危ないものに勢いをつけ、事態を悪化させることのたとえ。 また、激しい憎悪や恋情をあおることのたとえ。

コトバンク

模範的なお手本です(笑)。

環境省職員が水俣病被害者側の発言中にマイクの音を切った問題で、伊藤信太郎環境相は熊本県水俣市を再訪し、被害者らに直接謝罪する事態に追い込まれた。

 1日の患者や被害者らとの懇談後、伊藤氏は記者会見で職員がマイクを切ったことを「認識していない」などと発言した。

・・・懇談の場で司会をしていた同省特殊疾病対策室の木内室長によると、懇談の場では参加団体に3分ずつの持ち時間があり、3分を過ぎた場合にマイクを切るという運用方針を事前に決めていた。当初は会場で周知する予定だったというが、木内室長は「(メモを)読み飛ばしてしまった」と話す。昨年度も同じ運用方針だったが、実際にマイクを切ることはなかった。

謝罪まで1週間…後手に回った環境省 消音に省内からも疑問の声

まず大臣はアホですね。 でもこの人一応選挙に勝って国会議員になったんですよね。 

2009年、第45回衆議院議員総選挙に自民党から立候補。公明党の推薦も受けたが民主党の石山敬貴に敗れ、重複立候補していた比例東北ブロックでも復活出来ずに落選した。・・・2012年、第46回衆議院議員総選挙に自民党から立候補し、前回敗れた石山を大差で破って4選。国政に復帰。

wiki

落選の憂き目にもあってるんだし、地元のメンドクサイ有権者をうまくさばき、一票入れてもらう、関心を持ってもらう技術とその重要性は持っているはず。けど、環境大臣として(役所的には)メンドクサイ関係者に、環境行政に一票入れてもらう、関心を持ってもらう重要性は認識してなかったんですかね。 まあ、してなかったから今の事態を招いたんでしょうが。

次に、会議を司会していた(実務トップの)室長もドアホ。

本省勤務の国家公務員では俸給7級・8級に該当し、これらは高級官僚と呼ばれる範疇である。

wiki

大臣が出席する会議だから、そつなくこなすことの重要性は認識していたでしょう。毎年実施していた会議だから懇談会でしゃべる相手がどんな人でどんな話をするかは情報があったはず。にも関わらず「3分過ぎたらマイクを切る」と鬼ルールを定め、それを血も涙もなく実施してしまったたら、相手がどう思うか、どう反応するか、そしてどう報道されるか 当然想定できたはず。想定していなかった時点で、高級官僚としての評価は零点。

てか、

当初は会場で周知する予定だったというが、木内室長は「(メモを)読み飛ばしてしまった」と話す。

会議運用も役人として「ありえんだろ。零点」というお粗末なレベル・・・(本当ならね)

被害者と役所の関係においては立場も異なり、お互いどうしても寄り添えない部分、譲れない部分があり、理想的な形で懇談し問題解決にもっていく ということは非常に難しいこと(おそらく望めないこと)だと思います。

それでも会議を開催する役所側は(本音はどうであれ)その方向に向け努力していくという姿勢(とそのアピール) は当然必要なこと。

にもかかわらず、こんなルール定めて実行しちゃうって、「理想に向け努力していますという姿勢」がまったく感じられないですね。だから対話相手として信頼すらされません。

今回の会議は、広い意味でのリスクコミュニケーションにあたると思うのですが、信頼性を得るような努力はかっちり示さないと、環境省としても、会議やる意味ないと思うんだけど。

「リスクコミュニケーションとは、化学物質による環境リスクに関する正確な情報を行政、事業者、国民、NGO 等のすべての者が共有しつつ、相互に意思疎通を図ることである。リスクコミュニケーションの成功は、利害関係者間の理解と信頼のレベルが向上したか否かで判断されるとされている。」

リスクマネジメントをより適切に実施する上で、利害関係者間でリスクに関する情報、体験、知識などを交換しあいながら相
互理解を図らなければならない。ここで「リスクコミュニケーション」が必要となってくるのである。
 リスクコミュニケーションとは、化学物質による環境リスクに関する正確な情報を行政、事業者、国民、NGO 等のすべての者が共有しつつ、相互に意思疎通を図ることである。一般には、米国国家調査諮問機関(National Research Council;以下、NRC)による 1989年の報告書における定義が用いられている。
「個人、集団、組織間でのリスクに関する情報および意見の相互交換プロセスである。(リスクに関する情報および意見には)リスクの特性に関するメッセージおよびリスクマネジメントのための法規制に対する反応やリスクメッセージに対する反応などリスクに関連する他のメッセージも含む」同報告書では、リスクコミュニケーションの成功は、利害関係者間の理解と信頼のレベルが向上したか否かで判断されるとされている。

環境省 平成12年度リスクコミュニケーション事例等調査報告書