御嵩散歩 (名鉄株主優待利用旅1日目)

岐阜県可児郡御嵩町。 名古屋鉄道広見線の終点です。 せっかく優待で「片道無料」なら一番端っこまで行くのがいいよね(貧乏症なので)。  さらに、広見線が廃線になるかもしれないから というのも。廃線決まればマニアが押しかけてくるし、その前の静かなうちに。

西尾(8:00)→金山(乗り換え)→犬山(乗り換え)→新可児(乗り換え)→御嵩(10:01)

行ってみたら、御嵩は僕的には非常に興味深い土地だったので、その魅力も紹介します!なお、参考文献として御嵩町教育委員会「図録御嵩町の文化遺産」に頼っています。中山道みたけ館の2F(郷土館)でわずか1000円で購入可。御嵩マニアは必携!

愛知県犬山市から岐阜県可児市を通って岐阜県御嵩町までを結ぶ名鉄広見線。その一部区間が廃線の岐路に立っています。・・・廃線が検討されているのは新可児から御嵩までの約7.4キロの区間です。・・・名鉄は、この区間で毎年約2億円の赤字を抱えています。
2025年度までは沿線の御嵩町と可児市が毎年あわせて1億円を支援しますが、施設の老朽化も進む中で、名鉄は今の枠組みでは「路線の維持が難しい」と伝えていました。・・・今後の選択肢は2つ。沿線の自治体がさらなる負担を受け入れて存続するのか、廃線してバス路線に転換するのか、ことし6月に結論が出る予定です。

名鉄広見線 新可児〜御嵩間が“危機” 沿線自治体の“さらなる負担”で存続か 路線バスに転換で廃線か 6月に結論へ

僕は電車に乗って旅するのが好きなので、廃線は残念だなと思います。と同時に株主としては、毎年一億円も名鉄が赤字を負担してる路線なら、さっさと廃線すべきだとも思います。(僕の地元にも西蒲線という同じ状態の路線があります。思いはありますが、現状を考えると、うーん廃線やむなしかと・・・)

かつては栄えた御嵩と名鉄広見線の小史

せめて、広見線が「盲腸線」でなければ、廃線にはならなかったと思うのです。

盲腸線(もうちょうせん)とは、公共交通機関において営業距離が短く、かつ起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線のこと。

wiki

例えば御嵩駅を通る路線が名古屋鉄道広見線ではなく、JR中央本線だったら。廃線危機にはならなかったでしょう。鉄道や道路はネットワーク化してナンボな世界なんです。 

そして、歴史を紐解くと御嵩に中央本線が通る可能性も十分にあったのです。

まず、江戸時代の五街道の一つである中山道は、御嵩町を通っていました。御嵩は中山道49番目の宿場町として、そして願興寺の門前町として大いににぎわっていたのです。

今でこそ岐阜県東部(東濃という)の中心地は多治見ですが、当時は御嵩でした。明治時代には可児郡(現御嵩町、可児市、多治見市の一部)の郡役所、東濃四郡を管轄する御嵩警察署・裁判所と監獄、県東部で最初の旧制中学(県全体でも四番目)が置かれてたのです。

でも明治17年ごろ、中山道沿いに鉄道を敷設する計画が持ち上がった際、可児郡は猛反対。結局、国鉄(中央本線)は可児郡を通過せず多治見を通るルートで開通(明治33年)することになります。

 が、鉄道開通による経済・文化のもたらす力は予想以上。「やっぱり鉄道が必要」ということになり、地元で私鉄を設置します。それが「多治見から広見」と「広見から御嵩」までの路線。これが現在のJR太多線と名鉄広見線の前身です。

あの時、国鉄を誘致しておけばなあ・・・ 

御嵩の著名寺(「願興寺」「愚渓寺」)

願興寺の創建者は、なんと「伝教大師」と伝えられています。天台宗の開祖最澄ですね。 そんな大物がこの地まで来たんだろうか・・・古代からの主要街道が走っていたので、ありえるかも・・・(前掲書によれば、発掘された瓦の調査から、それ以前から寺があったのではないかと)

戦国時代に建てられた本堂は令和8年まで大改修中で見られませんが、たぶん金土日はお寺に電話予約すれば宝物館の仏像を拝観させてもらえます。

正確には拝観というより法要?です。 住職さんによる読経(般若心教)と拝観者の健康祈願、それに仏像の解説、そのあと拝観という感じ。盛りだくさん1時間くらいで一人の場合1000円。

 住職さんとお話しながらの拝観だから、博物館のように「好きなだけ見て終わり」という形ではありません。(小心者なので、しんしんと冷える宝物殿で老住職にあまり時間を取らせては申し訳ないと・・・。)

 第三週日曜が願興寺デーで、この日は11時から予約なしで拝観できるようなので、じっくり見たい人はその日を狙うと吉かもしれません。(確認はしてないので、要確認ください)

平安時代を中心とする仏像が所狭しと並びます。 重要文化財が23体。ご本尊(如来)は秘仏なので厨子の中ですが、脇仏(日光・月光菩薩)、四天王像、十二神将がすべてそろい、さらに釈迦と脇仏(文殊・普賢菩薩)、阿弥陀如来の坐像と立像。

何度も大火に遭っているそうですが、まだ表面の金箔が残る、驚くべき美しさです。プロポーションも素晴らしい。 「これだけの仏がこんな地方にある!」という感じ。大混雑の京都へ仏像見に行かなくいいっす!

ご住職によれば、「まだまだある」そうで、 恐るべきポテンシャルを持ったお寺です。

御嵩町教育委員会「図録御嵩町の文化遺産」より
御嵩町教育委員会「図録御嵩町の文化遺産」より

愚渓寺は町の北部にあります。北へ向かうと、御嵩富士が綺麗です。

このお寺の開祖は義天玄承(臨済宗)という僧侶です。京都龍安寺の開山者でもあります。

京都・龍安寺は石庭(石と砂だけで構成された象徴的な庭)で有名ですね。エリザベス女王が来日時に絶賛したとか。

中根金作「京の名庭」より

実は愚渓寺にも「臥竜石庭」があります。「図録御嵩町の文化遺産」によれば「義天は龍安寺に迎えられる以前、愚渓寺においてこうした石庭思想のもと「臥竜石庭」をすでに作り上げていた」とのこと。つまり、京都・龍安寺石庭の原型が、この庭ではないか と言ってるのです。ふむー。

まあ愚渓寺は途中で移転しており、そういう意味で言えば、これは義天作の石庭ではないけれども・・・

僕自身は「龍安寺石庭」が騒がれるほど素晴らしいのかよくわからんのですけど、ぱっと見て気が付くのは、龍安寺の庭は、塀で近背景をバッサリ切り落とし視線を石庭に集中させのに対し、愚渓寺は石庭の向こうの回遊式庭園にも視線が行ってしまう構造になっていることかな。

僕の感覚では、龍安寺は余計な物を思い切って削ぎ落したように感じました。言い方を変えれば「より洗練されてる」。「余計な物を削ぎ落す」庭の方が、禅修行する場の庭としてはふさわしいようにも感じました。

回遊式庭園は立ち入り禁止ですが、周遊道のわきに仏像?がぼこぼこ立っているような感じ。となると、善財童子の仏話をもとにしたのかも??

華厳経の入法界品には、善財童子が五十三人の善知識を尋ねて真実を求めてゆく旅の物語がえがかれています。
この五十三人というのが、東海道五十三次のもとにもなっていると言われています。

臨済宗円覚寺

キリシタン遺物

御嵩町の東部、中山道の謡坂(うとうざか)に「七御前」と呼ばれる古い墓地があったそうです。昭和56年に道路建設に伴いこの墓地を移転工事してたら・・・中世の五輪塔などに下に、十字を刻んだ石碑が3点発見されたそうな。

それを契機に、謡坂や小原を中心に相次いで隠れキリシタンに関する遺物が発見されたそうな。

それらの遺物のいくつかは、中山道みたけ館の2F(郷土館)で展示してあるので見ることができます。 中で一番興味を引いたのは、謡坂にあった幸福寺(曹洞宗)跡で見つかったという「南無阿弥絶仏」という石碑の写真。それと、この石碑の下から「子育て観音像」が見つけられたとのこと。この文脈では「子育て観音像」って「御子を抱く聖母マリア」ですよね。

「図録御嵩町の文化遺産」に書かれた「この地方でのキリスト教受難のあゆみ」によれば、(当時の可児郡域は、尾張藩領です)

寛文元年(1961)可児郡塩村でキリシタン信徒の捕縛行われる 尾張藩切支丹奉行を創設

寛文4年 謡坂村にあった曹洞宗の寺院「幸福寺」突如廃寺になる

寛文7年 尾張藩、幕府へ「領内信徒ほぼ絶滅」と報告する  

とあります。

その幸福寺跡地に「南無阿弥絶仏」碑か。発見者によると「石碑は全文字が地上に出てた」そうなので、江戸時代に建てられた碑ではないと思いますが(キリスト教が禁令のうちは、少なくとも「絶仏」部分は土中に隠すよね)なかなか興味深い。

できれば現物を見たいと思い、郷土館の方に場所を聞いてみたのですが、「少し山奥で道もない。簡単に行ける場所ではない」と。せめて謡坂と小原まで、御嵩駅(観光案内所)でレンタサイクル借りて行ってきました。

案内所のお姉さん、「レンタサイクルで謡坂まで行きたい」って言ったら絶句してました。「急坂ですよ!」行ってみて実感しました。電動自転車じゃなかったら僕も諦めてた。 そもそも謡坂って、上り坂があまりに急で、旅人が歌を謡って苦しさを紛らわせたところからきてたそう!納得。

途中にある「和泉式部の墓」(百人一首に出てくるヒト)
中山道謡坂石畳(峠部分・・だと思います。先は断念したので)
謡坂マリア像(迫害に耐えた先祖の慰霊と地域の平和を願う)
小原 キリシタン関連はともかく、「隠れ里」ではありますね

江戸時代に寺が廃寺になれば、何かの記録が残ってて、調べもあるだろ とおもい御嵩町図書館の郷土資料コーナーを一通り覗いてみましたが、これ以外の情報は見つけられませんでした。まあ禁教に関係ある寺なら廃寺関係資料は抹殺されたのかもねぇ。

おまけ 田舎の外食(昼食)

御嵩町で見つけた街中華にて。 ランチセット800円 すごい量でしょう。

多めのご飯、ミニラーメン、から揚げ、漬物、油揚げとはんぺんの煮物。

僕は岐阜や長野の田舎暮しが長いのだけれど、 そのあたりでは「外食と言えば大量(チェーン店除く)」「名店と言えば当たり前に大量」というのがデフォルトなんですよね。けっこう日曜定休だったりもする。

あとそういう店では、ラーメンは茹ですぎ、ご飯は柔らかめ というのもままあること。年寄りが多いからかなあ?まあ久しぶりで懐かしいもてなしだったです。ゲフー。

宮路山・五井山、赤坂・御油宿そしてラーメン山岡家

地元で人気の宮路山(362m)・五井山(454m)に登ってきました。 地元なのに初めてだけども。

平日の7:35。自宅をカブ(原付二種)で出発。ちなみに仕事日はたいていこの時間に家を出ます。

宮路山登山口(内山駐車場)には8:30到着。車が2台くらい止ってました。まあもっと上まで車で行けるから、多くの人はそっちに駐車しますよね。山登りが久しぶりだったので殊勝にも「下から歩きたい」と。さっそく登り始めました。

こんな感じの気持ちいい里山を歩いていくと峠(切通し)に出て、

その脇に第一駐車場。行きはいいけど、帰りは「バイクここに止めればよかったー」と。

そこから15分ほどで頂上(9:15)。 標高の割に景色がよい(三河湾から渥美半島まで)のが人気の秘密です。

頂上には「宮路山聖跡」碑があります。 

大宝2年(西暦702年)の10月~11月、持統上皇が伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五か国に行幸され、途上ここに来たことを記念し、大正時代に建てられた碑です。

*蛇足ですが、大宝2年(西暦702年)という年が少し引っかかっていました。で、思い出しました。西尾市吉良町にある幡頭神社。ここの創建が大宝2年と伝えられているんですね。 祭神は日本の建国神話に関わり合いのある人物だし、この神社の創建は持統上皇の行幸と何か関連があるのかも・・・。

三河湾を一望できる岬の先端に鎮座する式内社 幡頭神社(はずじんじゃ)は大宝二年(702)の創建と伝えられ、平安時代初期に成立した『延喜式(えんぎしき)』にも記される古い神社です。祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)で、日本武尊の東征に従った建稲種命が駿河沖で遭難し、遺骸が宮崎海岸に漂着し、当地に葬られたと伝えられています。

西尾市観光協会

持統上皇は行幸を終えた12月に亡くなられているんですね。 そんな死期を悟った上皇の行幸集団が、こんな山の上まで来るか?と思ったアナタ。

実は先ほど紹介した「切通し」の看板に記載があるのですが、この山は古代東海道の道中にあるのです。さらにこの山は先に亡くなった息子さんとも縁があったようなんです。だから、上皇は実際にここに来られたんじゃないかな。

宮路山の名が歴史に出てくるのは大宝2年(702年)。このころ、持統上皇が三河を巡行。その最中(701年)に大宝律令が公布され、穂の国は三川(西三河)と統合され、三河の国となりました。
壬申の乱(672年)の時、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、皇子は宮道天神社の祭神となっています。
今となっては、宮路山山頂付近に本殿があるのは不自然にも思えますが、東海道ができる以前は、むしろこちらがメイン道路であったと思われます。鎌倉街道も宮路山山頂を通過していました。

宮道天神社 音羽商工会

三河国府から岡崎方面に抜けるルートは一筋しかない。それは現代の国道1号線(近世東海道でもある)や名鉄名古屋線が通る山間の地峡を通るコースである。しかし、平安時代にはこの地峡は通れなかった。なぜなら、このルートは現在より急峻かつ長大な沢で、かつて赤坂地区には湿地帯が広がっていた。ここ音羽川と山陰川が合流する地点(落合)は雨の季節には、通過困難な地域であったことは容易に推測される。この地峡を抜けるには沢の南西側の山の尾根や山麓に上がり、水を避けて歩くしかなかった。沢筋のルートが通れるようになるのは、室町時代以後の事だという。

平安時代東海道はなぜ宮路山を通っていたのか  更科日記紀行

少し休んで五井山へミニ縦走。南西に2kmほどでしょうか。視界は利きませんが、それほどアップダウンもなく10:15に五井山頂上に到着。三河湾がさらに近い~。

早いですがここで昼食。 持ってきたガソリンストーブでラーメンを作って食べました。

レギュラーガソリンが使えるので、カブツーリングには最適な装備かなあと思ったりして。なぜなら燃料はカブのタンクから抜き取ればいいし、ボトルはいざとなればカブの予備ガソリンタンクとしても使えるだろうし(カブの燃料タンクは満タンで4Lしかない)、最適な装備じゃろ と思ってたけど、久々に使ったガソリンストーブ、面倒だわあ。

そういや。このストーブは「新富士バーナー(ブランド名はSOTO)」製なんだけど、新富士バーナーって宮路山のふもとの海岸べりにあるんだった。関係ないかぁ。

五井山を11時に出て、内山駐車場に下山したのが12:30 久しぶりに山登りしたから結構くたびれた・・・

が、登山口(音羽町)は昔、赤坂宿と呼ばれた東海道の宿場町。ちょっと覗いていきましょう。と言っても昔ながらの街並みががっつり残っているわけじゃないんだけどね。

それでも、昔の旅籠である旧「鯉屋」が資料館として残ってたり(現在の屋号は大橋屋で、江戸時代の建物のまま2015年まで創業から366年営業してたそうな!)

はす向かいの尾崎屋さん も風情あるよね。

んで、赤坂宿の東隣の宿場が「御油」なんだけど、その道中に天然記念物「御油の松並木」があります。

御油の松並木

少し前に同じく東海道は池鯉鮒(知立)の松並木も見に行ったんだけど、御油の方が雰囲気があっていいいね。 知立の方は自動車がひっきりなしで雰囲気が・・・

知立の松並木 知立散歩より

なお補足ですが、御油の松並木の天然記念物指定は、なんと昭和19年11月。敗戦の色濃くなってきた軍国日本では、松の根をから「松根油」を作るため、全国で「松の大虐殺」が流行してた時代。 当時絶大な権力を持った軍の意向に逆らい、文化財指定することでこの松並木を守った関係者の勇気と慧眼、素晴らしいです!

松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。広義にはテレビン油の一種であるため、松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。
・・・戦時中の宣伝によると「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」とされ学徒を動員し伐採が行われたが、これは数十年かけて育ったマツ1本を消費してもわずか18秒分にしかならないということであり、バイオマスエネルギー資源としては効率および再生産性に欠ける。

wiki

学徒動員して松の根を「手作業」で掘らせる前に、費用対効果分析(コスパ計算)やれよって感じです。これが滅私奉公日本帝国の真の姿(笑)。さっさと降伏しなよ・・・

御油は、あんまり「旧宿場町っぽい」印象に残るものはなかったです・・・。と、説明が通り過ぎてしまいましたが、松並木より赤坂宿側に関川神社という小さな神社がありまして、そこに松尾芭蕉の句碑が残っています。

「夏の月 御油より出でて 赤坂や」

夏の月の出ている時間の短さと、赤坂ー御油宿場間の短さ(1.7km)を掛けたもの でしょうけど、うーん、芭蕉が読んだといういわれがなければ、これ駄作じゃね?

ま、それはともかくなんでこんなに宿場の距離が短いのでしょう?うーん、元は赤坂御位という一つのでかい宿場だったのを分けた・・・らしいんですが、なぜ分けたかは不明。

ただ宿場間の距離が短かったので、両宿間の客の奪い合いは激しかったようです。広重の東海道五十三次の浮世絵では、御油が「旅人留女」。赤坂が「旅舎招婦ノ図」。

「旅人留女」・・・旅人の荷物(首に巻いた風呂敷包み)を強引に引っ張り宿に拉致ろうとする女中と苦し気に逃げようとする旅人

「旅舎招婦ノ図」・・・宿内部を描いた絵。片隅で飯盛り女(遊女)が夜に備え化粧している

強引な客引き、かたや遊女で客を引く、見事な対比図です。あ、歪んでごめん。

広重と歩こう 東海道五十三次「赤坂」「御油」 より引用

さて、後は帰るだけだけど・・・誘惑に負けてしまった。時に13:00・山岡家音羽蒲郡店!

アンタまたラーメン喰うんかい。・・・だ、だって道沿いにあるんだもの、仕方ないじゃないか。それにこのあたりじゃここにしかないんだ(理由になってない)

この歳になると、平時はギトギト過ぎと感じるこのラーメンも、山登りと街歩きで疲れた身体だから「うめー」。 でもこれで690円って安いですよ。

 ここで山岡ラーメンからオッサンの昔小話を一つ。

 僕の大学時代なんすけど、我々の飲み会は二人部屋の学生宿舎で開催されることが多かったっすよ。飲める奴は朝まで、飲めない奴(僕)は隅でごろ寝してました。 んで朝方、誰かの運転で通称「牛久ラーメン」へ行って朝ラーして解散って流れ。 僕は飲み会より締めのラーメンが楽しみで。

それが、わが筑波大学での学生生活でございました。ちなみに「牛久ラーメン」の正式名称は「山岡家一号店」です。  その記憶があるから、つい山岡家があると入ってしまうことも。   いわば記憶の味を求めて、ですかね。

 閑話休題。「学生ほぼすべてが大学近辺に下宿し、若者だけで周りに大人のいない空間で時を過ごせる」ってのが「筑波大での生活のウリ」だったと個人的には思っています。(当時はつくばエクスプレスもなかったから、今はだいぶ違うだろうが) 

もちろんそれは良い面だけでなく、悪い面もあります(自堕落生活になりやすいとか、とかとか。身に覚えあり・・・)。でも後で振り返れば、それはそれでよい経験だった・・・かもね。

今度やんごとなきお方が同大学の学生におなり遊ばすわけですけど、そんな僕から見ると、東京から通学するなら筑波大選ぶ必要なくね? とも思うわけです。

警備の必要上無理と分かりつつも、学長も同様の趣旨で言われたんじゃないのかなあ。 

筑波大学の永田学長は26日、開かれた定例の記者会見で、秋篠宮家の長男・悠仁さまが来年春に入学されることについて「勉学を伸び伸びやっていただきたい」とエールを送るとともに、個人的な考えとした上で、「希望としては悠仁さまにも寮に暮らしていただければいいと思う」と述べました。

【速報】悠仁さま合格後、筑波大学が初会見 永田学長「悠仁さまにも寮に暮らしていただければ…」

と、変なラーメン談義すいません。