遺跡が「発掘」されるワケ(2.人為説編)

以前、「遺跡が「発掘」されるワケ」という記事を書きました。(今は自然現象編に改題)、

それについて「でも継続的に人が暮らしてきた都市でも遺跡は地下から発掘されますよね。 風成層の堆積速度なんて人の暮らしから考えれば微々たる速度で、掃除すれば簡単に排除できる程度だと思うから、別の要因があるんじゃ?」と質問を頂きました。

ううむ。確かにその通り。局所的には「洪水で土が堆積したから」説も成り立つでしょうけど、「都市全体が洪水で」というのは想定しにくいです。うーん。google 先生に聞いてみましょ。

最初に見つけたのは、京都の事例。ゴミ処理説。

京都の町も自然の土砂の堆積で埋もれていくような立地条件にはない。しかし、元の平安京の左京域(現在の千本通よりも東)では、2m以上にわたって地層の堆積が認められることがある。実はその殆どが盛り土なのである。考えてみれば当り前のことだが、現在のようにゴミ収集車がこない前近代の都市空間では、空き地や家の裏あたりに穴を掘って、埋めてしまうのが最も一般的なゴミ処理方法だった。そしてゴミ穴を掘った時に出てきた土を埋め戻すのだが、必ず捨てたゴミの分だけ土が余るので(本当は、土は掘ると膨らむので量は増える)、それを地表面に積んでならす(整地する)のである。かくして、遺跡は埋まってゆくのではなく、捨てられたゴミの分だけ埋められていくのである。

埋まらないのに、掘らないと出てこない…

京都国立博物館の記事なので、それなりの裏付けがあるものだと思います。 でも当時は今より資源リサイクルが徹底しており、ゴミの量は今よりはるかに少ないです。江戸の事例ですが、 古金、紙屑、古着物、空き箱、灰まで回収業者がいた時代です。(双葉社「江戸の暮し」より)人糞や生ごみは畑で肥料にしてたでしょうから、そこまで量が出るかなあ。

それにこの説明だと、日常生活で住居周りに盛土される理由にはなっても、住居「跡」が盛土される理由にはならないですよね。代々そこに住んでますって場合はどうなるか。 うーん、住居が一時的になくなり、そこが埋められる状況って ・・・

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「日常生活ゴミ」だけを想起してしまったからいけないので、メインは「火事で燃えた住宅や家財(災害ゴミ)」 だったと考えたらどうでしょう。 これなら大量に出ますし。「住宅跡を埋める」ことも可能です。

江戸の事例になっちゃいますが、江戸の町は火事が多いことで有名でした。その度ごとに発生する災害ゴミはどう処理したでしょう? 現代なら「処分場まで運んで埋める」というのが正解でしょう。ですがバックホウもブルドーザーも、トラックだってない時代。大八車で運ぶ・・・そりゃ無理。なので、住居跡も含めて敷き均し、その上に新しい住宅を建てたかもしれません。 

現代の知識(住宅火災の現場映像や土木建築技術)から考えると、燃え残りの建築資材や家具を土に埋め、その上に新居を建てる なんてちょっと考えにくいです。ですが当時の消火技術や建て方を考えると、「動力ポンプで水をかけて消火」できない分よく焼け、運搬も大変だしその場でばらまき処理するのが合理的だったかも。 

「いつ焼失するかもわからない長屋も燃えることを見越して、あえて簡素な造りとなっていた」「完全に炎を消し止める現代の消防とは違い、当時の火消しの仕事は風下の家屋を破壊して延焼を防ぐことが中心だった。そのため、高所が平気で、家屋のつくり方、すなわち倒し方もわかる鳶職の者が火消しになった(同書)」

家の基礎だって、柱の下に石を置くだけ(礎石)だから、平行さえ取れば移動は容易です。もちろん、敷地に余裕のある武家屋敷なら災害ゴミは空き地に埋め、屋敷は元の基礎を再度使って再建したかもしれないし、余った土を敷き均した上で再建したのかもしれません。 それは火災の規模にもよりますね。

「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉が示すように、江戸は火災が頻繁に起こる都市であった。・・・木造建物が多かった江戸の町は、一度火の手が上がれば広大な範囲が焼き尽くされてしまうことから、その痕跡も江戸市中の遺跡で数多く発見されている。
 遺跡に残る火災痕跡は、①地表や礎石などの建物基礎部分が直接被熱した痕跡、②火災で発生した焼土や灰を敷地内に敷き均(なら)した整地の痕跡、③いわゆる「災害ゴミ」である被災した家財道具や建物の部材を片付けた痕跡などがある。江戸遺跡で発見される火災痕跡は、圧倒的に②・③が多い。
 二章三節二項・同五節二項で取り上げる交代寄合本堂家屋敷(愛宕下遺跡〈No.149〉、東京都埋蔵文化財センター編 二〇一四)を例に見ると、年代が最も古い火災痕跡は、被熱して赤化したり、膨れたりした瓦が大量に含まれた浅い落ち込みである。幅一〇メートル・長さ一四メートルにわたって屋敷地の一角に広がるもので、上面には部分的に焼土層が薄く広がっている。共に出土した陶磁器片の年代から、寛永一八年(一六四一)の火災で発生した瓦礫を屋敷地の一角に埋めて処理したものと考えられ、前述の③にあたる。また、この遺構の六〇センチメートル上方に、厚さ約二〇センチメートルの焼土層が広がっている(図1-3-コラムA-1)。この焼土層は「振袖火事(ふりそでかじ)」の名で知られる明暦三年(一六五七)の大火、もしくは寛文八年(一六六八)の大火で発生した焼土を、屋敷地内の空地となっていた箇所に敷き均した痕跡と考えられ、前述の②にあたる。このような焼土層は屋敷地内に点在しており、かなりの量の焼土が発生した証と言えよう。

港区史 第2巻 通史編 近世 上 火災の痕跡(テキスト)

が、人口密集していた町人地は敷地余裕がなく(長屋なんてまさに)、住居跡を含め敷き均しその上に新築。んで、また大火事が襲い・・・という繰り返しで土砂が蓄積していくという流れだったのではないかと考えました。

江戸(隅引内)の用途別面積  「江戸の暮し」より引用

 江戸町奉行所の管轄範囲(墨引内)の用途別面積をみると、武家地50%に対し町家15%なのに対し、人口は武家50万人、町民50万人と推定されるそう。町家はかなり密集して建てられていたものと思われます。

もちろん、「都市遺跡の覆土はほとんど焼土である」とは言えないでしょうから(「火災痕」という表現だし)、これがすべてではないけど、遺跡が「発掘」されるワケは、特に都市では、自然現象だけでなく、火事からの復興とか人為的な理由によるものも大きいのかなと。

最後に、yahoo知恵袋に似たようなQがあったので、僕が一番説得力ありそうと思った回答(人為説)とともに載せておきます。

  

Yahoo知恵袋

平安京(両京)と長岡京の比較は説得力があります。人為的に埋め戻したという結論に異論はないのだけれど「埋戻土」となると、大規模輸送手段がなかった時代に、どうやって運んだかという疑問が残ります。一戸だけならともかく広域ですからね。大量の埋戻土をどこからどうやって運んで来るのでしょう。

例えば、江戸建設時の日比谷入り江の埋め立てには、神田山(現代の駿河台、お茶の水)が切り崩されたそうです。量は違えど、大火の度にそれに類するような工事をしたわけじゃないだろうし・・・したのかな・・・

だから埋戻土=住宅の燃えカス(災害ゴミ)説を考えてみました。暮らす以上住宅は必要ですから、建築資材は外部から搬入したでしょう。それが何度も燃え、埋土になり、堆積し・・・と考えた次第です。

遺跡が「発掘」されるワケ(1.自然現象編)

遺跡調査と言えば、発掘=土中に埋まっているものを掘りおこすこと されるものですよね。あるいは出土=古い時代の遺物が土中から出て来ること されるとも言います。例えば最近の例で言うと・・・

戦国武将の明智光秀が琵琶湖畔に築いた大津市の坂本城跡(16世紀後半)で、長さ約30メートルの石垣や堀が見つかった。…
宅地造成のため、昨年10月から市が約900平方メートルを調査。高さ約1メートルの石垣が、長さ約30メートル分出土した。

明智光秀の「幻の城」坂本城で石垣と堀が出土 専門家は「奇跡」

遺跡が土に埋まっているのは、まあ常識なんですけど、その土ってどこから来たか知ってます?

普通に考えると、水害時に川から流れ出た土砂が平野部にたまるんじゃないか って答えになると思います。僕もあまり深くは考えず、漠然とそう思ってきました。歴史的に、平野部の川の流れなんてしょっちゅう流路を変えてましたし。

 では問題です。 丘の頂上に造られた古墳の上にたまっている土は、どこから来たのでしょう?造成当時の大規模古墳は表面が石で覆われています。でも今は土に埋もれていますよね。   うーん。これは川の影響では説明できないな~。

と、思ってもみなかった視点で突かれたのが次のブログ記事です。

風成層のことを軽視しすぎているかも

そーか。風成層=風に運ばれた土が堆積すること については軽視というか、そもそも意識されてない気がします。でも、洪水の心配のないところでも、遺跡は土に埋もれてますもんね。両方の視点を持たないとだめですね。

大きな古墳は造成時期も分かりますから、上に堆積した土の深さを測れば、その堆積速度も算出できてしまうと。おもしれ~。

ブログで紹介されている通り、早川先生の算出した堆積速度は1000年で10cm~100cmくらいだそうです。(早川論文へ)

続編で、自然要因だけでなく、人為的要因も考えてみました。よろしければご覧ください

ブログの続きも技術的に面白いです。

風成層をつくる塵は、古墳の上にだけ降るわけではなく、日本中、世界中に降ります。日本中の表層土砂は風成層と言っても過言ではありません。・・・山の土が同じような風成層だとしたら、当然強度も似通ったものになります。・・・実際、土層強度検査棒ベーン強度試験でc・φを計測してみると、結構似た値が出てきます。

基盤岩が違っても、表層土砂層の強度はあまり変わらないんだなぁと思っていましたが、実はそうではなく、同じ風成層を計測していたからのようでした。コロンブスの卵ですね。

そ、そうなのか。僕は土質力学の単位を2回落としたまま卒業しちゃったから知らんのかもだけど、こんなこと習った覚えは、無いなあ。・・・これ確かにコロンブスの卵かも。  

と、紹介されていた『土 地球最後のナゾ~100億人を養う土壌を求めて~ 』(藤井一至著)は蔵書にあったので、再読してみました。 内容はあんまり覚えてなかったのですが、再読してみたら非常に面白い、 ただ、構成がよくないのか、話題が飛んだり、重複してたり、言葉の使い方が不明確だったり、読みづらい部分があると感じたのも事実ですが。 

風成層や黒ぼく土について、へえーと思ったところを抜粋します。純粋な理系的書物ですけど、この辺りは遺跡発掘や景観、生態、特産物などとに密接にかかわっていおり、歴史とかに興味ある純文系人も、読んだら非常に刺激的だと思います。

  • 急な斜面の上では私だけでなく、土も踏ん張れずに風雨に削られる。これを土壌侵食という。雨に土が流される侵食(水食)もあれば、風に土が飛ばされる侵食(風食)もある。
  • 流出した土砂は山を下り、平野部に堆積している。遺跡の多くが大量の土砂に埋もれているのがその証拠だ。(P58)
  • 日本でよく見かける黒い土(黒ぼく土)・・・土が黒いことは、腐植の多い肥沃な土のあかし(P127-128)
  • 古墳や平安時代の遺跡の上に土壌が堆積していれば、平安時代以降に蓄積した腐植だと判断できる。
  • 調べてみると、日本の黒ぼく土の発達は異常に速いことが分かった。平均すると1万年の間に1メートル、100年に1センチメートルの厚さの土ができる(P131)
  • 黒ぼく土には、きわめて反応性の高いアロフェンと呼ばれる粘土が多い。この粘土が腐植と強く結合するために、蒸し暑い日本でも腐植は数千年も保存される。・・・同時に、リン酸イオンも強く吸着する。作物生育に必須な栄養分であるリン酸イオンが作物に行き届かなくなってしまう。これでは肥沃とはいえない。(P134ー135)
  • 腐植を多く含み肥沃に見える魔性の土は、実際のところ肥沃ではなかった。(P191)・・・リン酸イオンを吸着するアロフェンのため、日本の黒ぼく土は不良土壌とみなされてきた。救世主となってきたのがソバだ。ソバは・・・リン酸を吸収することができ・・・黒ぼく土地帯の特産物となった(P193)
  • 水を張ることで(水田)土が中性になり、リンの問題も解決する。ほかにも連作障害がないなどいいこと尽くめ(P197)
  • 食料不足だった日本が第二次世界大戦で満州や台湾に活路を見いだした一方で、水田にできない黒ぼく土の多くはススキ原野のままだった。戦後満州から帰国した人々は、満州のチェルノーゼムとは「似て非なる」黒ぼく土の開墾に苦しむことになる。・・・それまで農地として利用されていなかったのにはワケがあったのだ。転機となったのは日本の経済成長だ。日本円の力で改良したのが今日の黒ぼく土の姿である。畑にまいたのは札束ではなく、リン酸と石灰の肥料だ。(P191)
  • 日本の土もすごい    日本の土壌には、潜在的に水とリンがそろっている。世界人口が100億人へと突入し、水やリン酸資源の供給が不安定化する時代がやって来る。リン酸肥料が高くなれば、大量のリンの眠る黒ぼく土はもうかる土になる可能性もある。水の豊かさは土を酸性にしてしまう問題をはらんでいるが、それは石灰肥料をまけば改良できる。鉱物資源の乏しい日本にあって石灰石だけは自給可能だ。水もリンも石灰もある黒ぼく土の未来は、見た目ほど暗くない(P206)