知立散歩

友達に誘われて、知立へ食事に行きました。ついでにお泊りして知立を散策しましょう!と思いきや、予定日は大雨の予報。レンタサイクルで郊外の無量寿寺まで行きたかったのですが断念。朝6時から2時間弱、散歩しました。

名鉄知立駅では、現在線路の高架化工事を行っています。それに伴い駅前も現在進行形で整備中。駅前にタワーマンションとかできてるんだね。

正面が知立駅(北口)右手が宿泊した東横イン

駅から北側に少し歩くと旧東海道に出ます。 今は「知立」と書いて「ちりゅう」と読むのですけど、江戸時代は「池鯉鮒」と記載していました。つまりここは東海道五十三次の一つ「池鯉鮒宿」なのです。しかし難読地名ですね。 池+鯉(コイ)+鮒(フナ)って、どんないわれがあるのでしょう? 

和銅元年(708)「知立」と制定され、村上天皇の時の「和名抄」には智立郷と記されている。また「茅立」「智里府」「知流」「池龍」「池鯉鮒」とも古書にあるが、江戸時代は東海道五十三次の「池鯉鮒宿」としてにぎわったところである。

人文社「郷土資料事典 愛知県・観光と旅 県別シリーズ21 」

制定の意味が分かりませんが・・・知立郷ができた(中央政府に認定された)ってこと?

知立神社領で殺生禁断であった御手洗池には鯉や鮒が多かったという。地名の由来というより風流な当て字である。

松岡敬二「古地図で楽しむ三河

最初に「ちりゅう」という地名を現す言葉があり、その音をどのように漢字表記するかという問題だったのですね。たしかに「池鯉鮒」は風流かもしれません。でも、初出は「知立」だったんだね。

閑話休題。東西に走る旧東海道を歩いていくと、街道がカギの手のように曲がっているところがあります。見にくくてすいません。下図左は江戸時代の宿場の絵図で、黄色の道路が東海道です。 東から来た道が中央で北に折れ、次に西に折れ続いていきます。 カギ折れ部の北正面には了運寺が、西側には知立城(桶狭間の戦い後に落城。江戸初期には将軍上洛時の御殿になった)が位置していました。現在も残っています(右図)。

知立城の解説看板を撮影 左:江戸時代の絵図 右:現在の地図
現在のカギの手部の様子。正面が了運寺、左手億に知立城跡(公園)

知立城主は、知立神社の神主でもあった永見氏です。うーん、永見氏と言ってもあんまりピンと来ないですね。 一つ来たのが(知立神社に銅像と解説があったので分かったのですけど)、後に家康の側室になった「お万の方」が氷見氏の娘だったということ。

天文17年(1548年)、三河国知鯉鮒明神の社人・永見貞英(志摩守)の娘として誕生する。名は、万、於古茶、松、菊子、於故満と伝わる。・・・はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされる。

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一応城主?の娘を女中として使うなんて、築山殿って相当身分が高かったんだね。

カギの手の出口あたりに老舗のあんまき屋があります。 知立名物「あんまき」といえば「藤田屋」が有名なんですが、google mapの口コミによれば、こちらの小松屋本家さんの方が旨いそうな。なら買ってみましょ。一個200円。google map情報によれば、開店は8時なんですが行ってみたところ、たぶん8時15分開店じゃないかと。

味は・・・よくわからん。そもそも僕、あんまきあんまり好きじゃないんだった(爆)。

あんまきはともかく、このお店は交差点の角にあるのですけど、右の通りに「あんまき屋」左の通りに「銃器店」の看板を掲げ、その組み合わせが意外で面白いです。中はつながっていて、ついでに?釣具も売ってる(笑)。家族経営の感じでしたが、すごい形態だな。

閑話休題。東海道を外れ、少し北に行くと、神社が見えてきます。知立神社です。(旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられたとか。)

ここは古くからある神社で、三河国の二之宮っていう格式の高い神社です。 ちなみに三河国の一之宮は、豊川市にある砥鹿神社。東海道三社はここと三嶋大社、熱田神宮。

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮、一ノ宮、一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もある。

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この神社の見どころ一番は、多宝塔ですね。(重要文化財) 室町時代の建立と言われています。神宮寺(神仏習合思想に基づき、神社内に建てられた付属寺院)の一部だったものが、明治の廃仏希釈の難も「神社の文庫」として逃れ、現代に至る という歴史があります。

敷地内には石橋と、「御手洗」という名の池があるんですが、まさかこの小さな池が「池鯉鮒」の字の由来じゃないよね・・・(解説看板には、そのようには書かれてなかった)

境内には大戦期に建てられたのであろう、こんなものも。

正面の「千人灯」を揮毫したのは、陸軍大将・松井石根とあります。極東国際軍事裁判で絞首刑になった七人のうちの一人ですね。 他三面の揮毫も陸海軍将官でしたが、知らないなあ。 松井の出身は名古屋ですが、知立とゆかりのある軍人だったのかな?

ところで、安藤広重の東海道五十三次では、池鯉鮒を次のように描いています。

池鯉鮒「宿」はどこ・・・?

実はこれ、春に池鯉鮒宿の東の野原で開かれる馬市を描いたものなのです。東海道を東に向かってしばらく(かなり)歩くと、国道一号線とぶつかります。そのあたりの街道筋には松並木と「馬市跡」の石碑が残っており、当時の風情が感じられる・・・か。

解説看板にはこの松並木に馬市に出す馬を繋いだんじゃないか とあります。 そうか、ここか。広重の浮世絵とは全然違うけど(現地に来ず、想像して書いた画なんで)。

奥の石碑には万葉集の歌(持統天皇)が彫られています。このあたりの地名は引馬野というのですが、歌に出てくる「引馬野」がここと言われているそうで。

新居関所・濵名惣社神明宮

浜名湖の南と北をくるりと回ってきました。 んで、立ち寄った先を紹介します。

新居関

東海道五十三次において、舞阪宿から新居宿の間には浜名湖が海(遠州灘)とつながる今切口があり、両宿の間は「今切の渡し」という船旅となります。

「荒井渡舟ノ図」 小学館 広重と歩こう東海道五十三次 より

江戸時代は徒歩の旅ですから、船旅は楽だな~と気楽に思っているとさにあらず、新居宿側で船を降りたそこは、関所の船着き場。問答無用で怪しい人間がいないか詮議されました。

船着き場跡から見た新居関所  確かに学校(閑谷学校とか)みたい

詮議場である関所建物が日本で唯一現存しているのがここなのです。国の特別史跡に指定されています。現存する建物は安政2年(1855)年と幕末に建てられたもの。明治2年(1869)に関所は廃止されたけど、建物が新しいからか破壊は免れ、小学校や役場として使用され、現在まで残されたとのこと。

江戸時代の関所では「入り鉄砲に出女」と言われるくらい、江戸から出る女性、江戸へ入る鉄砲について厳しく調べられました。

「入鉄砲出女」とは関所の機能についての端的な表現として用いられた言葉である。江戸の治安維持のため、①「江戸に持ち込まれる鉄炮(入鉄炮)」と、②「江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が脱出するのを防ぐため江戸を出る女(出女)」を取り締まった。江戸と地方を結ぶ関所を通過する際には、入鉄炮には老中が発行する鉄炮手形、出女には留守居が発行する女手形の携帯が義務付けられていた。

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ここ新居関には女改之長屋があり(建物復元)、「広重と歩こう東海道五十三次」によると、人見女により胸までの上半身、手足の怪我跡や身体的特徴まで細かく調べられ記録されたとのこと。恥辱的な検査なので、この関所を嫌がる女性も多かったとか。

そこで、浜松から東海道を外れ、浜名湖の北側を通り、豊川を経て御油で東海道に復帰する道を選ぶ人たちもいたようです。

が、浜名湖北側の気賀にも関所があり取り調べはあったようです。気賀関のほうが女性の取り調べが優しかったのか、船旅を嫌った女性が陸路を取ることが多かったからかなのかは分かりませんが、これを俗に「姫街道」と称し今もその名前が残っています。

閑話休題。厳しい詮議を乗り越え、関所の大門を出れば、今夜の宿?である新居宿。関所で緊張して疲れたから、今夜はここで休んで英気を養いたいなー。精力のつく食べ物と言えば、浜名湖と言えば・・・

新居宿側から見た旧東海道と関所大門

新居には古い街並みや露地が残っているようですが、暑すぎて回れませんでした。有名どころの旅籠紀伊国屋(新居宿最大規模の旅籠、紀州藩御用宿でもあった)と小松楼(芸者置屋)だけ見て退散。先ほどの答えですが・・・紀伊国屋の名物は鰻の蒲焼だったそうです。やっぱ鰻っす!

小松楼

食事と言えば、現代の僕は関所の前にある「味楽酒房豊千」でランチを食べたのですが、これが素晴らしくてですね。

メインを2種類選ぶ定食 にて、刺身と天ぷらを選んだこちらの定食が、なんと880円(税込)。素晴らしい。刺身は新鮮だしね。

このあたりも西三河と同じ赤味噌文化圏なんですね、なかなか腰の据わったおいしい赤味噌の味噌汁でした。・・・他の地区の人だと、おいしく感じない人もいるかもなあ・・・あまりに素晴らしい(値段も味も)ので、翌日も伺おうと思ったのですが、お休みでした(笑)。 

新居からは少し離れるのですが、ここまで車で来られた方は、弁天島経由で「浜名湖ガーデンパーク(駐車・入園無料)」まで行き、300円払って展望塔を登ることをお勧めします。浜名湖の絶景が楽しめますんで。 イベントのない平日でしたので、この風景が独り占めできました。冷房完備!(30分以上涼んでました)

この公園、暑くなければ十分時間をかけて散策する価値がありますけど、なにせ暑すぎて無理でした・・・

ガーデンパーク内 国際庭園を望む
展望塔から南(浜名湖)を望む 橋の向こうは渚園キャンプ場
西側を望む。正面山脈の向こうが愛知県。東海道は海際を通りますが、姫街道は山脈を越えます(本坂峠)

名惣社神明宮

ミカンで有名な三ケ日にあります。もう少し北に行くと、湖北五山として有名な摩訶耶寺や大福寺があり観光客はそちらには行くでしょうけど、こちらの神社はマニアしか来ないと思います。何しろ駐車場がどこにあるかわからなかったくらいですんで(笑)。

浜松市教育委員会が建てた紹介看板によりますと、このあたりは太古の昔、濱名縣(はまなあがた)といって、そこを治めた縣主が祖神太田命を祀ったのが始まりだそうです。

縣主というのは大化の改新(645)以前の地方官(豪族)なので、真偽はともかく相当古い歴史を持っているようです。看板によればそのあと、ここらが伊勢神宮領(御厨)になった関係で主神が天照大神に変わったのではないかと。

その他、この神社が延喜式神名帳に記載された式内社の論社(記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社)にあたること。江戸幕府が寺領を与えていたとのこと等、 かなり格の高い神社です。名前の通り、地区の総社(惣社)でもありましょうし。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう、しんめいちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名式上・下のことで,この部分だけがとくに取り出されて「延喜式神名帳」と呼ばれるようになった。・・・延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。式内社は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。

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境内で見るべきものは、こちらの本殿です。階段上がるの禁止なので、建物は見られないのだけれど・・・国の重要文化財。

本殿は浜名神戸より伊勢神宮へ貢進品の収納庫として使われたといわれ板倉造(井籠造)という全国でも類の少ない古式の形式で歴代の将軍・国守の尊崇の念が厚く特に豊臣・徳川両氏の代々の将軍は掟を定めて朱符の田四十二石を寄進して崇敬の意を表している。

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浜名総社神明宮は、古くより伊勢神宮の御厨があった浜名湖の北辺に位置する神社である。本殿は、江戸時代後期の建築で、高床とせず礎石上に土台を置き板材を井籠に組む板倉形式で両側面の棟持柱で棟を支える、他に類例のない特殊な建築形式をもつ神社建築として貴重である。

しずおか文化財ナビ 浜名惣社神明宮本殿 静岡県

板倉造(井籠造)とか言われてもなんだかわからないかもしれませんが、イメージしやすいのはログハウスかな。これは丸太を井の形に組んだ壁を構造材として家を構成する手法です。その丸太を板に置き換えたもの と考えればよいかと。

 あるいは東大寺の正倉院(校倉造)に近いものと考えても良いかと。 まあ神明宮本殿は高床式ではないという見た目の違いはありますが、建物構造としては同じ。

木材を井桁(いげた)状に積み重ねて四面の壁とした建築構造。井楼(せいろう)造ともいう。三角形の稜(りょう)を削り落としたような木材による井籠造を校倉(あぜくら)造ともいう。弥生(やよい)時代の高床(たかゆか)の穀倉のように、古くから倉庫建築にこの構造がみられる。
コトバンク 井籠造