中山靖王・劉勝の末裔

僕は三国志が好きで、時々ゲームでも遊んでます。

曹操の建国した「魏」孫権の建国した「呉」劉備の建国した「蜀」が鼎立した「三国」時代。最初彼らは王国であり、名目上だけですがまだ漢帝国(後漢)の献帝が皇帝として在位していました。 魏王の傀儡だけど。

後漢(ごかん、中国語: 後漢、拼音: Hòuhàn、25年 – 220年)は、中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた

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ですが魏は曹操の息子が献帝から位を譲りうけ、ここに漢(後漢)帝国はほろびます。「魏帝国」の成立です。

そして、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即位した。ただし、表向きは家臣たちから禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣たちに重ねて禅譲を促されるという形を取った。2回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、名実ともに三国時代に入ることになる。

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が、一つの見方によれば、この時後漢はほろんでいません。蜀の君主劉備は魏に対抗して皇帝となったのだけれど、自らが漢皇室の末裔だとして、国の正式名称を「漢」と宣言したからです。 まだ漢はほろんでないぞ!と。 その国を周りの国が「蜀」と呼んだり、後世の人々が「蜀漢」と呼んでいるのです。

蜀漢」は後世の称であり、正式な王朝名は「」である。これは魏の文帝・曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、劉備が漢の正統を継ぐと宣したためである。従って同時代に「蜀漢」を自ら名乗った訳ではない。漢の後継であることを認めない魏・呉の立場では当時から「蜀」と呼ばれた。

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その後、三国で一番国力の劣る蜀は国力に見合わぬ北伐(魏を撃つこと)を繰り返し、三国の中で一番早く滅びるわけですキが、彼らの見方からすれば、これはただの進攻戦争ではなく、漢を簒奪し、国土を奪った魏に対する「レコンキスタ」なのです。

レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す(リ・コンクエスト)運動。
日本語においては意訳で国土回復運動(こくどかいふくうんどう)や、直訳で再征服運動(さいせいふくうんどう)とされることもある。

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だから国力疲弊が分かっていても、大義名分論として、北伐をおいそれとやめるわけにはいかなかったんですよね。 

閑話休題。さて、劉備は本当に漢帝室の末裔だったのか、そしていわゆる蜀漢の正当性(漢の継続性)はあったのでしょうか?

三国志演義だと劉備は「中山靖王・劉勝の末裔、漢の景帝の玄孫」ってことで、献帝から叔父として認められ、以降劉皇叔(りゅうこうしゅく)と呼ばれることになってます。

が・・・

劉備が後漢の献帝(第14代皇帝、劉協)に初めて謁見した時、献帝は劉備が前漢の中山王劉勝の末裔で自分の親族にあたることを知り、臣下に劉氏一族の系譜を調べさせました。その結果、劉備が劉勝から数えて17代目の子孫で、献帝の叔父にあたることが判明しました。それ以来、献帝は劉備を叔父として礼遇し、人々も彼を敬って「皇叔」と呼んだ、というのです。

【研究こぼれ話vol.001】劉備はなぜ「皇叔」と呼ばれるのか 就実大学

景帝(前漢6代皇帝)から数えて18代目の子孫。一応「劉」姓ではあるけれど、この程度の血筋の劉氏は掃いて捨てるほどいたはず。歴史を見ている現代のわれわれから見れば、血のつながりで蜀漢の正当性を主張するのはかなり厳しそうです・・・むしろ血筋は添え物で、実際は劉備個人の素質や実力による偉業と評価すべきでしょう。 

が、現代においても、蜀漢帝国並みの「薄い血統」をもとにした正当性を主張する王朝存続論が沸き起こる国もあります。それが日本の「旧皇族の男系男子の子孫を皇族復帰させる」案です。

でもその「旧皇族の男系男子」が皇室と血縁分岐したのは、なんと南北朝時代。 

 昨今、皇位継承問題でさかんに言及される「旧皇族」とはいったいいかなる存在か?
「昭和22年10月に臣籍降下(皇籍離脱)した11宮家」というのでは正解の半分でしかありません。正解のもう半分(より重要な半分)は「大正天皇の皇子である秩父、高松、三笠の三宮家(直宮)以外の宮家であり、それらはすべて伏見宮系皇族である」です。こうした初歩的な事柄を押えないままに、あれこれ論ずる向きもあるようですが、すべては「事実」を知ることからはじめるべきです。
 伏見宮家と天皇家との血縁は、実はきわめて遠く、その分岐は南北朝時代までさかのぼらなければなりません。

伏見宮─もうひとつの天皇家  講談社

北朝第3代天皇である崇光天皇(在位1348~1351)の皇子が家祖ですから、第97代後村上天皇(在位1339~1368)と同世代。今上(令和天皇)は第126代ですから・・・

「旧皇族の男系男子養子説」はざっと考えれば、「18世孫の劉備が漢帝位の正当性を堂々と主張する」のとレベル変わらないんじゃないかと・・・劉備の血統正当説を笑えませんねえ。

ちなみに、中国には「易姓革命」という、血統主義を覆す便利な王朝交代正当化論もありますので、劉備の血統正当説はあんまり盛り上がらないと思います。

易姓革命(えきせいかくめい)とは、古代中国において起こった孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論。
前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てた(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠としている。儒家孟子は易姓革命において禅譲と武力による王位簒奪の放伐も認めた。

・・・これは西洋、とりわけ古代ローマの後継である東ローマ帝国を除いた、広範な西ヨーロッパ社会において、君主の血統が最も重視されたことと対照的である。西ヨーロッパの諸国では、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興すほど血統主義が支配的であった。

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知立散歩

友達に誘われて、知立へ食事に行きました。ついでにお泊りして知立を散策しましょう!と思いきや、予定日は大雨の予報。レンタサイクルで郊外の無量寿寺まで行きたかったのですが断念。朝6時から2時間弱、散歩しました。

名鉄知立駅では、現在線路の高架化工事を行っています。それに伴い駅前も現在進行形で整備中。駅前にタワーマンションとかできてるんだね。

正面が知立駅(北口)右手が宿泊した東横イン

駅から北側に少し歩くと旧東海道に出ます。 今は「知立」と書いて「ちりゅう」と読むのですけど、江戸時代は「池鯉鮒」と記載していました。つまりここは東海道五十三次の一つ「池鯉鮒宿」なのです。しかし難読地名ですね。 池+鯉(コイ)+鮒(フナ)って、どんないわれがあるのでしょう? 

和銅元年(708)「知立」と制定され、村上天皇の時の「和名抄」には智立郷と記されている。また「茅立」「智里府」「知流」「池龍」「池鯉鮒」とも古書にあるが、江戸時代は東海道五十三次の「池鯉鮒宿」としてにぎわったところである。

人文社「郷土資料事典 愛知県・観光と旅 県別シリーズ21 」

制定の意味が分かりませんが・・・知立郷ができた(中央政府に認定された)ってこと?

知立神社領で殺生禁断であった御手洗池には鯉や鮒が多かったという。地名の由来というより風流な当て字である。

松岡敬二「古地図で楽しむ三河

最初に「ちりゅう」という地名を現す言葉があり、その音をどのように漢字表記するかという問題だったのですね。たしかに「池鯉鮒」は風流かもしれません。でも、初出は「知立」だったんだね。

閑話休題。東西に走る旧東海道を歩いていくと、街道がカギの手のように曲がっているところがあります。見にくくてすいません。下図左は江戸時代の宿場の絵図で、黄色の道路が東海道です。 東から来た道が中央で北に折れ、次に西に折れ続いていきます。 カギ折れ部の北正面には了運寺が、西側には知立城(桶狭間の戦い後に落城。江戸初期には将軍上洛時の御殿になった)が位置していました。現在も残っています(右図)。

知立城の解説看板を撮影 左:江戸時代の絵図 右:現在の地図
現在のカギの手部の様子。正面が了運寺、左手億に知立城跡(公園)

知立城主は、知立神社の神主でもあった永見氏です。うーん、永見氏と言ってもあんまりピンと来ないですね。 一つ来たのが(知立神社に銅像と解説があったので分かったのですけど)、後に家康の側室になった「お万の方」が氷見氏の娘だったということ。

天文17年(1548年)、三河国知鯉鮒明神の社人・永見貞英(志摩守)の娘として誕生する。名は、万、於古茶、松、菊子、於故満と伝わる。・・・はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされる。

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一応城主?の娘を女中として使うなんて、築山殿って相当身分が高かったんだね。

カギの手の出口あたりに老舗のあんまき屋があります。 知立名物「あんまき」といえば「藤田屋」が有名なんですが、google mapの口コミによれば、こちらの小松屋本家さんの方が旨いそうな。なら買ってみましょ。一個200円。google map情報によれば、開店は8時なんですが行ってみたところ、たぶん8時15分開店じゃないかと。

味は・・・よくわからん。そもそも僕、あんまきあんまり好きじゃないんだった(爆)。

あんまきはともかく、このお店は交差点の角にあるのですけど、右の通りに「あんまき屋」左の通りに「銃器店」の看板を掲げ、その組み合わせが意外で面白いです。中はつながっていて、ついでに?釣具も売ってる(笑)。家族経営の感じでしたが、すごい形態だな。

閑話休題。東海道を外れ、少し北に行くと、神社が見えてきます。知立神社です。(旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられたとか。)

ここは古くからある神社で、三河国の二之宮っていう格式の高い神社です。 ちなみに三河国の一之宮は、豊川市にある砥鹿神社。東海道三社はここと三嶋大社、熱田神宮。

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮、一ノ宮、一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もある。

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この神社の見どころ一番は、多宝塔ですね。(重要文化財) 室町時代の建立と言われています。神宮寺(神仏習合思想に基づき、神社内に建てられた付属寺院)の一部だったものが、明治の廃仏希釈の難も「神社の文庫」として逃れ、現代に至る という歴史があります。

敷地内には石橋と、「御手洗」という名の池があるんですが、まさかこの小さな池が「池鯉鮒」の字の由来じゃないよね・・・(解説看板には、そのようには書かれてなかった)

境内には大戦期に建てられたのであろう、こんなものも。

正面の「千人灯」を揮毫したのは、陸軍大将・松井石根とあります。極東国際軍事裁判で絞首刑になった七人のうちの一人ですね。 他三面の揮毫も陸海軍将官でしたが、知らないなあ。 松井の出身は名古屋ですが、知立とゆかりのある軍人だったのかな?

ところで、安藤広重の東海道五十三次では、池鯉鮒を次のように描いています。

池鯉鮒「宿」はどこ・・・?

実はこれ、春に池鯉鮒宿の東の野原で開かれる馬市を描いたものなのです。東海道を東に向かってしばらく(かなり)歩くと、国道一号線とぶつかります。そのあたりの街道筋には松並木と「馬市跡」の石碑が残っており、当時の風情が感じられる・・・か。

解説看板にはこの松並木に馬市に出す馬を繋いだんじゃないか とあります。 そうか、ここか。広重の浮世絵とは全然違うけど(現地に来ず、想像して書いた画なんで)。

奥の石碑には万葉集の歌(持統天皇)が彫られています。このあたりの地名は引馬野というのですが、歌に出てくる「引馬野」がここと言われているそうで。