安城の「安祥城址」

安祥城と書いて「あんじょうじょう」と呼びます。読んで字のごとく、安城市にあります。

現在城跡は、「安祥文化のさと」として整備され、公民館、歴史資料館、大乗寺、八幡社などになっています。

城は戦国時代に廃城とされましたが、本丸跡に大乗寺が立てられ、門前に「安祥城跡」の石碑が残っています。

安祥城跡 石碑

歴史に詳しい方が「安祥城」と聞いて思い出すのは、次の事件でしょう。「安城合戦」

1549年、今川氏の武将であった太原雪斎が大軍が安祥城を攻め城は陥落。今川氏は城代の織田信広を捕らえ。織田家にいた竹千代と人質交換をした。

正確には第四次だか第五次安城合戦だと思います。要するにこの城をめぐって何度か戦いがあり、その一番有名な奴がこれです。 織田氏は信長の兄信広を城代とし、今川氏は三河方面司令官であった太原雪斎が万単位の軍を率いて攻めた総力戦で、徳川四天王・本多平八郎忠勝の父(本多忠高)は、この戦いで戦死しています。

この記事を読むと、「安祥城」は織田氏の領土にある織田氏の城で、対今川の最前線基地だったんだな。と思いますよね。

この時はその理解で正しいのですが、その少し前までここは松平氏の城だったのです。

織田軍がこの城を手に入れたのは、1540年。「織田氏の城」であったのは、1549年までの10年くらい。それ以前は1471年から松平氏の城でした。松平氏は一族がたくさんいるので、この城にいた松平氏を地名を取って「安祥松平氏」と言います。

松平氏は、豊田市松平の地に起こり岡崎の岩津城に進出したので、もともと岩津松平氏が本家でした。子孫を三河のあちこちに配置し、それぞれ地名を取って「大給松平氏」、「安祥松平氏」や「深溝松平氏」と名乗らせました(江戸時代に整理され十八松平とか十四松平と言われるようになる)。

しかし時は戦国時代。全一族が一致団結し宗家を助け・・・とはなかなかならず、各松平氏は西の織田氏についたり、東の今川氏についたり、それぞれの家を保つことに必死でした。そのなかで岩津松平氏は今川氏に攻められ衰微し、やがて「安祥松平氏」が松平宗家となっていきました。

安祥松平氏は代々安祥城を居城にしますが、安祥松平氏4代の清康が岡崎城を奪い、そちらを居城とします。でも三河国統一を目前に横死してしまいます。幼少の5代広忠なんとか家を継ぎますが、は勢力を伸ばしてきた織田氏に大事な安祥城も取られてしまい超弱体化。対抗すべく今川氏から援軍を受ける代わりに臣従。人質に息子竹千代を人質に出すことになります。

が、道中いろいろあって竹千代は織田氏に囚われます。メンツをつぶされた今川氏は、安祥城を取り返すべく万単位の大軍で安祥城を落とし、織田信長の兄である信広を捕らえ竹千代と捕虜の交換。無事返還された竹千代は改めて今川の人質となり(笑)。安祥城は1549年に今川氏のものとなり、三河の国は、今川氏の勢力下になりました。松平氏は幼主を人質に取られ、お家危うし!

竹千代君は逆境に負けず、後に三河国を統一し、徳川家康と名乗ることになります。その過程で安祥城は1562年に廃城。織田・徳川は同盟したため、この地に拠点は不要になったからです。

廃城になったとはいえ、この城は安祥松平氏(徳川本家)揺籃期の歴史とともにありました。なにせ徳川家古参の譜代の家臣を「安祥譜代(あんじょうふだい)」と言う言葉があり、松平信光から信忠までの4代に仕えた家を指すほどですから。

松平宗家を継いだ人々の名前と居所を挙げておきます。

①親氏 松平郷
②泰親 松平郷
③信光 岩津城    (岩津松平)
④親忠 安祥城    (安祥松平初代)
⑤長親 安祥城    (安祥松平2代)
⑥信忠 安祥城    (安祥松平3代)
⑦清康 安祥城→岡崎城(安祥松平4代)
⑧広忠 岡崎城    (安祥松平5代)
⑨家康 岡崎城→浜松城(安祥松平6代) 徳川本家初代

松平氏の系図(抜粋)

さて、城は「舌状台地の先端に位置し周囲を森と深田に囲まれて」いるそうです。周りは開発されちゃっていますが、北から来る台地の先端にあることがわかります。東西南は田んぼだったんだろうね。

大乗寺のある所が本丸。その下のこんもりしたところが二の丸(八幡社)後です。「安祥城址」と表示された「址」の辺りの道路から本丸を撮影したのが下の写真。結構高低差があることが分かりますね。

写っているのは、大乗寺の山門(鐘楼門)です。立派だなあ。

大乗寺鐘楼門(浄土宗)

本丸と二の丸の間は平地(たぶん、台地を断ち割って二郭にしたんで、昔は堀になっていたと思います)になっていて、そこから本丸を撮影した写真が下。ここもそれなりの高低差があります。

歴史博物館にお城の展示は無かったんだけど、11日は午後から関連のシンポジウムがあったようですね。

 

企画展で「一汁三菜」という展示をやっていました。 安城の辺りは農業と養鶏が盛んで、昔は日本のデンマークって言われていました。

戦中の非農家の子供の日記があったんですけど、昭和20年7月の時点で「オムレツ喰ってうまかった」とか、え、そんなに食事情良かったの?とか、意外な発見がありました。

あと、紀元二千六百年奉祝会の食事の紹介とかあって面白いです。写真が取れないのが残念ですが、折箱に 軍用携帯食が詰められていたそうです。

御汁:携帯粉末味噌  口取り;魚の缶詰 御肴:味付乾燥牛肉 御飯:圧搾口糧(米・麦・鰹節・梅干しを使ったポン菓子みたいなの)と乾パン 祝餅:戦力餅(?) お酒:航空元気酒と葡萄酒

容器しか残ってないけど、こりゃまずそう。

 

 

 

 

 

天災は忘れた頃来る

1995年1月17日、2011年3月11日。何の日か覚えているでしょうか。そう、阪神大震災と東日本大震災の日です。

どちらの地震も起きた時は「まさか神戸で大規模直下型地震が!」「まさか東北一円にあれほどの大津波が!」って言われていました。後になってみれば、識者が「警告は発せられていた」って言ってますけど。

残念ながら常識的に考えれば、日本のどこでもいまこの時間に、あの規模の地震があってもおかしくない と思っておいた方がいいでしょう。

今年になってからでも、関東地方や台湾で地震がありますし、みんな心の中で「そろそろヤバくね?」って思っているかもしれません。

でも、そんな心掛けしている時は得てして何も起きません。日々の忙しさに紛れ、備蓄の交換を、心構えを、忘れかけた頃に大震災は起こるんです。

それを戒めるのが、タイトルに掲げた「天災は忘れた頃来る」。

この言葉は、物理学者「寺田寅彦」の言葉とされていますが、その全集の中に、この言葉ずばりは無いんです。弟子の「中谷宇吉郎」さんが随筆に書かれています。

実はこの言葉は、先生の書かれたものの中には、ないのである。しかし話の間には、しばしば出た言葉で、かつ先生の代表的な随筆の一つとされている「天災と国防」の中には、これと全く同じことが、少しちがった表現で出ている。

・・・これは、先生がペンを使わないで書かれた文字であるともいえる。

短い随筆「天災は忘れた頃来る」は、青空文庫で無料で読めますんで、読んでみてください。

じゃあ、寺田寅彦の「天災と国防」にはどんなことが書いてあるんだよ と思った方。こちらも青空文庫にあります。 「天災と国防」

この随筆はぜひ読んでいただきたいのですが、この「天災は忘れた頃来る」と関連したところはこちらです。

それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

この続きが更に興味深いです。まるで東日本大震災後の識者のコメントのよう。

しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。

やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦い経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。

この随筆が書かれたのが昭和9年。大震災とは関東大震災です。また、この情景が、いつか間違いなく起こります。

自分は土木技術者だったので、特にそう感じるのかもしれませんが、昔からある取水や治水施設は、本当によく地形を見て造られています。それは、技術的に水を抑えることが難しかったから、水当たりの弱いところを狙って造ってあるからです。逆に、水当たりの強いところに造った施設は、後世まで残らなかったんです。

文化財巡りしていても「現代まで残ってるものは、やっぱ、いい場所に建ってることが多いな」って感想を持つことが多いです。丘陵の端とか。そういう所は、景観的にも一等地が多いですし。

技術が進んだ現在でも、そのような土地を選んで施設を造れば、無理のない、経済的な施設ができます。最もそういう場所はすでに何かが造られているから、新しい施設は、田んぼの中や埋め立て地に造らざるを得ないわけですけど。

寅彦先生の文章で言えば「丘陵のふもとを縫う古い村家」と「田んぼの中に発展した新開地の新式家屋」との対比ですね。

そうは言っても、いろんな事情で(経済面や田舎の慣習とか)、田んぼの中に発展せざるを得ない事情もあります。その弱点を当局が「文明の力」で対策するにしても限度はある ってこと、「決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろう」ことは、やっぱり心しておくべきことかと思います。

本の紹介

岩波文庫「中谷宇吉郎随筆集」「寺田寅彦随筆集 第五巻」

前者では、「日本のこころ」「I駅での一夜」「貝鍋の唄」の随筆が好きだよ。

後者の第五巻は、地図の話、噴火の話、日本人の自然観 とか収められていて、地理や防災に関心のある人には一番面白い巻だと思う。随筆集なんで、映画の話とか俳句についても面白い随筆が載ってる。

両者とも守備範囲が広いから、旅行の移動中なんかに読むのにおススメ。