西尾の文化財(6+)  東条城(東条吉良氏居城)

昨日の続き、東条吉良氏の居城/東条城です。 すいません、文化財指定はされていませんけど、吉良氏ゆかりの地ということで。

対立していた西条吉良氏の居城、西条城(西尾城)のとの位置関係を地図で確認したのがこちら。当時はまだ矢作川が掘られていませんから、大河だったであろう矢作古川を中心に、北西と南東に位置してます。ちなみに、両者を直線で結んだちょうど中間点あたりに、支族の今川氏の拠点がありました。(現・今川町の西尾中学校付近)

東条城は小高い丘の上にあります、標高は20mくらいじゃないでしょうか?西側の河川堤防から撮影しました。 竹に覆われただの丘陵にしか見えません。

城址のある丘

先ほど示した航空写真から、地形で城の様子を見てみると・・・矢崎川が分流し南面と、西面を流れて堀の役割をしています。城のある丘陵は、北東側に続いていますが、その途中に堀割を設け(現在の県道318号)、丘陵地と城を分断していたのだと思います。 説明書を読むと、まさにそんな感じ。航空写真は便利ですね。

城の地形と駐車場

駐車場:確認できていませんが、県道に面して北東側に駐車場(古城公園)があるようです。私は北西の集落側の「登城口」からアプローチしましたが、道が狭いうえ駐車場がなく、難渋しました。駐車場の案内看板をつけておいてくれるとありがたいですね。

登城口

草に覆われていますが、管理(歩くところの除草)はしてあり、登城可能!です。その点、まだ山城じゃなくて良かった。

この城は天正18年(1590年)に廃城になっており、当時のものは何も残っていません。二の丸跡に八幡宮が残るだけ。

八幡社(二の丸あと)

ただし本丸については、天正年間(中世の城)を想像して櫓と門が復元されています。

門と櫓

外装についてはこんな感じだったのかな? 当時の殿様(東条氏)の館跡でも残っていると観光するところもありますけど、今あるのは草ぼうぼうの本丸が残るのみ。

それでも、室町時代には歌人の冷泉為和が来たり、連歌師の宗長が来て、東条殿と連歌の会を催したり、それなりの文化の拠点だったようです。 信長や家康も鷹狩のついでに立ち寄ったそうな。庭の石組みだけでも残ってたらなぁ。中世の城の庭なんて、あまり見たことないもんね。東条氏は京都にもいましたし、連歌師が寄るくらいですから、当時はなかなか立派な庭があったんじゃないかと思います。残念。

本丸内の様子
連歌師 宗長の看板
東条城の歴史

本来は眺めの良い場所だと思いますが、今は竹に覆われて、何も見えませぬ。

本丸から南側を望む・・・

唯一北側は望めますが、砂利採取場が見えるだけ。できれば、竹を切ると眺望がよくなるし、周りからも櫓が眺められていいんじゃないか と思いますけれども、竹の成長は早いから無理筋かもなぁ・・・

岩瀬文庫 「松井忠次」展資料より

*復元された櫓と城門ですが、2021年(令和3年)に老朽化のため取り壊されたそうです。あらら

西尾の文化財(6)  花岳寺(東条吉良氏菩提寺)

昨日の、「華麗なる一族 吉良家」の続編、東条吉良氏にまつわるお話。

 

まずは、東条吉良氏の菩提寺、花岳寺(かがくじ)です。

駐車場は、隣接する華蔵寺(統合後の吉良氏菩提寺)前にトイレを備えた駐車場があるので、そちらに停めて歩いてこられるのが良いでしょう。

本堂(国の登録有形文化財)

寺の縁起によりますと・・・貞和3(1347)、実相寺(西尾市)の住職佛海禅師が臨済宗として開山。東条吉良氏初代の吉良尊義が塔頭として「霊源寺」を開基したそうです。

もともとは、実相寺が吉良氏の菩提寺だったのですが、この寺ができてから東条吉良氏の菩提寺はここになりました。 東条城から実相寺に行くには、仲の悪い西条吉良氏の居城の西条城の近くを通らざるを得ないから、「近いこちらを菩提寺にしよう!と思ったのかもしれません。

てなことで、境内には東条吉良一族の墓 初代「吉良尊義」、初代の父親「吉良満義」それから7代「持広」さんのお墓があります。あり~?2代から6代までの墓はどこだ~?うーん・・・たぶん京都じゃない?

アプローチ
東条吉良一族の墓(隣には、開山佛海和尚の墓も)

戦国時代末期、吉良氏と徳川氏は親戚でしたので、徳川家康は寺領36石を寄進しました。さらに子孫の吉良義央さんが、姉の菩提を弔うため資金を提供、そのお金で本堂が整備され、その時の本堂が現在も残っています。江戸時代中期の臨済宗方丈形式仏堂の遺構として貴重であるため、国の登録有形文化財に指定されているとか。最初の写真です。

また、境内には「三河孟宗竹伝来の藪」があります。江戸時代の文政三年(1806年)本山である妙心寺からこの地に孟宗竹を持ち帰り、筍を目的にここから孟宗竹が三河南部に急速に広まったとか。 孟宗竹がこの地方に伝来したのって、そんなに新しいのかなぁ?

孟宗竹伝来看板
由緒ある藪(笑)

なお、寺は明治維新の際、寺領(御朱印地)36石を取り上げられ、「びんぼーで維持できねえっす」ってことで塔頭の霊源寺と広国寺を廃寺にして現在に至ってます。

霊源寺跡
広国寺跡

広国寺跡には、松平〇〇氏の墓?と石碑が残っていますが、石碑の文字は擦り切れてよく読めん。このあたりの解説看板もあるといいですね・・・(たぶん、吉良氏以降に東条城を治めた東条松平氏の誰かの墓と碑だと思われます。家忠?康親?)

翌年追記:分かりました。こちらです

墓かな?

寺は、様々な宝物を保存していますが、本堂以外は非公開のようです。

・ 後柏原天皇宸翰御消息(はく少将宛)-室町時代-国指定重要文化財
・ 三十六歌仙絵巻-江戸時代-西尾市指定文化財
・ 薬師如来坐像-室町時代-西尾市指定文化財
・ 古今和歌集帳(2冊)-江戸時代初期-西尾市指定文化財
・ 百人一首帳-元禄11年-西尾市指定文化財
・ 良哉和尚語録(8冊)-江戸時代中期-西尾市指定文化財
・ 花岳寺本堂-貞享元年-国登録有形文化財

宸翰

「はく少将」って、白川神祇伯関係か、吉良氏とはどうつながるのかよくわからんけど、見てみたいですね〜。 「白川神祇伯」については、また改めまして

 

そういえば、忠臣蔵の殿様 赤穂浅野家の菩提寺は、「花岳寺」ですね。吉良氏ゆかりの寺も同じ名前ってのも、面白い。というか、Google先生に「花岳寺」と聞くとそちらが出てきて、吉良の当寺は出てこないのは残念っす。