昨日の続き、東条吉良氏の居城/東条城です。 すいません、文化財指定はされていませんけど、吉良氏ゆかりの地ということで。
対立していた西条吉良氏の居城、西条城(西尾城)のとの位置関係を地図で確認したのがこちら。当時はまだ矢作川が掘られていませんから、大河だったであろう矢作古川を中心に、北西と南東に位置してます。ちなみに、両者を直線で結んだちょうど中間点あたりに、支族の今川氏の拠点がありました。(現・今川町の西尾中学校付近)
東条城は小高い丘の上にあります、標高は20mくらいじゃないでしょうか?西側の河川堤防から撮影しました。 竹に覆われただの丘陵にしか見えません。
先ほど示した航空写真から、地形で城の様子を見てみると・・・矢崎川が分流し南面と、西面を流れて堀の役割をしています。城のある丘陵は、北東側に続いていますが、その途中に堀割を設け(現在の県道318号)、丘陵地と城を分断していたのだと思います。 説明書を読むと、まさにそんな感じ。航空写真は便利ですね。
駐車場:確認できていませんが、県道に面して北東側に駐車場(古城公園)があるようです。私は北西の集落側の「登城口」からアプローチしましたが、道が狭いうえ駐車場がなく、難渋しました。駐車場の案内看板をつけておいてくれるとありがたいですね。
草に覆われていますが、管理(歩くところの除草)はしてあり、登城可能!です。その点、まだ山城じゃなくて良かった。
この城は天正18年(1590年)に廃城になっており、当時のものは何も残っていません。二の丸跡に八幡宮が残るだけ。
ただし本丸については、天正年間(中世の城)を想像して櫓と門が復元されています。
外装についてはこんな感じだったのかな? 当時の殿様(東条氏)の館跡でも残っていると観光するところもありますけど、今あるのは草ぼうぼうの本丸が残るのみ。
それでも、室町時代には歌人の冷泉為和が来たり、連歌師の宗長が来て、東条殿と連歌の会を催したり、それなりの文化の拠点だったようです。 信長や家康も鷹狩のついでに立ち寄ったそうな。庭の石組みだけでも残ってたらなぁ。中世の城の庭なんて、あまり見たことないもんね。東条氏は京都にもいましたし、連歌師が寄るくらいですから、当時はなかなか立派な庭があったんじゃないかと思います。残念。
本来は眺めの良い場所だと思いますが、今は竹に覆われて、何も見えませぬ。
唯一北側は望めますが、砂利採取場が見えるだけ。できれば、竹を切ると眺望がよくなるし、周りからも櫓が眺められていいんじゃないか と思いますけれども、竹の成長は早いから無理筋かもなぁ・・・
岩瀬文庫 「松井忠次」展資料より
*復元された櫓と城門ですが、2021年(令和3年)に老朽化のため取り壊されたそうです。あらら