西浅井町散歩(西尾市 源空院、宿縁寺)そして かぎ万燈

源空院(浄土宗)

源空院 なかなか立派なアプローチ。

地元では、シダレザクラで有名なお寺です。

枝垂桜 樹齢250年!とか

まあ、僕は人込みがキライなので、桜の咲く時期には行きませんけど(笑)。そんな僕がこのお寺を見に行ったのは、このお寺が浅井西城の城主・松平康孝の菩提寺として創建された という由来ゆえです。

松平康孝って誰?

松平康孝とは、松平清康の弟です! 松平清康と言うのは、徳川家康の祖父です!しかしまあ、あんまり記録が残っていないので、どんな人だったのかはよく分からんす。

それでも一応、戦国時代に徳川家康の親族がこの地を治め、そのお墓がここにある ・・・と伝わっています。お墓はこの写真ね↓

伝・松平康孝の墓

基礎はともかく、墓自体少し時代が新しすぎるような気も・・・ まあいいか。

居城だったと言われる浅井西城は、西尾市の文化財 「土豪屋敷跡土塁」として残された場所がそうだったと言う説と、いやそれは鎌倉以来の地頭居館だったという説があるようです。いずれにせよ、個人宅なので写真は撮っていません。が、航空写真を見ると、丸い形に土塁がめぐらされている、やや特異な造りのよう。(写真中央部)

裏山の八幡さんのある山を含めて城だったのでしょう。

ただなあ、もしこの地に徳川方の有力な出城があったのなら、徳川家康が吉良氏を攻めた際の戦史に何らかの言及が残るはずなんですよね。でもなーんにも言及がなく、おまけに近くの室城には吉良方の武将が駐在していました。 ってことは、家康の時代には、すでに廃城になっていた ってことなのかな?

 

宿縁寺(真宗大谷派)

浅井西城の少し北側にあるお寺です。このお寺にも樹齢250年(だったと思う)の枝垂桜があります。

宿縁寺の枝垂桜

樹勢と大きさから見て、源空院の枝垂桜より、こちらの方が見ごたえがあるんじゃないかなあ。源空院の桜の方が有名だけど。

と、花の話題で境内に入っちゃいましたが、このお寺は山門も見ておくべきなのです。

宿縁寺山門

ほほう・・・この門ですか・・・えーと見どころは・・・屋根の軒瓦をよく見てな。(説明看板が左側に立ってるけど)いいですが、ズームアップしますよ。

「えーい、この紋所が目に入らぬか〜」

「恐れ多くも先の岡崎城、北門様であらせられるぞ、一同頭が高〜い。控えおろう」

ってことで、明治6年に、岡崎城の北門がこのお寺の山門として移築されているのでございます。 そういわれますと、傷んではいるけど、なんとのう気品のある御門でございます(笑)。

 

それから。このお寺は現在真宗大谷派なんですが、元々は天台宗の宿坊として802年に建てられたそうです。往時はたくさんの天台宗の僧侶がこの辺りに住み、浅井千坊って言われてたそうです。宿縁寺はその中心だったそうな。

んでな。浅井千坊(天台宗)は隣の幸田町の須美千坊(真言宗)と、宗論から万燈山の麓で争い、多くの死者が出たんだと。その供養のため、万燈山で火を焚き、死者の魂を静めた。それが万燈山・鍵万灯の起こりらしいです。(かぎ万燈・西尾市文化財)

須美千坊の位置はよくわからなかったのですが、幸田町立図書館にある「須美郷土誌」に一部記載がありました。 「須美の向屋敷にある敬覚寺はその昔真言宗の寺院で、妙覚山等覚坊と称し、須美千坊の一つだった」そうです。

敬覚寺(須美字向屋敷47)

ここから先は推論。蘇美天神社も宿縁寺も周囲に山や丘を抱えています。そのうえで「天台宗と真言宗の争い」万燈「山」 「火祭り」 というキーワードを考えると、この争いは、真言系と天台系の山伏(修験者=修験道を極めんとする人たち)宗論争いおよび修行の場である山の使用権を巡っての戦いだったんじゃないかな。位置関係は以下の通り。千坊って「たくさん」という意味だと思うけど、それが近くに二つあると、山域が小さいから、修行する山伏の密度が高すぎると思うんだ(笑)。「オマエ、あっち行けよ。そもそも宗派ちがうじゃねーか!」って。

修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されるので、「真言宗」と「天台宗」の争いって、これじゃないかと。)

平地が多い西尾で修験道だって?

そりゃ現在の西尾に修験道の痕跡は、あんまり残ってないように思いますね。けど、蘇美天神社近くの山裾にある平原の滝のエピソードなんかは、修験道の香りが漂いますよ〜。昔はこの辺りでも山岳修行してたんじゃねーかな?