熱田神宮あたり散歩

名古屋に用事がありましたので、熱田神宮あたりを散歩してきました。神社はタダでありがたや

先日のブラタモリで名古屋と熱田神宮が取り上げられていましたが、ここ熱田神宮と名古屋城は、熱田台地の南端と北端にあたります。 江戸時代は熱田神宮の南側まで海が来ていて、東海道の「七里の渡し」の渡船場がありました。ここから桑名までは船旅です。 いまや湾は埋め立てられ、熱田神宮あたりが海 なんて感じられませんけど、さらに昔、伊勢神宮は岬の先端に位置し灯台みたいな役割を果たしていたでしょう。

また「七里の渡し」の脇から名古屋城の脇まで運河が掘られ、名古屋城の資材運搬に使われました。その後明治時代に庄内川水系と接続され、運河は「堀川」として現在まで残っています。 google mapで位置を確認してみましょう。

地理院地図(標高)

熱田神宮は、三種の神器の1つである草薙剣を祀る神社ですね。主祭神は熱田大神ですが、 草薙剣を神体とする天照大神を指すようです。俗には名古屋で初詣最人気の神社。

草薙剣の由緒  草薙剣は、 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも言い、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した時尻尾から出てきた神剣。取得すると武力が10アップします。でも誰も見たことがなく、ホントにここにあるの?という説もあったりなかったり。

スサノオ少将はヤマタノオロチ退治後、これを天上に持ち帰りお姉さんの天照大将(アマテラスオオミカミ)に献上し、大将は日本占領を孫に命じ、孫のニギー大佐が落下傘降下する際に剣を渡しました(ニニギノミコトの天孫降臨)。それが伊勢神宮に保管されてたのを、武尊少佐(ヤマトタケルノミコト)が東征する際、伊勢斎宮だったお姉さんが「これ持ってお行き」ってことで日本武尊の物に。(神器を勝手に良かったのかね?)

少佐は駿河で賊に火攻めにあいました。対策としてこの剣で草をなぎ倒し、火をつけ見事に賊を焼き殺したので、部下のバトーからクサナギ少佐と呼ばれ・・・違った。静岡に「草薙」「焼津」という地名を残したとか。で、剣の名前も 草薙剣と読みやすく改名されました。

少佐は帰りに尾張の奥さんのところに凱旋。次の出兵で奥さんは「これ持ってお行き」と言わなかったので剣を置いて出征、お守りが無いので三重で死んでしまいました。反省した奥さんは、剣を祭る神社を造り、奥さんの一族(尾張氏)は代々大宮司を勤めました。これが熱田神宮の縁起です。  (意訳)

※追記。幡豆にある幡頭神社の祭神建稲種命(たけいなだねのみこと)は『古事記』に尾張連の祖とある「建伊那陀宿禰」と同一人物で、ヤマトタケル尊の妻だったミヤズ姫の兄 (wiki)

のちに大宮司職は藤原季範に取られ、以降藤原氏・千秋氏が大宮司、尾張氏は権宮司となったそうな。ついでに、この季範の娘は源氏の大将(源義朝)と結婚し息子が跡継ぎになります。頼朝っていいます。

熱田神宮は武人の崇敬が厚く、織田信長が桶狭間の前に戦勝祈願&兵隊待ち(この人、いつも一人で飛び出すんだ)し、戦勝後に兵を いや塀を寄進しました。 神仏を信じないと言われている信長ですが、信じるかどうかではなく、「政教分離したかった」のが実態では。

それから、部下の佐久間氏が献じた大灯籠もあります。佐久間氏はのちに信長に左遷されちゃいますが、第六天魔王信長に命を取られないのが神のご加護だったのか・・・ちなみに日本三大灯篭だそうです。

南へ下ると、名古屋名物「ひつまぶし」で有名なあつた蓬莱軒があります。就職祝いにここで食事したなあ。うまかったような、高かったような。この日は平日の昼間にも関わらずかなり並んでましたが、ここは匂いを堪能し、七里の渡しを目指します。かろうじて「港」イメージが残ってます。

現役釣船店

退役料亭

ここから上流の堀川沿いに、名古屋城築城時の木材集積場から400年近い歴史を誇る白鳥貯木場をはじめ多数の貯木場がありました。木曽川から下ってきた木材を扱ってたのね。でも昭和34年の伊勢湾台風時に木材が流れて大惨事になったのを期に主な貯木場は移転、跡地は埋められて白鳥公園となり、平成元年に世界デザイン博覧会の白鳥会場になったんだな。が、暑さに歩きはダウン。写真無し。 あと、この辺りは古墳が複数あるぞ。

伊勢湾台風時には、右のポール先端まで水が来ました。
こふーん 大きさが分からんなあ。けっこうでかいよ。

帰りに誓願寺の門を見て帰りました。先ほど出てきた、伊勢神宮大宮司藤原季範の別邸跡で、娘(由良御前)はここで源頼朝を生んだと伝えられています。 徳川氏は公式には源氏の血を引くことになっているので、先祖顕彰のため門を寄贈したのでしょうか。

門だけ~

おしまい。 よく歩いたので、夕方名古屋で呑みすぎました。