深溝 本光寺

深溝(ふこうず)へ行ったついでに、本光寺を拝観してきました。 ここは島原藩・深溝松平氏の菩提寺です。また、地元では「アジサイ寺」として有名で、時期には大勢の花見客でにぎわいます。

曹洞宗 本光寺 門前

深溝の地を領有した松平氏だから、「深溝松平氏」。

家は 忠定ー好景ー伊忠ー家忠ー忠利ー忠房・・・ と続くのですが、戦国時代は主家である安祥松平家(のち徳川家)へ文字通り身命をかけた忠義を貫きます。なにしろ当主が3代続けて合戦で戦死しているんです・・・

  • 2代好景・・・善明堤の戦いで戦死 (家康の三河統一途上 vs.東条吉良氏)
  • 3代伊忠・・・長篠の合戦で戦死
  • 4代家忠・・・伏見城の戦いで戦死(関ケ原前哨戦)

(4代家忠さんは筆まめな人だったらしく、自身の日記(「家忠日記」)を残しています。家康を中心とした政治情勢や関係大名家の動向を知る史料として、ちょいちょい引用されます。)

5代忠利は父祖の地である深溝で1万石の大名になりますが、徳川家に忠実な家だと見込まれたのか、あちこち国替えされ、最終的には寛文8年(1668年)6代忠房の時、九州の島原藩6万5千石に落ち着きます。

島原は寛永14年(1637年)に「島原の乱」があった土地で、後始末のため2代高力家が治めますが、そのあとを信頼できる深溝松平家に託したのでしょう。

6万5千石と言っても普賢岳を抱え、また火山性土壌で土地がやせているため、難治の地。さらに国際港長崎の監視(直接の統治は長崎奉行ですが)と九州一円の外様大名の監視役 みたいな仕事も仰せつかっていたようです。

でも誰かに任せなきゃ。幕府は「あの忠義の家なら大丈夫だろ!」と思ったのかもしれません。何せこの家の当主は、代々「忠」の字を受け継いでます。しかし忠義はつらい。

例えば寛政4年(1792年)には普賢岳が激震と共に大崩落を起こし、島原城下の大半が埋没し、死者1万5千人とも言われる島原大変が発生しています。対応に当たった当時の藩主、11代忠恕は心労が重なったこともあり死去。「悲運の藩主」と呼ばれています。

その島原藩松平家ですが、島原に移って以降の殿様についても、お墓は島原ではなく、ここにあります。 もしかして、生前は難治の地の統治に頑張るけど、死んでからは領地を離れ、父祖の地でゆっくりしたい〜 という願望の表れだったのかも(笑)。

廟所は西廟所と東廟所に分かれ、西廟所には深溝松平家1〜5代と11代当主、東廟所には6〜10代、12〜19代当主の霊廟があります。

先に触れた初代~4代まではひとまとめ。まあ5代で大名になったのだから。それ以降の藩主の墓は東廟所ですが、11代「悲運の藩主」だけ西廟所の廟にいます。廟の形も歴代とちょっと違う。お疲れ様!ってことでしょうね。

代々の島原藩主の家の葬り方ですが、死ぬと九州島原の「本光寺」で戒名をもらい、船で遺体を愛知の「本光寺」まで運び、仏教の寺に神殿石造りの墓標を建て葬るという、いろいろな意味で珍しい形式です。

東廟所の門

19代当主のお墓が建てられたのは、昭和9年・・・今も連綿と続いているようです。

幸田町指定文化財として家忠・忠利・忠一像、京洛諸国名所図、梵鐘、春日曼荼羅図が指定されています。あとの見どころは本堂と庫裏かなあ。

本堂と庫裏   鐘楼も見えてますね。

写真ではわからないですね・・・。この建物、本堂と庫裏が完全一体型の建物となっています。一つの建物の左側が本堂、右側が庫裏と建物内部を二つに分けた形になっているんです。

お寺の場合、普通はそれぞれ建物を分け、渡廊下等でつなぐ形が多いと思います。

あんまり見ない形式だと思いますけど、建築的にはシンプルで、雨漏りの原因になりやすい、「つなぎ目」も発生しない、合理的でよい建物だと思います。見栄えとかはどうだか知らんけど。

5代松平忠利の廟「肖影堂」

 

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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