細い路地の奥ですが、門の脇に数台分の駐車場もありました。
本尊である阿弥陀如来坐像は、国の重要文化財です。とはいってもなかなか見られないのでは?いえいえ、本堂からすこし覗けましたよ。
この仏像は、鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うため、夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊だったそうです。
それが明治時代の廃仏毀釈で編照心院が衰微。本尊は浄土宗西山深草派の本山誓願寺の塔頭長仙院誓願寺に移され、その後明治17年に専長寺に安置されたそうです。
現在、京都市南区に遍照心院大通寺(真言宗)はあるのですが、もとは同区六孫王神社の辺りにあったそうです。というか、六孫王神社が大通寺の鎮守としてその境内に設立されたそうな。この辺りはもともと平氏の館(西八条邸)があったところで、平清盛はここで亡くなっています。その後源氏に接収され、実朝夫人がお寺をたてたものの、廃仏毀釈に伴い、六孫王神社は独立。大通寺は8つある塔頭のうち1つを残して廃寺。さらに国鉄用地として土地を奪われ、残った塔頭に大通寺が吸収され現在の場所に移転したんだそうです。 (出典:「古都の礎」ブログさん)
源氏の高貴な人の菩提を弔うお寺は檀家が少ないところがあります。それでも江戸時代は(徳川氏は源氏なので、源氏ゆかりの寺を保護)寺領など優遇されていたので左団扇で暮らせました。が、明治維新でスポンサーの幕府が滅亡すると生き残りがいろいろ大変だったのです。吉良家の菩提寺である実相寺、華蔵寺や花岳寺でも似たようなことがありました。
まあしかし、そんな大寺院の本尊が、三河の田舎の地でひっそりと祭られているというのもすごい話であります。
境内はそれほど広くありませんが、本尊を迎えるに当たって本堂も作り直したので、本堂は明治二十三年建設だそうです。門構えからしても、なかなか立派なお寺ですね。
同じく吉田の西福寺(浄土宗西山深草派)。
このお寺は、鎌倉時代の執権、北条時頼が創建したと伝えられています。その後焼失したのですが、熱田正覚寺の住職が、このあたりに泊まった際、北斗星が境内の末に飛来する夢を見て、「この地は聖地だわ」と悟り寺を再建したそうな。
偉いお坊さんが夢を見ると、なかなか大変なのであります(笑)。ともかく、そんな由来から寺の山号は「北星山」となっております。
隣接する道路から、このお寺の立派な鐘楼が見えます。この鐘楼(江戸時代)が県指定の文化財です。ドーン。
この鐘楼も、明治時代の廃仏毀釈の折、岡崎の伊賀八幡宮から移設されたものだそう。
伊賀八幡宮はそもそも松平家の氏神として建立された神社ですな。なので徳川家からも厚く信奉され、社殿は徳川家康改築、徳川家光拡張の立派なものでした。この鐘楼もそのころのものだとされています。
が、明治時代の廃仏毀釈にあたり、「仏教色の濃い鐘楼は不適切である!撤去!」ということになり、いまここにあるというわけ。
この鐘楼と言い、専長寺の仏像と言い、どうも吉良吉田の地は、廃仏毀釈の際の避難地だったようだね(笑)。
他にも寺宝はあるようですが、もちろん非公開です。