自家消費農家兼産直出荷農家になるための塾に通い始めて数か月。農家はリスクヘッジとして、多めに作物の種を蒔きます。
よっぽど天候不順でなければ、まあ供給過多気味の実りを迎えます。そこで、余剰生産物に対する二つの異なる考え方について考えてみました。
一方は、僕の観察による典型的な農家さんの考え方であり、他方は、消費者的(主夫的)に近いと思われる、僕の考え方です。いささか葛藤もあるようで。
(1)サツマイモ収穫の場合
イモは地下にできるので、適当な位置に鍬かスコップを入れて土をおこし、イモを掘り出します。人によって巧拙はあるにせよ、意外な場所にイモがあって、鍬やスコップに当たって傷つく可哀想な子たちも一定数出ます。僕の場合ですと、そんな半割れイモは収穫しません。それは・・・
「需要量よりたくさん取っても(干して貯蔵しても)、腐ったり萎びたりして、それから畑に捨てに来るくらいなら、最初から半割れは収穫しないほうが労力をかけないで済む」(消費できれば、もちろん全部収穫する)
が、せっかく僕が一次選別して放棄したイモを、他の人が拾ってます。
僕「どーせ次の作物を育てるため耕運機かけるんだから、そのまま残して粉砕すれば良くね?」回答は容易に予想されますが「まだ食べられるんだからもったいない。」冷戦になるから言わないけど、僕の心の声(余ったら、お前が責任もって食えよ!)
(2)大根の収穫と葉
大根がたくさん収穫できました。(家の畑でもたくさんできてる)出荷できない二級品が配給されます。僕は「必要以上は持ち帰ってもどうせゴミになるんだから、いまここで放棄すればよい」と思いつつも、まあ喧嘩する気もないから、おとなしく貰っていきます。
大根3本ね。僕が葉っぱを切り始めると、教育的指導が入ります。「大根の葉っぱは炒めるとおいしいんだから、そんなもったいないことしちゃ駄目だ」周りもうなづいてます。
「そうですか」心の中ではこう言ってます。
(大根の葉っぱが旨いのは知ってます。が、そんなに食べられるもんじゃないす。僕は我が家で食べる葉っぱの量を計算したうえで、この葉はゴミと判断し、手間を減らすためここで捨ててくの。さらに葉には土がついてるから、そのまま流しやら台所に持ち込みたくないの。後始末がたいへんだから。ゆえに野菜はできるだけきれいにして持ち帰りたい・・・※)
※土付きの方が長持ちするのも確か。だから特に生産者ではなんとも思わない人もいます。でも料理と掃除もする(消費者)立場から考えると、泥の処理は大変なのね。だから、僕はできるだけ「きれいな」野菜が欲しいし、一般の消費者もそうだと思うな。
(3)大量の大根
大量の大根。食べていくけれど、供給に需要が追い付きません。だんだん「ス」が入ってきたので流しの生ごみコーナーに捨てます。「ス」というのは、大根にすき間や穴が空いてスポンジ状になってしまう現象のこと。漢字では骨粗鬆症の「鬆」ですね。こうなると旨くない。
すると「もったいない。まだ食えるのに。大根おろしにしたら」と。家庭内冷戦を避けるべく黙ってますが、心の一言(どのみち一定数はゴミになるんだから、スの入ってない大根取ってきて、旨い大根おろし喰えばよかろ!そのための自給だろ?)
黙っていた効果で、次の日再提案が出ました。「大根が大量に余ってるから、切り干し大根を造ろうかと思うんだが」 (ちーがーうーだーろー)
「どーぞ。ただ、我が家はそんなに切り干し大根喰わないから、大量に造っても余るだけだよ」「・・・」 いや、やればいいと思うんですよ、食べるぶんだけ。ただこの提案、目の前にある大根がもったいないから、なんとかしようと思ってるんですよね・・・
消費量分以上に造っても、手間と空間(干場)を消費するだけ・・・どういう喰い方しても(自給農家だから、過去にも手を変え品を変えやってきた結果現在があるわけで)、我が家の大根消費の量はほぼ一定=「消費量保存の法則」。さらにそれを踏またうえで使う手間と空間を最小にするよう立ち回ること=「最小仕事の原理」
僕も生産している以上、生産者の気分もわかります。が、この辺りの法則は高校や大学の近代物理学で学ぶハズですがね。だから物理学徒として(?)異端と言われようと呟かなければならん。
「それでも野菜は余る」(ガリレオ・ガリレイが、2回目の異端審問の際につぶやいたとされる言葉)
物理学の基礎はわかってても、どうしても「モッタイナイ」と言ってしまうのは、農家(人)の性なのかもしれん。
ま、僕の場合、その性に打ち勝つのは学問の力というより、「自分で手間暇かけて野菜造ってんだから、旨いとこ喰って、まずいの無理に喰うことない。」って言う食欲から来てるのが大きいような気がするけどな。
~間奏~
とか考えてたら、ああ、しばらく前に、牛乳パックや古紙の資源リサイクルをめぐってこんなのあったな って思いました。
一般市民からすると、この場合の資源とは、再使用の可能性があるもの(リサイクル原料として使えるものー農業の場合は「食べられるもの」)は「すべて資源」だから、「捨てるのはもったいない。」と考えます。りさいくるりさいくるりさいくる。
が、ある人達は「たとえ利用できたとしても、需要と供給のバランスから外れたものは資源ではない」と考えました。現実問題として、一時期このバランスが崩れ、資源リサイクルが休止したことがありましたね。のち需要が増えたのか、ブームが去ってバランスが回復したのか、また復活してますけど。
ここである人達と言ったのは経済学徒で、需要と供給のバランスが取れているのが「経済財」。バランスから外れたものを「自由財」って言ってます。
自由財は需要総量より供給総量が、遙かに上回ってタダの財のことです。例えば「空気」なんかがそうです。そのもの自体の価値は大だけど、経済には載ってない。
旬で取れすぎた大根やその葉は、タダなら欲しいという人はいますし、安ければ買う人はいるから、典型的な自由財ではないです。
が、趣味の範疇?として自分のお友達や知り合いに配ることはあるでしょうが、なかなか「タダでどーぞ」ということにはならんですね。
それなら産直で安く売ればいいんじゃ?買う人はいるだろうし、売る方も破棄して良心の呵責に責められずいいんじゃないか・・・
実は産直も出荷の際、けっこう見た目のチェックしており、出荷できないものもあります。つまり一定の価格(価値)で売れない二級野菜は市場に出ない という点で自由財に近くなっています。
出荷できないのはたぶん、地域農業を持続可能にするため、農業である程度儲けをだす必要性があるじゃないのかな。だから値崩れを防ぐ処置として、そうしているんじゃないのかと?
(それでも生産者の目で見ると、野菜って安いよな〜って思うんだけどね。しばらく長雨の影響で結構高かったけどさ、供給が足りてきたのか、少しまた下がりつつあるね)