西尾の弥生時代

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弥生時代(紀元前500年から紀元200年くらい)の西尾の地図はこんな感じだと考えられます。

弥生時代の西尾

「黄色の〇」で示したところは、市内の代表的な弥生時代の遺跡です。 弥生時代の遺跡跡は大体2分されていて、標高の低い沖積平野の微高地か、丘陵地などの高台かのどちらか。 もちろん前者は当時の最新技術「稲作」に便利だったからです。後者は・・・あとで触れますね。

海岸線の推定について

標高の低い沖積平野にある遺跡の標高が、2~3mくらいなので、当時の海岸線は標高2mに設定しました。 ただし、紀元0年ごろに「弥生の小海退」という現象がありましたので、図化イメージしているのはそれよりも後の時代。

標高2mで水没させてみると、だいたいその線は「昭和28年9月25日の台風13号による海水浸食図」と重なります。なのでその図も参考に描画しました。(概略図が西尾市史1巻にあります)

標高に忠実に描くと、左下にぽっかり島ができました。旧一色町の赤羽あたりだから「赤羽島」にしましょ。この島で貝塚が見つかっています。弥生式土器も合わせて見つかったから時代が決まったそう。小さい島だとすると真水がなく稲作はしてなかったとおもうなあ。まあ記述は「遺跡」でなく「貝塚」ってことだから、つじつまは合ってる(かな。笑)

遺跡について

西尾を代表する大規模な弥生遺跡は□で囲んだ二つの遺跡、岡島遺跡と毘沙門遺跡です。ここは現在の地名で言えば「岡島」とか「花蔵寺」になります。矢作古川、安藤川、須美川の河道が固定化され、しっかり堤防ができた現在とは違い、当時はそれらの川が乱流し、はっきり言って「ベタベタの大湿地」だったと思います。

なので、ここと北浜川の流域を「大湿地帯」と認定。ピンク色で着色しています。

でもそんな土地は稲作に適していたんですね。湿地に稲を植えれば、大規模な灌漑設備を造らなくても良かったからです。それで微高地に集落を設けると。なんか東南アジアのメコンデルタあたりに、似たような風景があるような・・・

その周りの高台にもいくつか遺跡が残っています。この辺りはずいぶん繁栄したみたいで、少し離れた小島から「銅鐸」が出土しています。(白〇の部分)。西尾市内で銅鐸が出土したのは、そこと南東の幡豆山麓にあった「安養寺遺跡」の二か所だけです。(同じく白〇で示す)安養寺の方は、稲作適地がなさそうだけど・・・

しか~し。岡島遺跡と毘沙門遺跡はその後の古墳時代以降の遺物がありません。低平地だったので、何度も川の洪水にやられ、ついに放棄されたのでしょう。ちょうど弥生時代を代表する静岡県の「登呂遺跡」の終焉と同じように。

何が原因なのか詳細は分かりませんが、末期には集落の主力は高台に移ります。さらに少なくとも、岡山の中根山遺跡と、幡豆の江尻遺跡(青〇の遺跡)からは集落を囲む堀が発見されています。つまりそこは佐賀県吉野ヶ里遺跡みたいな「環濠集落」で、敵に備えていたのです。 この場合、敵とは「蜂蜜を舐めに来るプーさん」ではありません。ヒトです。戦争じゃあ!

水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれた wiki弥生時代

この辺りの遺跡も、どこかのクニだったのでしょう。で、ドンパチやってたんだろうね。このころの日本状態を、当時の先進国である中国の歴史書が記録を残しています。

『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
其の国もまた元々男子を王として70 – 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。wiki倭国大乱

三国志という歴史書の本編は、劉備・関羽、諸葛亮、曹操が出てくるあの三国志です。ただし僕らが読むのは劉備を主人公にする「演義」という物語。原本の三国志は曹操の建国した「魏」を正とする歴史書です。・・・まあ「三国志」を編纂した次世代の王朝「晋」は魏の後継政権だから・・・その外伝に「東の夷(野蛮人)」伝が付随しとるのです。

女王卑弥呼は魏に使いを送り(奴隷10人と布を献上)。魏の皇帝は、遠くからご苦労と喜び「親魏倭王」の金印と、銅鏡100枚をはじめとする膨大な下賜品をくれました。

弥生時代の低地の遺跡から高地の遺跡への移転について、 古島敏雄「土地に刻まれた歴史」岩波新書 に大和平野の例ですが興味深い記述があります。

その稲作耕地は大和川系諸河川の氾濫によってしばしば水害を受ける不安定地であった。耕地だけでなく集落も大出水にさいしては土砂によって埋められ、竪穴住居の再建をはからねばならなかった。これらの土地の再建はくりかえされたが、この地から分かれて山麓部に移り、新しく山麓斜面の湿地を稲作地として開いた原居住地人の分派をなす人々は、そこに安定した居住地をえて、やがて次代の人々もその地を居住地として、古墳時代へと発展していく蓄積を可能にしたものであろう。

せんそーへの言及はありませんが、大和川を矢作川に変えると、この辺りの状況にも当てはまりそうな印象をうけますねぇ。

「弥生時代」についてはここまでですが、この本には次の古墳時代を考えるヒントになりそうなことも書いてあるので、引用だけ続けておきます。

古い弥生集落は、その地の洪水防御を完成し、新しい灌漑様式を発見するという方向の発展を直線的に示すことなく、前期古墳の時代には新しい遺跡を平野地帯には作らない。・・・律令時代に入り、朝廷の権力の下に大規模土木事業が可能になり、条里制地割の施行が可能になるまで、生産力発展の中心は山麓部に移り、平野部には水害に悩まされる小集落が自然堤防上に点在し、その後方湿地で不安定な稲作が続けられるに止まったのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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