西尾の古墳時代

まずは地図をどーぞ。

古墳時代

だいたい西暦300年代から600年代くらいを想定しています。

〇で示すところは、市内の主な古墳を示しています。西尾の古墳は全部丘陵地にあり、比較的小規模な土木工事で造られています。

古墳の代表例と言えば、大阪の「仁徳天皇陵」のように平地の大規模な古墳を思い浮かべます。が、あんなの造るには、広域からたくさんの人を集めないととても造れません。大王(後の天皇家)の大きな権力(動員力)のたまものです。

西尾の古墳は、それに比べればまだ小規模です。それでも正法寺古墳なんかは長さ80mを超えてますけど。まあ平地に一から築くよりはね。

海岸線の位置

弥生時代と変わらずとしました。根拠は以下の通り。

赤□で示した位置に「志葉都神社(シハトジンジャ)」という古い社があります。日本武尊の東征にも関与した古い神社です。ここの由緒書に、こんな文言があるのです。

「この地、上古は海に瀬し港湾の形をなせり。和名抄に磯泊(之波止)の郷これなり」

志葉都神社由緒書

「之波止」と書いて「シハト」と読むんでしょうけど、意味は字の通り「ここまで海岸だった」 ってことでしょう。昭和28年の台風時の海水浸水図をもとに考えると、それほどこの記述と矛盾しません。ゆえに標高2m付近を海岸線と考えました。

まあ、西尾中心部は矢作川くんが上流からせっせと土砂を運び、もっと陸地が造成されていたとは思うけれど、根拠となる資料がないもので・・・

古墳について

さてさて、地図上で古墳を示す〇印を青色と黄色に分けました。黄色は古墳時代前期の古墳で、形式は比較的大型の「前方後円墳」です。青色は中期~後期で、規模は小さくなり、方墳が多くなります。

前期の前方後円墳は、黄色の◎で示した正法寺古墳が最古で、いずれも海または川から比較的アプローチしやすい場所にあります。正法寺古墳なんかは、海に突き出た半島に築かれていますから、「灯台」の役割も果たしています。周りに広い稲作適地もなさそうだし、この辺りの海を支配し、交易で生計を立てていた海人族の首長の墓ではないか という説が出ています。地形を考えると、頷けますね。

製塩土器も見つかっていますし、塩がこの交易の重要産品だったことでしょう。

この時代は、各地に勢力をもつ豪族が、他の有力豪族と合従連携しながら、徐々にヤマト政権の勢力下に収まっていくという過程にありました。 市内の古墳からも鉄器、須恵器、馬具、鏡などの副葬品が出土しています。

いずれもこの地方で造られたものではなく、外からもたらされたもの。合従連携やヤマト政権とのやり取りの中で贈られたものでしょう。

 

なおこの時代の末期。ヤマト政権に従わない東の蛮族をオラオラするため、皇子が東征に向かったことがあります。皇子の名前は拳王・・・じゃなくて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。当時尾張の国にいた建稲種命(尾張国造とも)は日本武尊に従軍。帰りに船で凱旋中、海に落ちて死んでしまい、漂着した宮崎の岬に葬られました。(幡頭神社の祭神)。

その息子の建津牧命は津平を開拓(上記・志葉都神社の祭神)し、別の息子の建蘇美彦命は蘇美を開拓(蘇美天神社の祭神)しました。

この話、どこまで本当か分かりませんが、ヤマト政権に協力する海人の頭(が海に落ちて死亡って・・・)が幡豆に入植。その後内陸の丘陵の稲作適地(平野は洪水の恐れが高く、広い山間の谷間で水の得やすい小河川があるところ)へと勢力を拡大していった ということを示唆していそうです。下の図に二丘陵地と神社の位置を示します(赤〇)。

当時の海岸線がこの通りなら、この二カ所と海上交易を担う要所(たとえば幡頭神社)を抑えてたら、とりあえず「西尾支配!」と言ってもよさそうだよね。 

興味深いことに、建稲種命は名古屋にある熱田神宮の祭神の一人でもあり、津平、蘇美は後世伊勢神宮領(御厨と言う)となります。熱田神宮、伊勢神宮は、ヤマト政権と縁の深い神社ですから、当時の三河は、ヤマト政権を支える強力な支柱だったんじゃないでしょうか。

幡頭神社由緒書
蘇美天神社由緒書

 

参考:この地方できれいな前方後円古墳が見たい場合は、市外になりますが、地図の一番上の〇で示す安城市の「二子古墳」がおススメです。後の世で神社山として使われてきたからでしょうか、古墳の形がきれいに残っています。(写真では前方後円墳の形がうまく取れていなくてすいません。)

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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