平安時代。平安遷都の794年~鎌倉幕府成立1185年あたりまでの時代です。地図をどうぞ
この時代には、いよいよ「吉良荘」が誕生します!
海岸線の推定について
「西暦799年三河国に崑崙人が漂着。綿の種をもたらす」 場所は天竺町の天竺神社(赤丸)ではないかと言われています。
「西暦859年 清和天皇即位に際し、三河国に「悠紀斎田」を置く」その斎宮に祭った神社が、野々宮の野宮神社(赤丸左の緑丸)と言われています。
即位礼に関係のある水田が海に接する(災害を受けやすい)ことはないでしょう。 だから少し内陸にあると考えました。天竺神社は現在でも川に近いので、漂着したのは海ではなく川の河口と考えれば、そんなにおかしくないかと。
吉良荘(荘園)の成立について
飛鳥・奈良時代の律令制度では、土地は国のものでした。それを百姓に貸し出し(口分田)、租税を納めさせていました。これを班田収授法といいます。
理想的には、百姓Aが死んだらその土地は国に返却され、百姓Bに貸し出されるはずなのですが、なかなかメンドくさい。実際には父から子へ引き継がれ、さらには売買されている事例もあったようです。
さらに、租税が過酷(おそらく温暖化による旱魃が多発したこと、国司の圧政がひどかったこと(都では国司の売官行為が行われ、国司は元手を回収するため頑張ってネコババしてた。隣国尾張国の国司の横暴を訴える訴状が残っています)などから、百姓は口分田から逃亡したりして、口分田は荒れていきました。
これはいかん。やる気を取り戻させないと・・・朝廷は、743年に墾田永年私財法を出し、開墾した土地は開墾主の物じゃ!と法律を出します。しかし零細百姓には資本がありません。 結局有力貴族や社寺が逃亡した百姓を集めて土地を開墾したり、中小地主が国司の圧政を避けるため、土地を有力貴族や社寺に寄進し、それらの土地が「荘園」になっていきました。
国司は数年で変わるので、むしり取って交代。あとは「野となれ山となれ」となりやすいのです。荘園と言う個人所有になれば、持続的に年貢を取りたいですから、多少年貢は緩いんじゃないかな・・・
朝廷も「土地は国のもの」という建前を諦めて、「皇室の領地を造る」ことを考えたのでしょう。 878年に、「清和天皇の皇女に、幡豆郡内の荒廃田100町を孟子内親王の一身田として与えた」ことが記されており、幡豆郡の荘園化はこの辺りから発していると考えられています。
時は流れて(記録がない) 1159年。吉良荘を管理する下司から、荘園の主に当てて服を献上する手紙が残されています。 このころの荘園の主は「藤原氏(九条家)」で、下司の平弘陰は平氏の一門です。当時、赤羽(地図■で示す)に城があり、城主は平遠衡と言ったそうです。この遠衡と弘陰の関係は分かりませんが、時の三河国国司は平頼盛※(平清盛の異母弟)でしたから、その縁で吉良荘で仕事をしていたのかもしれません。
もっとも律令時代の幡豆郡がすべて藤原氏の私領「吉良荘」になったわけではなく、公領「土馬保(とばほ)」や、伊勢神宮領「蘇美御厨」「饗庭御厨」「角平御厨」なども存在していたようです。
文化面
平安末期に、三河国の主な神社をまとめたものが、「三河国内神明帳」です。そこには8つの神社が記されています。その場所を示したのが、地図上の緑丸です。
正二位羽利大明神・・・現・幡頭神社
正三位内母大明神・・・現・伊文神社
従四位下熊来明神・・・現・久麻久神社
従四位下斎宮明神・・・現・野宮神社
従四位下津牧明神・・・現・志葉都神社
従五位下磯泊天神・・・現・磯泊天神
従五位下蘇美天神・・・現・蘇美天神社
従五位下草佐天神・・・現・鳥羽神明社
※平家一門は壇ノ浦の戦いで滅びたとされますが、この平頼盛は清盛の異母弟なのに戦後も源頼朝に厚遇され生涯を終えました。三河国司のあと尾張国司を務めたときに平治の乱が起こり、敵の御曹子である頼朝を捕獲しましたが、清盛に助命を嘆願。戦後は人脈を生かして頼朝の為に働き京で死去しました。
まだ平氏の勢いがあったころ、第80代高倉天皇が京都の平頼盛の屋敷で亡くなりました。高倉天皇は清盛の娘(徳子)と結婚し安徳天皇を生んだ人。西尾市内には、高倉天皇と徳子を祀る高倉神社(地図上□で示す)があります。しかも境内にある修法寺には「白鳳時代」とされる、市内で最も古い仏像が安置されています。そんな古い仏像、高貴な人でないと持てませんよね。頼盛が平氏ともゆかりのあるこの地に高倉天皇と徳子を祀ったと考えるのは、どうかなあ?