悪質タックル問題
「全て責任は私内田の責任。その責任に対し監督を辞任したい。この問題に対しての弁明はしない。」
Q.監督の指示はあったのか
A.それも含め、文書で答えたい
Q.指示があったのか無かったのかについてはここで話せるのではA.ここでは控えさせていただきます。
公文書書き換え問題
佐川氏辞任の理由は(1)理財局長時代の国会対応において丁寧さを欠いていおり混乱をもたらしたこと、(2)行政文書の管理について多くの指摘を受けたこと、(3)いわゆる「決裁文書」についての担当局長であったところ管理不行届きがあったこと。
国会質疑において、改ざんの経緯や自身の関与などをただす質問には「私自身、刑事訴追を受ける恐れがある」「捜査対象となっている身」と述べ、「答弁は控えたい」「ご容赦ください」を連発した。
大阪地検特捜部が佐川宣寿前国税庁長官らを不起訴とする方針を固めたことが18日、関係者への取材で分かった。告発のあった虚偽公文書作成や公文書変造など複数の罪名の適用を検討したが、刑事責任を問うのは困難と判断したとみられる。
財務次官セクハラ問題
週刊誌に掲載された私に関する記事については、事実と異なるものと考えており、裁判の中で引き続き争って参りたいと考えています。
他方、財務省が厳しい状況に陥っている中で、さらに私のことでこのような報道が出てしまったこと自体が、不徳の致すところであります。
また、報道後の現状を鑑みると、財務事務次官としての職責を果たすことが困難な状況と私自身が考え、先ほど麻生財務大臣に対して辞職を申し入れました。
日本のエリート層には、「俺は悪くないが、周りが迷惑だと思っているようだから、辞任してやる。だけと事実はどうだったかは話さない」というマナーが確立されたようです。
本来「個人が犯罪を犯したかどうか」と「国あるいは組織権力の一員の行動として問題があったか」というのは別次元の問題です。
しかし今の制度では、後者の最高調査機関である国会の証人喚問では「犯罪を犯した証拠になるかもしれないから、答えられません」と逃げ切ることができます。しかも調べる人は、国会議員で取り調べのプロではありません。
その後の検察捜査は取り調べのプロが行いますが、「犯罪を犯しているか」を調べるもので「国あるいは組織権力の一部と行動として問題があったか」を調べるものではありません。
捜査の結果、「犯罪を犯していないから」不起訴だった場合、捜査結果は公開されず(起訴なら裁判の証拠として公開が必要になる)、「国あるいは組織権力の行動として問題があったか」の追求は、うやむやのまま終わってしまいます。
つまり、「犯罪は犯してない」が「国あるいは組織権力の行動として問題があった」という疑いがある場合に、きちんと調べる手段がないのです。本当にやるべきは、「そのような悲惨なことが二度と繰り返されないよう、事実関係を徹底的に調べ上げ、悲劇の再来を防ぐ仕組み造り」なんだけど、この国はそこをあいまいにしてるからダメなんです。
これについては、交通事故にもよく似た側面があり、それらを参考にして、適切な事象調査機関が必要なんじゃないでしょうか。
交通事故が発生すると、警察など司法による事故調査がなされることが一般的である。
その活動においては、事故の原因が特定個人(法人)の故意または過失によるものかを吟味し必要により加害者に法的な措置を加えるための捜査と事故防止を目的とした調査が行われているが、それらの間の区分が必ずしも明確になっていない。また、捜査結果は裁判の証拠として用いられる場合を除き公開されることは一般にはないため、捜査結果を事故対策に利用することは困難となってくる。一方、欧米では、後述の様に、事故再発防止の観点からの事故調査機関が、中立機関、あるいは行政機関として存在し、調査・分析・勧告を行うなどの機能を果たしている場合が多い。
交通事故調査のあり方に関する提言-安全工学の視点から-
「人間と工学研究連絡委員会安全工学専門委員会報告」
もう一つ。タックル問題について、野球評論家の張本勲氏がコメントをしてるんですが、コメントの前半に感じた「違和感」には僕も同調するんですが、後半のコメントにも「別の違和感」を感じてしまった。
「何十回も見ましたけど、あ然としましたよ」とした上で「この国、大和民族がやるようなことじゃないですよ。この国はやっぱり、裏切りとかそういうことは非常に嫌う。正義とか義理とか筋とかを重んじる民族じゃないですか。これね、やった方も悪いですよ。しかし、選手の弱みにつけ込んでけしかけた親分が逃げ回ってどうするの。大喝ですよ」と憤慨した。 さらに「関口さんね、特攻隊、行かした上司は大半、切腹しているんですよ、責任取って。やっぱり、この民族というのは、そういうことやらないと男らしくないよ」と持論を展開し「その代わり、ケガした人とけしかけた選手も2人フォローしてもらいたいよ」と話した。 内田監督の会見については「辞任の会見も自慢しているみたいな感じだもんね。オレが辞めてやるから、喜べと、そんな感じに受けるよ」と怒りは収まらない様子だった。
この問題、「日本民族が正義とか義理とか筋とかを重んじる民族かどうか」って関係なくね?むしろ日本民族は張本氏の言う「男らしさ」を軽んじてきた民族だと思います。そこは英国のエリート校に見習って、教育を再建してほしいですね。
それに「特攻隊、行かした上司は大半、切腹している」って事実誤認。大半切腹なんてしてない。仮に切腹したとして、多数の若者を特攻で無意味な死に追いやりながら、ジジイが1人切腹したくらいで「責任を取ってる」って、まったく意味不明。
リース(名門パブリックスクール)では学年度最終の日曜日の礼拝は、必ず校長がみずから司祭して卒業生に餞の言葉を贈るのが例である。
この度、学窓を出る諸君が揃って立派な人間になることは理想ではあるが、今日の社会ではまだそのようなことは到底望めない。志を得るもの、然らざるもの、社会が諸君を遇する道は千差万別であろうが、諸君の母校が諸君を遇する道は常に同じく、大臣、大将、僧正、社長、腰弁、巡査、兵卒、郵便脚夫、いずれの諸君をも、歓び迎える校門の広さに差別はない。一つのクラスがそのまま社会の縮図である以上、あるいは諸君の中から刑法を犯した罪人が出るかも知れない。男らしく己の非を認め潔く規定の服罪をすませた後は、彼とても母校は悦んで迎え入れるであろう。ただその然らざるもの、罪を犯して逃れんとするもの、罪を他に転じて一人免れんとするものに対しては、リースの鉄門は永久に開かずの門たることを承知すべし。男児は罪悪においても、なお、男児らしくあれ。
われわれの時にはそのような意味の話であった。短い言葉であったが、聞き終わって誰一人、面を挙げ得るものがなかった。 池田潔「自由と規律」岩波新書
特攻については、鴻上商史「不死身の特攻兵」講談社現代新書 を読んでほしい。
まあ、日本は謝罪のため「頭を坊主にする」ことが殊勝な姿勢と取られる国だから、どうしようもないけど・・・(これって加害者が自己陶酔してるだけで、被害を与えた相手の救済には全くなってないぜ。「(質は違うけど)一緒に苦しみましょう」って?? まだ「誠意は金額で示せ」のほうが可愛げがある。