西尾の室町・戦国時代

室町・戦国時代の西尾

室町時代、西尾の地は吉良氏が治めています。吉良氏の当主は室町幕府の将軍である足利家の一族の名門・重臣として常時京都におり、西尾は不在領主として小さな領地を持っているだけでした。

西条吉良氏は石橋氏、渋川氏と共に将軍の「御一類」と呼ばれ、毎年正月5日に行われる将軍対面の式など様々な面で別格扱いを受けていた
wiki吉良義真

永正5年(1508年)6月8日、前将軍義尹(義稙)が入京すると、義信は一条室町の自邸を将軍の仮御所として提供、将軍に復位した義尹はここで犬追物や能を開催している。wiki吉良義信

西尾の小さな領土なのに、吉良氏は東条と西条の両家に分かれ、両家が主導権争いを繰り返していました。家柄が重視されている時代はともかく、次第に実力がものをいう時代になると内紛続きの弱小豪族である吉良氏は、西の織田氏、東の今川氏の侵略や後ろ盾・庇護を受け※、それぞれの家の存続を図るようになります。 まあ、西尾は両雄の前線・草刈り場になったんですな。

そのころの状況を示すエピソードがあります。西尾市室場にある室(牟呂)城が舞台です。

室城跡(現在の林松寺)
裏山(城跡)へは結構な高低差があります。
墓地なんで写真がとれませんでしたが、これは土塁跡・・・かなあ

徳川家康の祖父、松平清康(在岡崎城)は有能な武将で、1535年尾張国へ攻め込みます。この時の相手は、織田信長の父、信秀です。 が、家臣に暗殺されます(守山崩れ)。残された子、広忠(10歳)。

広忠は織田と結んだ一族に裏切られ城を追われ、縁戚の東条吉良氏・持広を頼ります。(この時西条吉良氏は織田方についたようです。)持広は広忠を伊勢にかくまうと共に、東条吉良氏の後ろ盾である今川義元に庇護を依頼します。

今川義元はその依頼にこたえ、1540年に広忠を三河へ戻し、一旦東条吉良氏の家老である富永忠安の居城・室(牟呂)城へ入城させ、岡崎城への帰還は成功。広忠は今川氏の庇護のもと松平家を継ぐことになりました。めでたしめでたし。

 

西尾草刈り場説の他の例を挙げると・・・

・1546年・織田信秀が西三河に侵入。松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎(今川義元の軍師)は大軍を率いて西三河に介入 →この辺りで大原雪斎が西尾実相寺の住職に(中興の祖)

・1547年・織田信長初陣。 吉良・大浜(碧南市)に駐在する今川勢への焼き討ち

・1560年・織田信長・実相寺を焼く。この年、桶狭間の合戦で今川義元が討たれる

今川義元亡き後、西尾の地は今川氏から独立し織田と同盟を結んだ松平氏(徳川氏)に攻められるようになります。 吉良氏の居城東条城を巡る前哨戦で吉良側の勇将・富永忠元が破れ、そのまま戦国時代の吉良氏は滅亡します。富永忠元は松平広忠を匿った忠安の子です。その人が広忠の子家康に討たれるんだから、因果というか、なんというか。

吉良氏滅亡後、西尾は徳川家の領地になります。 その後江戸時代になってから、吉良氏の末裔は、吉良の地を治める旗本として徳川家に仕えるようになります。こちらが忠臣蔵で有名な 高家吉良家です。

 

※戦国時代には今川氏に攻められてばかりのイメージのある吉良氏ですが、それ以前には吉良氏の領地が浜松(遠州国)にもあり、その領有をめぐって今川氏と吉良氏はずーっと争っていたのです。

吉良氏の所領である遠江国引馬荘(静岡県浜松市)の代官となった一流があり、戦国期に大河内貞綱は遠江守護職の斯波氏と結び、侵攻する今川氏に執拗に抵抗した。(wiki大河内氏)

大河内氏ってのは、寺津城主(吉良氏家臣)の家系ですな

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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