小草池の歴史に見る、環境破壊と災害のつながり、そして対策工事

西尾市家武町に、小草池(オグサイケ)というため池があります。場所の目印は「西尾いきものふれあいの里」です。

この池は、明治16年に小草川を堰き止めて造られた人工池です。現在は農業用ため池として利用されていますが、もともとは治水用の土砂溜池として造られたのです。 (以下は西尾市史を参考にしました)

須美川(写真下部の川)や支川の小草川の源である山々は人里に近く、薪や下草の刈り場として付近の村々に利用されてきました。いわゆる里山の入会(いりあい)地ですな。  ※入会については、こちらをどーぞ

が、どうも江戸時代には伐採、草刈りの程度が過多だったようです。山では下草や松を中心とした木々が減り、山体を形成する土砂混じりの赤土が露出してしまったため、山崩れが頻発してしまったそうです。

崩れ落ちた土砂が小草川や須美川に堆積し、河床がどんどん高くなり、水害も起きました。付近の村々の間で止め山(伐採や下草刈りを中止すること)とする協議も行われましたが、須美川・小草川の水害を受ける度合は村の位置によって異なり、止め山にすることで水害の被害を減らせる村、水害を受けないので、止め山にすることで不利益のみ被る村など立場がいろいろあり、協議はまとまりませんでした。

環境破壊(生態系サービスの過剰利用)が災害に繋がる、典型的な事例ですね。

最終的には幕府に調停を願い出て、数年の止め山と、山を利用する近隣14村が人手を出し、春と秋の彼岸の10日間、須美川の川浚い(川に溜まった土砂を掘る)して河床維持をしていくこととなり、この体制が明治維新まで続きました。

が、明治時代に入ると入会の制度がなくなり(土地の個人所有)、川浚いに協力する義理もないので、体制が維持できなくなります。そして十数年もたてば。川に土砂がたまり、危険度高まりますねえ。

地元から「危ないからなんとかしてくれー」という切実な声が出て、行政府(愛知県)は地元と協力して対策工事を行うことになりました。

近代化言うのは、防災も毎年の維持工事(共同の川浚い作業)で凌ぐんじゃなく、大規模な改修工事を起こすことで維持工事をやめようや とする方向に動くんですね。そりゃ川浚いってすごく体に堪えるから、なくて済むなら大規模工事万万歳ですよ。それに工場勤めの人が「村の掟で年2回10日間は川浚いで休みます」とか言ってたら、工場を動かすに都合悪いし。みんながその水を使うお百姓集団ならともかく。

いずれにせよ、須美川を掘削することと合わせ、次のようなメインの対策が行われました。

対策①「山から土砂が出てくるのが悪いんだから、土砂溜めを造りゃいいだろ」

対策②「山から土砂が出てこないように、禿山に植林してやろう」

もちろん川を堰き止めるわけだから、維持工事と比較すれば、自然環境が激変する面もあったわけです。まあ、この辺りはメリットとデメリットのバランスをどこに取るか ってことですけど。

と閑話休題。対策①が、小草池を作ることであり 対策②が周囲の山林に県費で松苗30万本を植えることだったのです。 明治15年工事開始。明治16年工事完成。

現在現地へ行ってみても、全く「禿山」という感じはしません。松の山という感じもしませんけどね。むしろ竹がかなり侵入しているという印象を受けます。

時間経過と、燃料としての薪需要の減少。松枯れ現象、竹利用の減少 というようなことが変化の因子としてあげられるかもしれません。

 

この工事を記念して「小草池新築碑」という石碑が、池のほとりに建てられたようです。題字を書いたのは、当時の愛知県令・国貞廉平という人。 この碑は伊勢湾台風で倒れたそうですが、現在の堤はもう少し後退した位置に建てられていますが、年月が経つうちに下流が陸地化したんでしょうか?(航空写真の青丸で示した位置に立っています。草の中だけど。)

現在、小草池は堤防の耐震補強工事中で、池の水を抜いている状態です。農業用のため池として使っているので、農繁期(春から夏)の時期を避け、2年くらい工事をやるそう。すると少なくとも今年の秋と冬、来年の同時期は「空池」になるかと。

冬鳥の越冬地や釣り場(この池は釣り禁止ですが・・・)利用は厳しそうですね。

 

堤防の土が少し掘られていたので写真を撮りました。手前の堤体土は赤土っぽいんで、付近の山土?かな。それなりに止水性の良い土砂のようです。

 

 

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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