あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 休み中に友達から、標題のような質問を頂きました。僕は歴史マニアかつ城マニア、さらに建築大好きなので「いい質問ですねー」。類は友を呼ぶのか、超マニアックな会話ができてうれしいっす(笑)。
写真を見て分かるように、この柱は複数の厚い板を「かすがい」という金属製のデカいホチキスで束ねた、「集成材」の柱です。中央に心柱が入っているのですが、本来この規模の柱には使えない小さい材料を有効利用しています。寄木柱については、山陰中央新報 輝く現存最古の寄木柱 が詳しいです。
材料の出所が分かっている他の城の例として、名古屋城を挙げます。名古屋城天守は史上最大級の大きさを誇るため、建築資材もビックです。最大の柱は41cm角。その他の柱も37㎝角。しかもひび割れ防止に樹心を避けて製材しており、天守建造には直径1m以上の巨木を何百本も伐採する必要があったとのことです。 新人物往来社「日本の名城 城絵図を読む」
名古屋城天守の柱であるヒノキ材は、長野県の木曽谷で伐採されたものです。名古屋城は尾張徳川家の居城。一般には尾張一国が領地として認識されているんですが、実は木材の宝庫である木曽も尾張家の領地(飛び地)だったのです。建築資材として、エネルギー源として、当時材木は貴重な戦略物資だったから、徳川家としてそれを押さえる必要があったのです。
ともかく、木曽の山中で伐採された木は川に落とされ、木曽川の上流域で集められ、筏を組み、はるばる伊勢湾まで運ばれました。当時はトラックも電車もないので、大量の荷物は水運で運ぶしかないのです。名古屋城築城に当たっては、さらに海から城まで運河を掘り、それらの材料を城へ運んだのです。後にその運河が「堀川」と呼ばれるようになります。
名古屋城の例から「城の柱を一本の木(巨木が必要)で造る」ためにはどんな条件が必要かが明らかになったかと思います。それは・・・
- 領地に材料となる巨木が多数あること
- その巨木を運搬するのに適した大きめの川があること
松江城築城にあたってはこの2条件が整わなかったので、入手可能な比較的細い材木を組み合わせ、天守閣の柱に必要な強度を出す技をつかったんでしょう。
先ほどの山陰中央新報の記事によれば、 古建築が専門の三浦正幸広島大大学院教授によると、集成材の柱が、日本で初めて使われたのは1609年造営の出雲大社。豊臣秀頼が施主で、堀尾吉晴が担当奉行の一人だった。次が松江城で、その吉晴によって2年後の11年に完成した。いずれも柱の材料になる大木が乏しかったための工夫らしい。とのこと。
じゃあ、なぜ松江城や出雲大社のある出雲国で、柱の材料になる大木が乏しかったのでしょう。答えはたぶん「古来から出雲国、特に斐伊川流域では製鉄が盛んに行われていたから」です。お?なんか「流域環境」と関係して来た〜。
出雲の製鉄。イメージとしては、映画「もののけ姫」でエボシ御前が運営していたタタラ場を思い出していただければと思います。ああいう人たちが、出雲国との山中で製鉄をしていたんですね。
タタラ製鉄には、大量の砂鉄と木炭が必要です。砂鉄十五トンに木炭十五トンを使って、玉鋼750kgが得られるそうです。(後述書より)木炭を焼くには近くの山で大量に樹木を伐採する必要があります。森林の伐採計画を誤れば、附近の山はたちまち禿山になります。
しかも、砂鉄を得るための「鉄穴(かんな)流し」という手法は、下流の川に大量の土砂を流します。砂鉄を含んだ山を崩し、急流へ落とします。急流で母岩が粉砕され、下流の平場で比重差を利用して砂鉄と砂を分離します。でも母岩に含まれる砂鉄分は多くて5%程度。残りの土砂は川に流れ込みます。
タタラ場一つで環境破壊しまくり!って感じですけど(「もののけ姫」でもそうだよね)、こんな感じの製鉄場が出雲にどのくらいあったのでしょうか?江戸時代ですが、こんな話があります。
1828年秋、芸州藩北備三郡で大規模な百姓一揆が起こった。高年貢強制取立に反対して、数千人が参加した。 形勢は百姓側に不利となり、挙村逃散、つまり村民全員で他藩領へ逃げ込もうと企てた。代官もこれを知ったが、数千人もの百姓を収容できる藩があるものかと気に留めなかった。しかし次に入った情報で、彼らが百姓をやめ山を越え出雲の鉄山へ行こうとしていることを知って、色を失った。出雲には大鉄山師が、それぞれ数千町歩の山林を擁してたたら製鉄業を営んでいたが、これに関係する労働者数は十万人余と言われた。ここなら数千の百姓も容易に吸収できる。代官は百姓の要求をほとんど容れて、この一揆を治めたという。岩波新書「小判・生糸・和鉄」奥村正二 より
この本は江戸日本の技術史なので、出雲たたらの生産力と生産に必要な人員数を計算し、労働者十万という数字は十分考えられると述べられています。その時分には、現在でも大企業グループの従業員数に匹敵するような膨大な数の労働者が出雲の山中でタタラ製鉄に関わっていたことになります。
これは江戸時代の話なんですけど、733年に書かれた出雲風土記に「以上の諸々の郷の出だせる鉄固くして尤も雑の具を造るに堪ふ」と記述があるくらい、古くから盛んに製鉄が行われてきました。 彼らが営々と山の木々を伐採し、山を崩し大量の土砂を川に流します。この川の行きつく先が斐伊川です。
土砂と砂鉄を大量に含んで流れ、床に溜まった土砂が河床を上げ、ついに斐伊川は天井川になります。結果、洪水も頻発します。神話に出てくるヤマタノオロチは、常に土砂を大量に含んだ暴れ川であるこの川を指すという説もあるくらい。
その大蛇は一つの胴体に八つの頭と八つの尾をもち、目はホオズキのように真っ赤。しかも身体じゅうにヒノキやスギが生え、カヅラが生い茂り、八つの谷と八つの丘にまたがるほど巨大で、腹のあたりはいつも血がにんじでいるとのことです。 古事記の神話より
その結果、周囲の地域森林景観はたたら製鉄がおこなわれていた当時ははげ山と言うような景観になっていたのででしょう。
上の二枚の図は、左が現代、右が明治大正期の国土利用です。赤枠で囲った出雲国の辺りは、右の図ですと緑が薄く、左の現在よりかなり森林が荒廃していた様子が想像されます。
この辺りの傍証から、出雲大社の改築や松江城を築城した際には、領内に天守の一本物大柱となるような大木は枯渇していて、 残っていた大木を伐採しても、天井川では筏流しして下流へ運搬することもできなかった。仕方ないので、小さい木を寄木として使う技術を産み出した と言うことじゃないかと思うのです。