先日、所用があって東京に出かけました。
待ち合わせは丸の内南口で、すこし時間があったので、昔の東京駅(東京駅丸の内駅舎)をすこし見学することにしました。
「昔の東京駅」って聞くと有名なのは、やっぱりこの外観と

そこから皇居に続く、このプロムナードじゃないでしょうか?

あと、丸の内南口に復元された、ドーム天井の意匠かもしれません。

これらももちろん素敵なんですけど、僕的に一番興味を引いたのは、このホールに飾られた一枚の写真でした。

これ、なんの写真だか分かりますか? 駅舎の基礎工事現場を撮影した写真です。
東京駅の駅舎は、1914年(大正3年)に完成した建物にも関わらず、1923年の関東大震災で大きな被害を被らなかった数少ない建物だったんです。その建っている場所が、有数の軟弱地盤であったにも関わらず。
その理由の一つとして、建物を支える基礎工事に「大量の松丸太を打ち込んだ」ことが挙げられているのです。その上にに鉄骨レンガ造の頑丈な建物だったこともあげられますけど。 (元土木屋さんとしてはね・・・)
土木学会に投稿された、JR東日本の技術者の方の論文がネットで出てるので、ちょっと読んでみると・・・
太さ20cm以上、長さは地質に応じ5m〜7mの松丸太杭が、縦70cm横50cmの間隔で、文字通りびっしり(11,050本)打ち込んである そうです。

先ほどの写真に写っている白い部分は、松杭の上のコンクリート部分かもしれません。うーんなるほど、これなら地震にも強いわけです。地震の時は東京駅の丸の内庁舎に逃げ込むのはいい手なのかもしれない(笑)。
え、でもそんなに古い木の杭なんて腐食して意味ないんじゃ、って?
木は空気さえ遮断してしまえば、腐朽せずずいぶん長持ちするのです。つまり地下水位が高かったり、水中、泥の中、あるいは海中ならば。 先の論文では、「ヴェネツィアのリアルト橋の例では、少なくとも400年の実例がある」とされていますが、そもそも ヴェネツィア の石造りの街の下には、びっしりと木杭が打たれ、今も街を支えているのです。(塩野七生「海の都の物語」より)
この木杭工法(松丸太を基礎に使う工法)は、明治以前の日本でも伝統的に使われてきた工法です。例えば、軟弱地盤に築かれた松本城。この城の石垣の基礎には、松丸太の筏が使われています。(筏地形)まあ、こんな感じの石垣の積み方は、日本全国の軟弱地盤の城で使われてきたことでしょう。

他にも、佐賀県佐賀市の「佐賀城だより」にも記述があります・・・
佐賀城西堀の赤石護岸の修復を行いました!
赤石護岸の構造は、最下部に石の重みによる不等沈下を防ぐため梯子状に松の丸太材を組んだ胴木(梯子状胴木)を敷き並べ、その上に方形や長方形に加工した赤石を4~6段積み上げています。また、その前面には石垣が堀側へ滑り出すことを防止するため、一定の間隔で杭が打ち込まれています。
これは護岸工事ですけど、 「石の重みによる不等沈下を防ぐため梯子状に松の丸太材を組んだ胴木(梯子状胴木)を敷き並べ、その上に方形や長方形に加工した赤石を積み上げています 」っていう記述、「石」を「レンガ」に、「赤石」を「コンクリート」に、「 梯子状に松の丸太材を組んだ胴木」を「松の丸太杭群」に 読み替えれば、これって東京駅の基礎工事と、 ほぼ同じことをやってるんです。
現在でも、住宅を建てる時に地盤が悪いと、木の杭を打って基礎にすることがあります。
公共建築物(駅とか)なら鉄筋杭を打つでしょう。ただし、旧東京駅駅舎ほど密に打つことはないと思います。今は地震外力がかなり「わかる」ようになってきたので、その外力に対して「合理的に」必要な本数や長さを決めることができるからです。
当時はそのあたりのことはよくわかっていなかったので、「これだけ打てば大丈夫だろ!」って感じで、これほど密に杭を打った可能性もあると思います。
現在の設計基準で当時の設計を見直してみたら、現在の耐震基準で建てられた建物(合理的に設計されている)と比較して、旧駅舎の安全性はどのくらいなんでしょうね? ひょっとして、今の建物より本当に安全だったりして!

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。