これは、何の植物の写真でしょう?
はい、タイトル通り、「綿(ワタ)」ですね。 「オクラかと思ったよ」と言う人もいましたね。調べてみるとあながち間違ってなくて、オクラもワタも同じアサザ科。なので似てますね!
いま(7月)だとこの写真のような感じですが、やがて花が咲いて実がなって・・・はじけます。こんなふうに。
この弾けた白いのがいわゆる「綿花」です。こいつを収穫して種を取って、繊維をほぐしてやったのが木綿です。そこから糸を紡いで布を織ったりします。
だいたい10月ごろに収穫するんですけど、その時期は秋雨と重なります。雨が降ると白い綿花がだんだん薄汚れていくんです。なので、早めに取り込んで、しばらく干し、ドライフラワーにしたのが、上の写真。
その時期に雨が降らない地域、例えばアメリカ南部なんかでは、広大な綿花畑で枯れた綿から綿花を積む人力作業(超重労働)に使われててたのが黒人奴隷です。さらに後工程である綿花の中から種を取り出し繊維と分離させるのも大変な労力がかかります(種に繊維がからみついているから)。なのでそこまでを奴隷にやらせたんじゃないかと思います。
そういえば、ここ三河地方は日本に綿が伝来した地とされ、さらに江戸明治期には「三河木綿」の産地として綿花栽培が盛んだったのです。今ではこのあたりの畑でも綿花を見ることは全くなくなってしまいましたけど。
西暦799年(延暦18年・平安時代の初め頃)桓武天皇の頃の記「類聚国史」や「日本後記」によれば、崑崙人(インド人と言われている)が愛知県幡豆郡福地村(現在の西尾市)に綿種を持って漂着した。これが日本の棉の伝来と言われています。
三河木綿 – 三河織物工業協同組合
国産木綿がはじめて文献にみえるのは、永正7年(1510年)で興福寺の大乗院に残っている「永正年中記」に年貢180文の分として「三川木綿」をとったとして記されています。
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江戸時代には、三河地方で棉の栽培と綿織物が盛んとなり、この地方の織物は「三白木綿」として江戸方面に送られ、さらに西洋の技術を取り入れ、明治時代には「三河木綿」「三河縞」というブランド名で全国に知れ渡った。「質の良い綿織物」としてその後今日まで受け継がれています。
西尾市で崑崙人が漂着したと伝えられている土地は天竺(現在は「天竹」)と呼ばれ、日本で数少ない「綿」に関する天竹神社があります。ただし、神社として独立するのは 1883年(明治16年)と比較的新しいのですが。