書評なんて面倒なことはしない。結構本を読むけど、メンドウだから、いちいち本の要点や大事に思ったとこに線を引いたり、書き込みしたりはめったにしない。せいぜい頁の端を折るくらい。
けど、この本は思わず線を引いて書き込みまでしてしまった。さらにま書評というか、なにがしか関連した文書を書きたくなってしまった。
高村薫 南直哉「生死の覚悟」 新潮選書 2019年5月20日発行
一言でこの本を紹介するなら 「不信心だけど、仏教に人生をうまく生きる手段を求めてしまう人のための『道具としての仏教(禅宗)入門』」高村氏と南氏それぞれが著した書籍を題材に、そのエッセンスについて対論した本だから、割と読みやすいのもいい。
ところで、宗教に救いを求めながら、不信心っておかしくないです?
うん、そうだけど、僕はそういう人なんだもん。
法事に出ても、意味も分からんのにお経を詠む気にはなれない。神社へ行っても二礼二拍一礼が作法とか馬鹿くさくてやってられん-。座禅体験で、意味の説明もないのに警策で叩かれるのがデフォルトなんて嫌。 信じるのは「悪いことをするとお天道様が見てるから、やったらあかん」 程度まで。それが僕。
一方で、自分とその周りの環境との関連をどう捉えるか、どう捉えたら楽なのか、あるいはどう感じることができれば吉なのか、 たぶん、ある見方をしたらラクに生きてけるんだろうと思う。そしてその手法習得の有効な手段として、仏教なり、宗教なり、座禅(あるいはマインドフルネス)なりに、頭でっかちな期待を持っている・・・それも僕。 まあ宗教に興味があるっていうより、宗教学とか教義、あるいは人生哲学とかに興味があるって事かもしれないけど。
でもそれがなんであれ、僕自身の役に立つのであれば、それをなんと呼ぼうが、僕は全然かまわないと思う。そういう意味でこの本は役に立つと思うから、僕はこの本を高く評価するんです。
作者である高村氏は、有名な小説家だ。ただ僕はあんまり小説を読まない。高村氏の小説は、会田刑事モノを一冊読んだだけ、内容も全く覚えてないので、氏がどんな小説家なのかは知らない。ただ、新聞やネットで氏が識者としてコメントを述べていると、必ず読むようにしている。いつも興味深いコメントをするので。
その氏の仏教に臨むスタイルはこう
みなさんお寺さんへ行くと、ご本尊に必ず手を合わせますよね。お寺に限らず神社や史跡でも、ありがたいと手を合わせる。とにかく無条件に、自発的に手を合わせる。そうした行為が自然にできる。しかし私は、どうしてもそのことに違和感を覚えてしまう。同時に、そう考える私という人間は、いったいどういう人間なのか、と思うのです。親鸞聖人ほどの深さはありませんが、やはり私は「悪人」なのでしょう。
程度の差こそあれ、僕も氏と同じく「悪人」なんだわ(笑)。それでも、氏は阪神淡路大震災を身近に受け、心身に新しい死の姿を見、そして仏教について考えだす。道元の「正法眼蔵」を読み、自分の力で考えに考えここから先には行けないという場所にぶつかった時、初めて仏について考えることができるようになった と。
対話の相手となる南氏は、曹洞宗の僧侶。知らなかったけど、異色の僧侶として有名らしい。なにせこんな感じである。
「信じる」ということがどういうことなのか、わからないままなのです。「”信じる”がわからない」なんて、「お坊さんが何を言ってるんだ」と思われるかもしれませんが、私が仏門に入ったのも、ブッタや道元禅師のことを信じたわけではありません。それよりも、ブッタや道元禅師に共感したから出家したのです。・・・
だから、いまだにカトリックの神父さんなんかと話をしていると、羨ましいと思うと同時に、彼らが何をどのような意味で信じているのかがわからない。それに比べて、親鸞聖人や道元禅師の言説の方がよりリアルに感じるわけです。・・・
信じるという行為が、高村さんと同じように私にはわからない。よくわからないけれど、どうやら自分の問題を解決する手段として仏教は有効である、つかえると、ブッタや道元禅師は言っている。ならば、それに賭けてみようと。
「信じてないけど、共感したから出家した」とか、 「自分の問題を解決する手段として仏教は有効 だと思う」って宗教と時代が違ってたら、このヒト間違いなく破戒僧として異端審問にかけられ火あぶりの刑だわ(笑)。
ま、こういうとこ、絶対神を持たない仏教の強みすけど・・・
んで、南氏は、座禅についてこう述べている(南氏の独自解釈)
「座禅することが真理への道だ」と言うつもりはさらさらない。そんなこと自分でも分かりませんから。私が言えるのは、ある身体技法をつかうと自意識が大きく変容する、それを使えば、それまで苦しんでいた自己というものを一回解除する方法もありますよ、ということです。
つまり、みなさんがこだわっている自分というものにさしたる根拠はないということを、座禅を通じて知ってもらいたい。ただ、この考え方は曹洞宗でも例外的なものだと思います。
Q(高村)解除して初期化したあとはどうなるんでしょうか、そこからは「只管打座」ということになるのですか
そう言ったらアウトです。そこをゴールにしてはいけない。プログラムを初期化するということは、次のものに書き換えるためのもので、そこまではこちらで面倒を見なくてはいけない。
Q(高村) その新たなプログラムが、もし座禅ではないとすると、そもそも今の伝統教団には次のステップが用意されていないということになりますね。
その通りです。ただ、それを体系化する作業は、かなりの困難を伴います。・・・座禅を維持するというのは、ある種の自己批判なんです。そこからその都度、暫定的な新しい「自己」を立ち上げていくというやり方しかない。
その自己を立ち上げるのは他者です。つまり他者との関係を今自分はどうしたいのかと言うことを、常に考えなければいけない。・・・それをどう一般の人にも応用できる方法として伝えるかと言うことは、まだ私の中では定かでないというのが、正直なところです。
はーい、「曹洞宗で『只管打座』はアウト」とか、 「今の伝統教団には次のステップが用意されていない 」とか、超刺激的で面白いすよね〜。
これって 「曹洞宗としての座禅」 ではなく、「道具としての英語」とか「道具としての微分方程式」と同列の「道具としての座禅」だよね。宗教ってより、むしろ自身を構築するための哲学やマインドフルネスみたいな考え方に近いように思うし。でも、これが 「(自分の問題を解決する有効な手段としての)仏教」ってなら、オモロイなあ って僕は思う。
そう思った人は、手に取ってみてください。税別740円と安いしね。
PS1 この本を読んでいて、僕は東日本大震災の時にちらほら聞いた良寛の言葉を思い出した。「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」ってやつ。
防災に関心のある者として、直感的に非常に大事なことを言ってると感じたんだけど、じゃあそれをどう解釈し理解すればいいのかわからなかったのね。けど、この本を読んで、おそらくその流れで考えてみればいいのかな って思ったり。(ちなみに、良寛も曹洞宗の僧侶です)
PS2 つい先日(2019.7.17)、南氏は 「仏教入門」という本を出された。
普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。
ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
私はこれまで、仏教の思想や実践について、何冊かの本で自らの解釈を述べてきてはいるが、それを全体的にまとめて読める書物は出していない。そこで、ここらあたりで、自分の仏教に対する考え方を見渡せるものを作っておきたいと思った、というのが本書上梓の正直な理由である。
しかし、これは要するに自己都合である。そこで、あえて読者の益になりそうなことを述べさせてもらえば、仏教を「平たく」解説する本などは、ずっとふさわしい書き手が大勢いるはずで、私に書かせても役にも立たないし、読んで面白くもないだろう。
さらに言うと、およそ「平たい」記述など、私に言わせれば幻想にすぎない。すべては所詮書き手の見解である。
ならば、本書ではその「見解」の部分を極端に拡大して、読者の興味をいくばくか刺激し、仏教をより多角的に考える材料を世に提供できたなら、そのほうが私の仕事としてふさわしいのではないか。こう愚考した次第である。
(「はじめに」より)
新しくてまだレビューはないんだけど、南解釈の仏教って絶対面白いと思うんで、Amazonでポチりました。紹介までです。