18きっぷの旅(4)津山

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津山に着きました。

本日のお宿は「ホテルアルファーワン津山」です。大浴場あり、朝食付きシングルが5500円。カプセルホテルでも良かったんですが、津山にはありません。平日なのにこのホテルは満室でした。 津山はホテルが少ないらしく、 工事業者さんたちが長期で泊っているようですね。

夕ご飯。津山駅前の「いっぱい茶屋 東宝」に行きます。茶屋のくせに、夜空いてるケシカラヌ店であります。

津山で有名なB級グルメと言えば・・・ホルモンうどん(800円)! 焼うどんなんですけど、みなさんどういうの想像します?僕は「ホルモン焼くんだから、味噌だか濃いたれに漬けたホルモンにうどんが絡まってるんじゃないか」と想像していました。ホルモンってどうしても臭みがありますからね。んじゃビールないと喰えんだろ ってビールも注文。まあこれはどのみち頼むけどね。

が、出てきたものは、極めて普通の焼うどん。肉の代わりにホルモンが使われているだけです。えっ、それって臭いんじゃないの・・・

全く臭くありません。新鮮なホルモンを手に入れて、きっちり下ごしらえするとホルモンも全く臭わないのですね。 写真はスイマセン、隣にいた大阪のお客さんと喋ってて取り忘れました。ホルモンはいろんな部位が入ってて旨かった。

大阪のお客さん曰く、「このくらいのホルモンは大阪でも食える。ただ、大阪は右だか左だかの人が仕切ってて、この倍の価格出さんと食えん」そう。要するに「安くて旨い」ってことですね。帰りがけに「新鮮なホルモンですね」と大将に言ったら教えてくれました。「津山には屠畜場があるからね、新鮮なやつが地元価格で手に入るんだ。まあ人口が減少してるから、 屠畜場もいつまであるか分からんけど・・・」とのこと。ゴチです。

翌日は津山観光。しかし駅前の観光案内所(レンタサイクル)が開くのが8時半。津山発の電車が9時58分なので、正味の観光時間は、1時間くらい・・・

津山は津山松平氏10万石の城下町です。この津山松平氏ってのは、徳川二代将軍秀忠の兄、結城秀康の血筋なのです。 「御家門」 (徳川将軍家の一族の家系の大名家)です。さらに幕末には将軍家から養子を迎えています。

お城は津山城。建物は明治維新の時にすべて破壊されましたが、往時は石垣の上に櫓が立ち並び、その数77棟。これは広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ大城郭だったのです。残る石垣だけでもすごいよね。 ま、築城は松平氏の前の森氏(18万6千石)ですが。 時間が無いので、お城は城下から眺めるだけ。

まずは城北にある聚楽園を見に行きます。(無料) 藩の別邸の庭でした。

それから、城下のふるい街並みを見つつ、津山洋学資料館を目指します。津山は幕末にかけて「洋学の一大拠点」だったのです。なかなか貴重な資料が展示してあるようでしたが5分しかなく見てられん。展示品目録だけ買って帰りました。以下は目録を参考に記述しています。

一番有名なのは箕作阮甫です。ペリーが持参したアメリカ合衆国大統領の親書を翻訳した人です。また蕃書調所(東京大学の前身)の首席教授で、医学・語学・西洋史・兵学で様々な西洋の学問を日本に紹介しました。

津山ではこの 箕作家と宇田川家ってのが洋学者として有名(宇田川玄随・玄真・榕庵、箕作阮甫・省吾・秋坪)。 宇田川家三代の功績として「西説内科撰要」という日本初の西洋内科書の翻訳 ( これに対し、日本初の西洋外科書の翻訳が「解体新書」です )や「舎密開宗:日本初の化学書」の翻訳等があげられます。洋学・蘭学分野だと、緒方洪庵の適塾が有名ですが、 緒方洪庵の師匠が宇田川玄真です。

箕作家からは「新製輿知全図」 (当時最新の世界地図 )「格到問答」(物理学の教科書)「仏蘭西法律書」(ナポレオン法典)などの翻訳がおこなわれました。当時は翻訳する人がその分野の第一人者ですからね。 彼らの活躍もあり、 津山はでは洋学がずいぶん盛んだったようです。

明治初期の津山では「 箕作氏と宇田川氏の感化で、大抵の人はエービーシーぐらいは口誦んでいた。私もその数にもれなかった 」

平沼淑郎(第三代早稲田大学学長)

またwikiによれば、1867年に津山城下で生まれた彼の弟は、1872年に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎にて英語・漢文・算術を学び、東京帝大を卒業し、のち首相になります。平沼騏一郎です。

しかし結局、一番知りたかった「なぜ内陸で田舎(失礼)の都市である津山で洋学がこれだけ盛んだったのか」はわかりませんでした。まあ著名な人たちはみな津山藩の藩医に取り立てられた家系ですから、藩主か上級藩士に洋学に興味がある目利きがいたんかなと? 名門だから割と家中がおおらかで、異国の学問も好きにやれたのかしら?

それから、 箕作氏と宇田川氏で名を成した人たちはその多くが養子だったようです。 先代が高名な私塾を作り、弟子の中で一番優秀な者を養子や婿養子に迎えて家名を高める。ローマの五賢帝にも通じる戦略ですな。

これを見ると、江戸時代の「家」制度は、わりと融通の利くものだったんじゃないかとも思ってしまいます。翻って現代の家制度はどうでしょうか?一般家庭もですが、伝統芸能等を受け継ぐ家や某やんごとなき家系のように、直系男子でないとダメとか女系はダメとかやってるうちに家が傾いちゃう可能性もあるのでは、と老婆心ながら思っちゃったり。一夫一婦制では、それって生物学的にもムリゲーじゃね?

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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