- 名古屋駅0805→新宮駅1134(特急南紀1号)
- 新宮(浮島、神倉神社、熊野速玉大社、新宮城、阿須賀神社)レンタサイクル
- 新宮駅前1550→川湯温泉1651 熊野交通バス
- 川湯温泉 山水館みどりや泊
新宮駅に着きました。駅前にはめぼしい飲食店が無いので、名古屋駅で駅弁を買って車内で昼食を済ませておくとよいでしょう。「南紀・熊野古道フリーきっぷ」を使って旅行をする場合は、駅を出てすぐにある熊野交通事務所で、3日間のバスチケットを交換しましょう。
同じ建物の観光協会で、自転車をレンタルすると市内観光に便利です。17時まで500円。荷物も預かってくれます。駅のコインロッカーは400円かかりますから、レンタサイクル借りて荷物を預けるのが得策です。
神倉神社
熊野速玉大社に祭られた神々は、もともとこの神社の「ゴトビキ岩」に降臨された とされています。で見に行こうとなると、500段あまりの急な石段を登らないと見られない・・・その急峻なこと!
この階段を舞台に毎年2月6日の夜、2000人ほどの男衆が白装束に身を包み、松明を持ってこの石段を駆け下るお祭りがあります。時々テレビニュースにおいて放映されるのですけど、この石段を駆け降りるなんて、まじにヤバいで。
息を切らしてゴトビキ岩にご対面。
「ゴトビキ」いうのはヒキガエルのことだそう。写真に人が写っていますが、岩の大きさが分かるというもの。 ここに神が降臨したというお話は、古来の磐座信仰が熊野信仰に変容していった過程を示すんでしょう。
磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
wiki磐座
古神道における神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)としての海・川・滝・山・森や木・岩など場の様相が変わり目立つ場所(ランドマーク)が、神域とされ神が宿る場所、または、現世(うつしよ)と常世(とこよ)の端境で神の国の入り口と考えれ、神の居る場所(神体)と考えられた。
wiki神体
阿須賀神社
社伝によれば、ゴトビキ岩に降臨した速玉大社の神さんは、そのあとこの阿須賀神社の森に移ったとされます。この森は、社殿背後の「蓬莱山」を指します。
蓬莱山と言えば、中国の伝説に「徐福と言う中国の方士が、秦の始皇帝に「東方の神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、船出したが秦には戻らなかった」というものがあるんです。
んで、その東方の神山とはこの蓬莱山を指すんだそうで、阿須賀神社には徐福を祀る祠がありますし、新宮市内には徐福の墓もあるのです(笑)。
そうそう、阿須賀はアスカって読むんですけど、元々は「浅州処」と書いたそうです。コトバンクによれば「州処(すか)」は川岸・海岸の砂地や砂丘を表すそうで、この神社は熊野川のほとりにありますから、熊野川の浅瀬で船が事故を起こさないように って言うことで祀られたのが始まりだったのでしょう。
東京在住の人は「アスカ」と聞くと桜の名所である飛鳥山を思い浮かべるかもしれませんね。実は飛鳥山の語源はこの神社にあるのです。
飛鳥山の方も、やはり当地の豪族、豊島景村が元亨年間に紀州新宮の飛鳥明神を勧請したことが始まりです。
紀州 in 東京II(神社仏閣・墓所) 和歌山社会経済研究所
この飛鳥明神は新宮のどこにあるのでしょう?阿須賀神社へ参り、宮司さんにお聞きしましたら「その通り。東京の飛鳥山に勧請されたのは当権現です。」とのこと。境内にあった神社略記にもその旨書かれていました。 飛鳥明神の祠は、寛永年間に王子権現造営のとき山上から移され合祀されたため、現存していません。
熊野速玉大社
主神ーイザナギノミコト
最初ゴトビキ岩に降臨した神々を、熊野速玉大社の地にお祀りし、新たに社を建てたことから「新宮」ともいうそうな。市名の由来もここからだ。
しかしうーん、建物がピカピカであんまり神々しさを感じられないっす(バチアタリめ)。 このご神木が、一番の見どころかも・・・
新宮城
新宮は江戸時代、水野氏の城下町でした。水野氏は御三家紀州藩の附家老です。
江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。身分としては、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強い。 特に尾張徳川家の成瀬家・竹腰家、紀伊徳川家の安藤家・水野家、水戸徳川家の中山家の計5家が御三家の政策を強く左右することとなった。慶応4年(1868年)1月24日、新政府により御三家の附家老5家は独立大名に取り立てられた。
wiki御附家老
蛇足ですが附家老には城を持つ大名並みの家もあり、例えば愛知県にある国宝犬山城は、尾張徳川家の附家老・成瀬家の持ち城です。まあ普段は江戸詰めだったでしょうけど。
写真を見て分かるように、新宮城は当時の主要輸送路・交通路であった熊野川の河口あたりの丘陵に位置し、その交通を監視したり通行税を取ったりするために築城されたものと思われます。建物はなにも残ってないんですが、この城の見どころは赤丸で囲った位置にある「水の手跡」。城の遺構としては珍しいです。
未整備なんですが、川からの襲撃や洪水に備えたものと思われる石積みが地中から発見され、また江戸時代はここに川を下ってきた名産品である備長炭を貯蔵する倉庫が建てられていたとのことでした。
明治二十二年の洪水跡と浮島
神倉神社から速玉大社に向かう道中で、面白いものを見つけました。これです。
最初は、「立派な石垣やな〜」と思って近づいたんですが・・・注目するところは、赤線が引いてある部分です。新宮市は明治二十二年の洪水(熊野川の氾濫)で赤線の高さまで水没したのです。ここ少し高台だと思うんだけど、新宮市って全体的に標高低いんかぁ。
そういやあ、熊野川では明治期に大氾濫があって、上流十津川村で壊滅的な被害が出て、故郷を捨て新天地を求め北海道に移住した人たちが、新十津川村をつくったという話がありましたな。あれが明治二十二年だったんだ!
十津川郷は、村民12862人のうち死者168人、全壊・流出家屋426戸、半壊まで含めると全戸数2403戸の1/4にあたる610戸に被害、耕地の埋没流失226ha、山林の被害も甚大で、生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、県の役人が「旧形に復するは蓋し三十年の後にあるべし」と記すほどであった。被災者2691人が同年10月北海道に移住、新十津川村がつくられることになった。
十津川大水害
閑話休題。新宮市は熊野川の河口で標高も低かったので、今の市街地に大きな池が残っていました。(明治時代?で1000*300mくらいだったかな) 湧水も多く、そこに植物が腐らず堆積し(泥炭化)した島が浮いていました。
なんと、それが現在も残っているのです。これ。天然記念物「浮島の森」高さ10mもある杉林が浮いてます
現在、池はほとんど埋め立てられ、浮島が水平移動することできないサイズになっちゃってます。が、今でもこの島は一部が陸地に「座礁」しながらも浮いているそうです (水位により昇降するそうな) 。
泥炭って、尾瀬とか釧路湿原なんかで見られる奴ですね。比較的冷涼なところに多いと思うんだけど、こんな南方にあるのは珍しいですね。
ってことは昔は湧水が豊富で、池と島はかなり冷やされていたんでしょう。現に北方系の植物であるオオミズゴケ等、この辺りでは珍しい植生が残っているそうです。(でも量は凄く少なかったし、湧水が減ったままではゆくゆくはなあ・・・とはいえ、周りは市街地宅地化されちゃってるので、如何ともしがたいが・・・)
ってことで、新宮市内の観光は終わり。バスで今夜の宿、川湯温泉に向かいます。熊野灘の新宮市を離れ、バスは熊野川を遡ります。もう熊野川も中流だと思うけど。
なんて川幅が広いんだろ!
おそらく長野県・静岡県を流れる天竜川とよく似た土砂生産の多い暴れ川・礫河川だと思うんですが、天竜川と比較しても河原に草や木が全然はえていません。
たぶんダム開発が天竜川ほど進んでおらず、流況変動が激しいので、なかなか草木が侵入できないんではないかと。一方で簡単に流路の位置が変わるでしょうから、この川を舟運として利用するのは大変だったでしょう。
てなことを考えてたら支流大塔川沿いの温泉街、川湯温泉に到着。このあたりだと河原を掘ると温泉が出るです。冬場はそれを川の水でぬるくした「仙人風呂」が楽しめます。更衣室もない完全露天だけどな。
今日のお宿は、一人旅(&貧乏旅)を積極的に受け入れている山水館「まつや」さんだったのですが、施設整備の都合で姉妹館「みどりや」さんに同額アップグレードされていました。ごちでーす。 では今宵はここまで。