目には青葉

今朝の新聞(日曜版)を見ていたら、この句が載っていました。

「目には青葉 山ホトトギス 初ガツオ」

初夏にピッタリの句だなあ・・ふと気が付きました。

「あれ、初句は『目に青葉』じゃなかったっけ? でないと五七五として字余りになっちゃうし・・・」

Google 先生に聞いて見ましょ。正解は「には」でしたが、なぜ字余りか?

字余りの助詞「は」の効果 初句の「目には青葉」は一文字多く、これを「字余り」と呼びます。 

字を余らせないよう記載するならば「目に青葉」で言葉としては足りています。 

しかし「は」という言葉を付け加えることで、ほかの体の部位を連想させる効果が発生します。 

「目には青葉、耳には山ホトトギス、口には初鰹」のように各部位に対比するように、各々にふさわしいものがあることを示すことができます。

「は」がないと、意味としては平坦になり、今回のような新鮮味がなくなります。

俳句の教科書

うーん、前半部分の解説はよくわからん。 「目に青葉」でも、そのあと続く句を「耳に山ホトトギス 口に初ガツオ」と各部位に対比するよう読めると思うんだが・・・

 ただ、言葉として「目に青葉」・・・だと確かに平坦です。聞いた側は「ふーん、それで」と感じるんじゃないかな。一方「目には青葉」と言い切ると、このあと少し余韻ができて、「おお、左様ですな」と強い印象を受ける感じです。 ※個人の感想であり、効果・効能を示すものではありません。

記事によれば、この句は他にもいろいろ俳句の禁じ手が使われている破格の句なんだそうな。

  • 一つの句に季語が二つ以上入ることを季重なりといい、詠んだ内容がぼやけるので普通は禁じ手だが、この句は青葉、ホトトギス、初鰹の三種類が入る異常な作風→でもこの句においては初夏の新鮮さが五感で伝わりOK
  • 三回にわたり体言止め(句の最後を名詞で締める)を使い句の意味を切っている。三回切れることを三段切れとよび。細かく切れると主題や意味が分散しまとまりがなくなるため、禁じ手の一つ。→でもこの句においてはリズム感が生まれ、フレッシュ感のある初夏の様子が伝わるよう働いておりOK

結果として「名品は易々と禁じ手を超える」(笑)。いろんなところでこういう例はありますね。 

もちろんこの場合は知ってたうえで禁じ手を使ってるわけですが、たまに「素人が玄人を超える」こともあるのは、こういうルールを知らぬまま、それを超えた一句が出てしまうこともあるから、かもしれません。

素人が聞いても良い句だと思うけれど、玄人?評論家?だとこう評価するんだ・・・という事例もありました。後段の部分です。

Q.山口素堂の句「目に青葉山ほととぎす初鰹」と「目には青葉山ほととぎす初鰹」とはどちらが正しいのですか。

A.正しくは、「目には青葉山ほととぎす初鰹」です。
山口素堂(1642(寛永19)年~1716(享保元)年)は、江戸時代の俳人です。松尾芭蕉とは同門で、親交があり、蕉風の確立に寄与したといわれています。

・・・
この句には「かまくらにて(又は鎌倉一見の頃)」という前書がありますが、これは徒然草第百十九段の「鎌倉の海に鰹と云ふ魚は・・・・」をふまえたものということです。
青葉やほととぎすは、和歌では、古来夏の詠題としてよくうたわれています。西行は「ほととぎすきくをりにこそ夏山の青葉は花におとらざりけり」と詠んでいます。素堂の句は、この二つに初鰹を加えたところが俳諧であると評されています。

レファレンス共同サービス 北九州市立中央図書館

西行の「青葉とホトトギスを読み込んだ和歌」に、徒然草の「鎌倉の名物、カツオ」を読み込んで俳句にしたのが「俳諧である」 とのこと。

 興味深いけれど、個人的にはそんな解説なり知識は不要で、素直に「いい句だな」でいいじゃん!って感じました。 

趣味と言うのは、その背後にあるうんちくを深掘りするのが楽しい ってことはよく理解できるんだけど、日本の文化と言われる〇道が衰退しているのは、この蘊蓄の求め方がシビアすぎ、敷居高すぎだからだろ!とも思います。

ホトトギス、最近はよく声を聴きます。「特許許可局」って鳴く鳥です。 青葉・・・本当は落葉樹の新緑なんでしょうけど、個人的には緑の水田もいいな。

藻が大量繁殖して、困ったもんです

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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