先日、龍蔵院を見に行ったついでに、近くにある「寺部城」も見てきたので紹介します。
寺部城は幡豆小笠原氏の居城でした。
小笠原氏と言うと、小笠原流礼法とか、信濃国の守護として有名な武家の名家です。(例えば、それまで「深志城」と呼ばれた長野県松本市にある城を「松本城」と改名したのは小笠原貞慶です)。そちらは本家で、幡豆小笠原家は鎌倉時代に分かれ三河に土着した同族のようです。
霜月騒動で戦死した伴野長泰の孫である伴野泰房は三河国太陽寺荘に逃れ、幡豆小笠原氏の祖となった。
wiki小笠原氏 その他の小笠原氏の一族
地方に土着すると、例えば吉良に土着した足利氏が「吉良氏」を名乗ったように、地元の地名を取って通称姓を名乗りそうなものですが(幡豆氏とかね)、よく「小笠原」の苗字を変えなかったものです。
閑話休題。寺部城は、海に近い山の、突き出した尾根を利用し築かれました。
赤丸で示したところが本丸です。城の東側に幡豆公民館や図書館がありますが、ここは山を削って造成された土地。元は右側の山の尾根が、城の築かれたところまで張り出していたんですね。
それを中央の道路(掘と兼用)を掘削することで、城域と山地を分断したものと思われます。というのは、城のすぐ北、道路に面して太山寺という古い寺が建っているので。
こういう形態の城は、最小の労力で高所に立つ城ができますんで結構ありますね。しかし大砲とか鉄砲が発展すると、この築城法は使われなくなります。元の山(城より標高が高い)を占拠され、そこから大砲や鉄砲を打ち込まれると、落城の危機になるからです。
行ってみると、城は地形が良く残され驚きました。まずは現況図と往時の曲輪図を載せます。こういうのが案内看板に載せられていると、親切でいいですねえ。 ちなみに、現況図の矢印は、後述する写真の撮影方向を示しています。
幡豆小笠原氏は、吉良氏→今川氏→徳川氏に仕えました。三河湾を望む地を領有していたこともあり、航海術など水軍の技術に長け、徳川家に仕えた時代は船手頭としても活躍したようです。その後、徳川家康の関東入府に付き添い千葉県に移転。寺部城は廃城になりました。千葉では石高2500石の旗本だったようですから、ここにいた当時も大体それくらいか、それより低いくらいの石高だったのでしょう。
上総人見陣屋
城郭放浪記
文化10年(1813年)小笠原氏によって築かれた。
旗本小笠原氏は、天正18年(1590年)に三河国幡豆郡寺部城主であった小笠原信元が徳川家康の関東移封に従い、上総周淮郡に二千五百石を与えられたことに始まる。はじめ富津市に陣屋を構えたがその位置は定かではない。文化7年(1810年)幕府による海防政策のため、富津村が白河藩領となり、その替え地として大堀村内の地が与えられた。文化10年(1813年)に陣屋を人見の地に移したが、小笠原信庸のときに下野国足利郡に移っている。
それと、案内看板に載ってた話ですけど・・・
「小笠原諸島」は1592年に、小笠原貞頼が発見したことに因んで名づけられたと言われていますが、この人は幼いころからかなり長いこと、この寺部城に寄寓していたそうです。・・・もしかして、ここで航海術を覚えたのかもしれないですね。
小笠原諸島の発見
wiki小笠原貞頼
『小笠原民部記』によれば永禄7年(1564年)に同族の幡豆小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した。文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている。
追記。 令和5年に西尾市資料館にて開催された「発掘された!中世西尾の城館跡」展で、寺部城の地形模型が展示されていたので写真を載せておきます。絵地図とか現地の写真と比較すると、地形がさらによくわかるかと思います。