シン・エヴァンゲリオン劇場版を見てきました。
うーん・・・「ヤマアラシのジレンマ」状態だったシンジくん(庵野監督)、安定解の一つとして「第三村」での農的生活というゴールを設定しましたか・・・
まあ、自分もよく似たようなゴールにたどりついているんで、批判はできないんだけど、これじゃあ、天空の城ラピュタ(宮崎駿監督)と変わんないんじゃない・・・
「ここが玉座ですって? ここはお墓よ。あなたと私の。国が滅びたのに、王だけ生きてるなんてこっけいだわ。・・・今は、ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。”土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう”。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」
シータのセリフ
まあ、僕はTV版の25話、26話を「素晴らしい」と評価していて、その後の 新旧劇場版は不要だと思ってはいたんだけど。(だったら見るなよ〜)
もちろんエヴァはロボットアニメとして傑作だったし、その衒学的な作りは、インテリを気取るオタク(僕)にもぴったりだったけど、僕の解釈としては25話、26話以前は、登場人物の性格や環境を考えるためのケーススタディに過ぎないので、そのシナリオに謎が残ろうが、残らまいが、それは取るに足らない些細なこと という評価なのね。
ここからさきは昔話になります。
僕がエヴァを始めてみたのは、確か大学3年生の時。アニメオタクの友達に、すげえアニメがあるから見に来ないか と誘われたときでした。
そのとき僕は二十歳だった、
連れて行かれたのは、彼の部屋・・・ではなく、彼の友達の部屋。彼は電気店に勤めていて、当時最新のエヴァンゲリオンLD全巻を購入したのだけど、金を使い果たしてLDプレイヤーを持てなかったとな(笑)。
ともかくLDを見せられました。何時間か見て、もう終わろうということになったのですが、僕の反応は「うるせぇもっと見せろ」というもの。あんまり他人に無理を言わない僕としては非常に珍しい反応でした。結局8時間くらい見続け、「ビデオを貸してやるからもう帰れ」ということで強制帰還となりました。
家に帰って、ビデオを繰り返し見ました。知人にビデオデッキを借りてきて(←これも珍しい反応)ダビングして返却後も繰り返し見ました。僕はめったにそんな行動を取らないので、知人からは「どんな素晴らしいAVを手に入れたんだ?」と冷やかされましたが、その時の僕に取って、それはどんなAVより興奮する対象だったのです。
真面目な大学3年生だった僕は、せっかく専門課程に入ったのに講義が全く楽しくなく、楽しいはずのサークル活動でもその運営に四苦八苦し、近づきつつある就職活動(自己分析)で疲弊していました。
まあ特に取り柄のない学生が、真剣に自己分析なんかすれば、「自分には何もない」「自分は無能だ」ということ思い知り絶望するのが関の山。 ちょうど25,26話で補完計画の中でシンジくん(庵野監督)が落ちていたのと同じ穴に、僕も負のスパイラル状態に落ち込んでいたんです。
そんなときにエヴァを見て、悩むシンジに感情移入したんだと思います。かくてその年の夏で覚えていることといえば、スピッツのチェリーを聞き、ひたすらエヴァを見てたということ。別にいい思い出ではないけれど、あとになって振り返ると印象的だったシーンと言う感じだね。
補完の果て、シンジくんは負のスパイラルの底で突然「こんな僕でもいいんだ」という答え(根拠はないから「信心」というべきか)を得てスパイラルから救われます。なんとか生きていける自信をつけました。
どうして反転できたのか? その説明はなかったんだけど、僕も同じような経験をしたので、その理由はわかるような気がします。彼は底まで落ちてゆき、そこで「悟った」んです。
悟る内容は違うでしょうけど、禅宗でも「どうすれば悟る事ができるか」という最大の関心事の答えは、言葉で説明できない(不立文字)ということになってますね(笑)。
徹底的に負のスパイラルを巡り一番底に付くと、なんとその中心には上昇気流が吹いていた。うーん、「パンドラの箱を開けると、箱からすべての災いが飛び出した。急いでふたを閉めると、箱の底に希望が残った。」という感じでしょうか。
自律の中でスパイラルに落ち込んでたからいいようなものの、他律で落ちると怪しい宗教団体にのめり込むのと同じような話です。まあ、禅寺修行だって、ベクトルは違えど似たようなものだろうと、僕は勝手に思っていますが。
こういうのは、発達心理学では「青年期におけるアイデンティティの確立」として取り扱います。僕は大学1年のときに教育心理学を取っていて、この知識はあってよかったです。
進学や就職で悩まない人は、ほとんどいないでしょう。また、青年期の人たちは、性格テストなどが大好きな人が多いようです。自分が誰なのかを知ることを、自我同一性(アイデンティティ)を確立すると言います。
自分は、他の誰でもない、まぎれもなくユニークな自分自身であり、現在の自分が何者であるか、将来何でありたいかを自覚すること、つまり自分を発見することがアイデンティティの確立です。
自分は一体誰なのかという悩みは、経験したことのある人にとっては、とてもよく共感できる深刻な悩みです。しかし、体験がない人にとっては、具体的な進学や就職の悩みは理解できても、自分は何なのかなどという悩みなど、全く理解できないかもしれません。
今、これをお読みのあなたは、いろいろな年齢の方がいらっしゃるでしょうが、大変な悩みの末にアイデンティティを確立した方もいるでしょうし、あまり悩まないで、この問題を解決した方もいるでしょう。また、これから大きな悩みの中には入っていく人もいるでしょう。
・・・人間は誰でも長所と短所がありますが、たとえどんな欠点があっても、それでも自分は価値のある人間だという自尊感情(セルフ・エスティーム)を持つことが、アイデンティティの確立だということができるでしょう。
中高生の心理、大学生の心理、。アイデンティティー、モラトリアム、自分探し。ご一緒に考えましょう。 新潟青陵大学
この確立のできたシンジくん(庵野監督)は、ぎこちないながらもそれ以前より容易に社会に溶け込んで生きていけたでしょう。大げさに言えば、僕もそうでしたから。
僕はまだまだ不器用なんで、なんか「普通の道」を踏み外している気もするけれど、それでも自分が良ければそれもまた良し と思えるのも、このアイデンティティの確立があってこそ だとは思うんだよね。
映画としてはあまり評価はできないけれど、こんなしんどいものに25年以上向き合った、庵野監督はすげえと思う。誠実だというか、不器用なまでに真っ直ぐだというか・・・自分の幸せを考えたら、途中で投げ出すもの。