長野県の佐久・小諸へ出かけたので、佐久市臼田にある五稜郭、龍岡城に行ってきました。日本で2つしかない五稜郭です。(もう一つは函館にありますね)
城内は学校に転用され、おかげで城の形がよく残っています。 この城は、三河国奥殿藩(1万6000石)の領主・松平乗謨(のりかた)が、1864年から1867年にかけて築城したものです。 明治維新が1868年ですから、幕末も末です。
奥殿藩は三河国奥殿(岡崎市奥殿)が本領だったのですが、岡崎には4000石しかなく、佐久周辺に領地の大半1万2000石があったのです。だから佐久に拠点を構えるほうが便利ではありますねえ。 *奥殿陣屋も、当時の書院が現存してます。
乗謨は幕府の老中・陸軍総裁を務めるほどの人物で、西洋の築城術に興味を持っていたので、城を函館の五稜郭と同じ「稜堡式城郭(星形要塞)」にすることにしました。もっとも、現地へ行けば分かるけど、堀は狭く浅いし、城は小さすぎてとても実戦に耐えられるものではありません。 てか奥殿藩の石高では「城持大名」にはなれず、この城も正式には「田野口陣屋」ですから、しょうがないけど。
感覚的には、「城マニアの殿様が趣味で築城した」って感じ。幕末の諸藩、特にこのような小藩は、どこも破産寸前の藩財政だったはず。ミニチュアながら「城らしきもの」を築く資金があったものです。世情不穏のなか、臨時増税を掛けられたであろう領民の感想を聞いてみたいものです(笑)。ま、今となっては。小さな小学校を内包するにはちょうどいい規模だけどね。
ところで、星型要塞って、どんな利点があったのでしょうか?よく言われるのは「星のように城壁が延びたのは、その上に大砲などの火器を配置して、敵に対して効果的な十字砲火を浴びせるためだった」という説です。
函館五稜郭は、箱館戦争時、星(稜堡と呼ぶ)の先端に大砲が置かれていたようですし、龍岡城でも5つ稜堡のうちの一つには大砲が置かれていました(「であいの館」の復元模型でも確認できます)。
五稜郭の5つの稜堡の内側には、大砲を引き上げるためのスロープが築かれています。発掘調査により、このスロープは五稜郭築造当時にはなく、榎本武揚らが五稜郭を占拠した後に、戦いに備えて築いたものであることがわかっています。それ以前には、五稜郭に大砲はほとんどありませんでした。
戦いの場として見た、西洋式城郭「五稜郭」の魅力 函館市公式観光情報
けど、その位置に設置された大砲では、「十字砲火」すべく自由な方向に打つのは難しかったんじゃないかと。
なぜなら、当時の大砲には「駐退機」がついていないからです。駐退機というのは、「大砲を発射した際に生じる反動を砲身を後座させることによって軽減する装置」です。要するにダンパー。
これがついていない大砲を打つと、火薬爆発による作用で砲弾は前に飛びますが、反作用で大砲が後ろに吹っ飛びます。(そのために大砲の砲座には車輪がついています) 次の砲弾を撃つためには、砲座を元の場所に戻す手間があるのですが、何より大砲の後ろに砲が後退する場所を確保する必要があります。
稜堡の軸線方向であれば、この後退場所を取ることも可能でしょうが、極端な話、軸線から90度方向ともなると、稜堡内では十分な後退場所が取れないと思うのです。仮に可能だったとしても、スペース的に限られた数の大砲しか置けません。狭い中回転させ、隣の稜堡の大砲と共同で十字砲火を打つという器用な真似は、なかなか難しいのではないでしょうか?
これが同様の大砲を載せていても軍艦であれば、砲の方向は固定し(狭い艦内左右に多数の砲を乗せるため、船と大砲砲座をロープで結束して後退距離を制限)、艦の向きを変えちゃうことで、効率的に大量の大砲射撃(「艦砲射撃」と言う)を行うことができたのですが。
蛇足ですが、函館五稜郭はこの艦砲射撃にやられたとも言われます。もともと五稜郭は、艦砲射撃を避けるため、建設当時の砲の射程圏外の窪地に建設されました。ところが、新政府軍艦が最新鋭の大砲を積んでおり、五稜郭はその大砲の射程距離に入っちゃったのです。さらに、窪地にあったのに、時を知らせるため城内に高く峙立していた「太鼓櫓」が、軍艦から見えて照準を合わせられちゃったそうな。 五稜郭本城を艦砲から守るため、函館湾には「弁天台場」という対艦砲台があったんだけど、そこを守りきれなかったのが痛かったようです。(五稜郭にいた元新選組の土方歳三は、台場の援軍に向かい戦死)
閑話休題。高く築いた石垣や天守閣を持たず、低く築いた土塁(一部石垣)や天守閣のない五稜郭が、対大砲に備えた城(要塞)であることは確かです。けれど、防護主力兵器は小回りの効く「鉄砲」だったのではないかと。
じゃあ、鉄砲による十字砲火ってどんなものだったんだよう?星型の意味は?函館五稜郭についてですが、以下の説が説得力があるんじゃないかと思います。
学芸員の野村さんは、「五稜郭が星形である理由は2つある」と考えます。ひとつは、どの方向から攻められても必ず2方向から銃砲で反撃できる「十字砲火」を可能にする、西洋式築城法で設計されたから。
もうひとつの理由は、「欧米に対してのアピールだったのでは?」。その真意を、「つい最近開国したばかりの極東の島国に、ヨーロッパと同じ城郭があるという驚きを諸外国に与え、軍事力や技術力を誇示する意味があったに違いない」と説明します。
同上
攻め手は銃による十字砲火の火力を最小限に抑えたいので、「稜堡の先端めがけて突撃するか」と考えるかもしれません。でも稜堡の先端には、破壊力の大きい「大砲」が設置されています。正面は十字砲火(数)で敵を圧倒する鉄砲群。数を置けない弱点となる交点(稜堡)は、少数だけど大火力の大砲で守られている・・・大砲は主に、稜堡垂直方向の敵を威圧するのが目的ではないかな。
そう言えば、城の形は全く違うのだけれど、日本の築城術でも銃や弓矢による有効な防御法が採用されていました。「横矢」という手法です。
人は、正面からの攻撃は見えますが、横からの攻撃は見えません。そこで、横から弓を射かけたり、鉄砲を撃ったりして、確実に敵をしとめるわけです。このように側面から攻撃することを「横矢を掛ける」と言います。側面からの攻撃が可能なように土塁や石垣を折り曲げたり、曲輪の隅を張り出させたりする工夫のことを「横矢掛り(よこやがかり)」といいます。塁線に折れが多用され出入りが激しいのは、横矢を掛けるためと、石垣や土塁を崩れにくくするためです。
城歩き編 第33回 横矢(よこや)を掛ける 理文先生のお城がっこう
同じ手法は、西洋でもありまして、函館五稜郭にも、写真では見づらいけど龍岡城でも用いられています。
◆星形に切り欠きがある
五稜郭を上から見ると、単純な星形ではなく、稜堡と稜堡の間の凹部に切り欠きがあることがわかります。この切り欠きは稜堡式城郭に見られる特徴のひとつで、「フランク」と呼ばれるもの。おもに、銃撃戦の際に稜堡の側面を援護する役割があります。
戦いの場として見た、西洋式城郭「五稜郭」の魅力 函館市公式観光情報
ということでした。あ、ちなみに星の数は5(五芒星)とは限らず、四とか六とかいろいろあります。要するに稜堡が数多く出ていれば良いのです。
龍岡城を見に行かれる方は、近くにある 「新海三社神社(しんがいさんしゃじんじゃ)」もあわせて見に行くことをオススメします。神社に併設されたお寺(神宮寺)は現存していませんが、その遺構であろう檜皮葺の三重塔(重文)と、鬱蒼とした参道の森は、一見の価値があります。
海も湖も池もない地で、「新海」って不思議な地名だよね。この臼田からさらに山奥に行ったところに、「日本で一番海から遠い地点」があるのだけれど・・・。
海に面していない長野県にも、意外に「海」のつく地名が多い。国土地理院の地形図閲覧サイト「地理院地図」の地名検索機能を利用して「海」をキーワードに検索してみると、実に100か所以上はヒットする。中には「東海旅客鉄道株式会社(飯田支店)」などの地名以外も拾われてしまうが、それにしても多い。
【第14回】なぜ内陸県に海の地名? 海ノ口から海尻まで
実は、その中で海を「かい」と読む地名は多くを占めている。そもそも日本の地名は当て字が目立ち、たとえば安曇平にある寺海戸・道海戸・小海戸(いずれも大町市)、窪海渡・北海渡・南海渡(松川村)などの小地名は、関西の「垣内(かいと)」などと同様、小集落の単位を指すものと考えていいかもしれない。
JR小海線には「海」の字を含む駅名が4つある(海瀬のみ読みは「かい」)。普通鉄道としては日本で最も高いところを走り、また、海から最も遠い部類のこの路線に海つきの駅名がこれだけあるのはなぜだろう(ちなみに、海瀬はつい先頃「日本で一番海岸線から遠い駅」であることが”判明”したばかり)。線名にもなった「小海」の地名の由来について『角川日本地名大辞典』では、「古代に相木川が堰き止められて湖を形成していたことによるという」としている。海といっても「湖」由来という説だ。
現代語で海と湖は明確に区別されているが、大和言葉では広い水面を一般に「うみ」と呼んでおり、強いて区別する場合は「しおうみ(潮海)」と「あわうみ(淡海)」であった。古代の畿内(京都に近い5国)から見て代表的な淡水湖といえば琵琶湖と浜名湖だが、前者のある国を近江(近つ・あわうみ、転じて「おうみ」)、後者の国を遠江(遠つ・あわうみ、転じて「とおとうみ」)と表記した。本来なら近淡海・遠淡海とすべきところ、古代の国名は2字に限定されていたため近江・遠江に落ち着いた次第である。