富士吉田の町は、室町時代末期、すでに「千軒の在所」があったと言われていました。その後1572年に移転(詳細は後述)された吉田の町は、「金鳥居」から南へ伸びる道を挟んで間口の細い町家が連なっていました。
下の図は、明治初期の町並みを、現在の航空写真に重ねたもの。黄色く着色されているのは、「御師」の住まいです(詳細は後述)。
このあたりを歩くと、現在もその時の面影を感じることができます。
航空写真と上記の写真を見ると、「作られた町」なら、なんでこの道の延長線上真正面に、町のシンボルである「北口本宮富士浅間神社」をアテないのか、不思議に思いますよね。そのほうが絶対見栄えがいいのに。(姫路駅から真正面に見える姫路城とか。)
まさにそれが、1572年に町が移転した理由なのです。神社から斜面に沿って真っ直ぐ道を伸ばすと、そこが元の吉田の町(古吉田)があった場所。 ここは富士山からの雪代(雪解け水による土石流)の通り道にあたり、その被害を避けるため、やや西側の高台に町を移したのです。
さらに、北口本宮富士浅間神社の裏手に、神社と吉田の町を守るため植樹を行い、砂防林を整備したのです。それが現在、「諏訪の森」と呼ばれている場所です。
ちなみに、植林されたのは赤松で、地元民に言わせると「おかげで松茸が採れる」そうです(笑)。
諏訪の森自然公園 標高約900m、本市の南に位置し面積14ヘクタールを有し、愛称を富士パインズパークといいます。
富士吉田市
公園内は古く江戸寛永年間(1640年頃)に防風と雪代除けを兼ねて植林された赤松が群生し、樹齢300年以上の大樹が数多く見られます。中には、太さ約4m高さ約33m以上の大樹が50本余りもあり、自然、文化両面から大変貴重なものとなっています。
町家を構成する中心になるのが、さきほどちょっと触れた「御師」たちの住まいです。
御師とは、富士山信仰登山のガイド兼宿泊所の主人、かつ富士山信仰の神主兼伝道師 みたいな存在。その御師の家(兼宿泊所)が、江戸末期には86軒もあったそうです。
北口本宮神社が当時の主要登山道である「吉田口」に位置してますから、当時は「東洋のツェルマット」という感じだったのでしょう。ただ相手は観光客ではなく信者さんだから、歓楽街は無かった・・・だろうね。
19世紀中頃までは農村であったが、1865年のマッターホルン初登頂を契機に周辺の山々への登山ブームが起きると、多くの観光施設が建設された。地域経済のほとんどは、観光業に依存しており、雇用の約半数がホテルまたはレストラン関係で占められる。
ツェルマット
面白いのは、御師の家の建て方です。下の写真は御師・外川家住宅ですが、屋敷門は道から随分奥にあります。(左側の草が生えている部分は隣地です。この家だけでなく吉田の町は間口が狭く、奥行きが非常に深い屋敷割であることが特徴かと)
なんでこんな屋敷配置になっているかと言うと・・・それは屋敷の中央付近に水路が流れていて、その水路の水で禊をして身体を清めてから建物内に入るためです そこからすでに宗教行事の一環だったのですね。
(以下の写真は、別の御師の家で撮影しました。外川家住宅は休館日で門前払い・・・)
まあ。門前に「しめ縄にひらひらした紙を垂らしたもの」を張ってる時点で、「ここから先は聖域」と示してますけど。
紙垂(しで)とは、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙である。単に垂とも表記し、四手とも書く。落雷があると稲が育ち豊作なので、紙垂は、雷光・稲妻をイメージし、邪悪なものを追い払う。
wiki
玉串・祓串・御幣につけた場合は祓具としての意味だが、注連縄に垂らして神域・祭場に用いた場合は聖域を表す印となる。また、相撲の横綱は、横綱土俵入りの際に紙垂を垂らした綱をつける。
僕にはこれ、雷というより、滝に見えるんですけど。この下を通過する人は、滝に打たれて身を清め(滝行)、奥(聖域)へ進むことが許される。みたいな。
参考文献; ふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館) 展示解説