「富士山周遊その1 浅間神社めぐり」で言及した、村山浅間神社についての記事です。
前回の記事で紹介した他の浅間神社は、古くから栄えてきた神社なわけですけど、この村山浅間神社はちょっと来歴が異なります。
村山浅間神社は、もとは「富士山興法寺」という寺で。その境内で神(富士山の神である木花開耶姫)を祀る社 だったのです。
興法寺は神を祀る社以外に、仏(大日如来)を祀る本堂(大日堂)、末代上人を祀る大棟梁権現社の3つのお堂(と管理する三坊)から構成されていました。神も仏も同時に祀る、いわゆる神仏習合の「お寺」。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教現象
wiki 神仏習合
もちろん、富士山信仰の一拠点であったわけですけど、その形態は仏教としての山岳信仰である「修験道」の形を取っており、村山修験という言葉も残っているくらいです。
修験道の道者を、修験者とか山伏とか言います。修験道は、真言宗系の当山派(本山・醍醐寺三宝院)か、天台宗系の本山派(本山・聖護院)のどちらかに属すのですが、興法寺は本山派で、結構有力だったみたいです。 いずれにせよ、仏教・寺院系の富士山信仰の拠点でした。
聖護院本山派の法親王は、慣例として度々村山に参拝を行っている。元禄年中に道尊法親王、正徳4年(1714年)に道承入道親王、宝暦7年(1757年)7月には増賞親王、文化4年(1807年)3月には盈仁法親王、天保12年(1841年)9月には雄仁法親王などの参拝が確認されている。
村山修験
一方、他の浅間神社界隈(吉田や河口、須走で顕著)では、富士山信仰登山者をもてなし、山へ案内する道者を「御師」といい、御師は神主の資格を持っていました。 つまり、こちらは、神社系の富士山信仰の拠点だったわけです。
この違いが、村山浅間神社の見どころというか特色なわけです。
そんな興法寺が村山浅間神社になるのは明治初年。神仏分離令により、社は村山浅間神社に、堂は興法寺大日堂に、大棟梁権現社は廃止(村山地区の鎮守社として復活)という憂き目に会ってからです。まあ、廃仏毀釈まで行かないで良かった。
いろいろあったのでしょうが、いまも仲良く寄り添って建っています。
長々と書いてきましたが、そんなわけで、この神社・・・社自体は大したことないけど・・・の見どころは、寺院系(修験道)富士山信仰のもの。例えば護摩壇。
護摩は本来は仏教の密教の修法であるので、密教や修験道で行われるが、神道の神社の一部でも護摩が実施される。もともと神仏習合だった権現社や宮が、明治維新の神仏分離(神仏判然令)によって寺院を別の法人として改組した事例も少なくないが、現在でも神社において神職や山伏による護摩祭が続いていることがある。
護摩
聖護院との関係は現在も続いており、7月1日の富士山開山祭では聖護院の修験者が中心となり、村山浅間神社にて護摩焚きを行っている。
村山修験
それから、水垢離場。
これだけ見ると、なんだかよくわかりませんが、7月1日の開山祭ではこうなるそうな。
神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小様々な罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。
神道でいう禊と同じであるが、仏教では主に修験道を中心に、禊ではなく水垢離などと呼ばれ、行われることがある。(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言う。
垢離
同じ行為を、仏教系(修験道)では水垢離、神道系では禊(みそぎ)と言うそうで。使い分けがあるのですなあ。
村山修験は対外的には富士垢離という信仰形態を確立させている。『諸国図絵年中行事大成』によると、富士行者が水辺にて水垢離を行うことにより、富士参詣と同様の意味を持つ行であるという
村山修験