企画提案書: 来年始まる大河ドラマ「どうする家康」の放送に合わせ、徳川家康とゆかりのある地では、様々イベントを開催し、観光客の誘致に必死です。 当ブログも、それに乗ってもいいんじゃね ってことで企画しました!
とはいえ、「どうする家康」の部分は、それこそ番組を見ればわかることです。そこで、どういった歴史や地盤のうえに、徳川家康(松平家9代目)が成立したのか、そのあたりに焦点を当てたく「どうなって家康」というテーマとしました。
徳川氏の祖とされるのは、時宗の僧侶だった徳阿弥という人。この人が松平郷の松平太郎左衛門家に逗留。やがてその家の娘と通じ男の子を出産。そして松平家の養子に入り、松平親氏(ちかうじ)と名乗ることから始まります。
松平郷の開拓領主は、後宇多天皇(在位1274 〜1287 年)に仕えた公家の在原信盛と言い入郷したのは弘安年間(1278 〜1287 年) の頃で、現八幡神社松平東照宮境内に本屋敷を構えたと伝えられています。 信盛の子信重は、開拓を進め人馬の道を作り交通の便を図りました。 後にこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称しました。 ここに徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏(不詳〜1394 年4 月24 日没)の出現です。
松平氏の発症 松平郷ふるさとづくり委員会 事務局
松平太郎左衛門家は親氏より前から続いていたのに、なぜ親氏が祖とされるのか。それは彼が「養子」だったからです。
もともと松平氏は「在原氏」出身のようです。後のことになりますが、「在原氏」出自のままでは、家康は源氏が就くとされる征夷大将軍になれません。そこで、養子・親氏の出自が「上野国得川にいた新田氏(源氏)の一族」であるとして、征夷大将軍になれる血筋であることを示したのです。
普通に考えて、高貴の種がそんなに転がっているとも思えないし、親氏の話もどこまでが真実かはわからないのですけど、まあ大人の事情でそういうことになっています。
でもま、それなりの家の養子に入るくらいなんだから、教養があったとか、見込みのある将来有望な(そして手の早い・・・)若者だったのでしょう。
そんな’徳阿弥くんですから、実は松平家に養子になる前に、もう一件やっているのです。
そのあたり、司馬遼太郎の筆にかかるとこんな感じ。
徳阿弥は三河に入ったもののすぐ松平郷にきたわけではなかった。まずいまの吉良町の酒井与右衛門(名については、諸説がある)という地侍級の家に長逗留した。
逗留した幡豆郡吉良は、三河の大河矢作川の下流の水田地帯で、酒井氏がどれほどの家だったかはよくわからない。
その家には娘(若後家ともいう)がいて、徳阿弥はこれと通じ、男の子を得た。この子が、徳川家臣団でも筆頭の家ともいうべき酒井家の祖広親になる。
徳阿弥の行動は、数奇である。かれは吉良には落ちつかず、矢作川をさかのぼり、さらにその支流の巴川沿いの山道をのぼって、松平豪の松平太郎左衛門信重というものの家に逗留した。そこにも娘がいた。・・・
司馬遼太郎 街道をゆく43 「濃尾参州記」 より
ここは素直に「何をしているんだ、徳阿弥くん!!」と突っ込むところでしょうねえ。まあ風習や道徳が今とは違いますから、いいんだけど。
もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の仮冒であって、松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。その真意は不明だが、愛知県西尾市吉良町荻原字小野の酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。
wiki 酒井氏
酒井氏は三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主というのが定説のようですが、司馬氏は幡豆郡説を取っているようです。
碧海郡酒井郷は尾張との境近くにあります。吉良と松平なら当時の大動脈である矢作川とかその支川の近傍であるといった類似点もあり、僕も幡豆郡説がもっともらしいなあと思います。 それに地元ですからね!
ってことで、幡豆郡坂井郷 現在の西尾市吉良町酒井に行ってきました!
酒井集落の稲荷神社を目印に行くとよいでしょう。 数台停められる駐車場があります。神社脇には「酒井氏発祥の地」看板が立てられています。(西尾市教育委員会)
この看板を頼りに酒井氏先祖の墓を見に行きましょう。歩いて100mほどの道路脇(駐車場なし)。
右から
- 親氏子 酒井氏始祖 酒井広親墓
- 松平氏始祖親氏父 長阿弥(新田有親)墓
- 酒井村草創の祖 酒井五郎左衛門墓
- 親氏内室 広親母 酒井五郎左衛門娘墓
酒井家は、いうまでもなく、江戸時代、何家にもわかれて大名になる家である。家康はその後半生、徳川軍の先鋒は、酒井と井伊にした。江戸幕府が始まると、この両家は相並んで譜代筆頭となった。もとはといえば、徳阿弥のいい加減さからはじまったものである。
濃尾三州記より
「破戒僧だ」とか言わないあたり、品がよろしいというか、いかにも司馬氏らしい文章だなあと思います。
家康の代の酒井氏といえば、なんといっても酒井忠次でしょう。三河国を統一した家康は三河を二分し、西三河を石川数正(在岡崎)に、東三河を酒井忠次(在吉田)に統治させました。二人が三河時代の徳川家筆頭家老です。当の家康は岡崎にいたのですから、単独で吉田(現在の豊橋)に置いた酒井をどれだけ信頼していたのか、わかるというものですね。
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「酒井氏発祥の地」看板には、この地が拓かれたのは南北朝のころ とありますが、実際はもっと古いのかも って思いました。 この墓は西を向いて建てられていますが、東側には南北に延びる低い山脈が走っています。山脈は南東でじきに尽きるのですが、その尽きた地を「饗庭」と呼びます。
「饗庭」には鎌倉時代に造られたという古いお堂(国宝 金蓮寺弥陀堂)があります。そもそも、饗庭の地は平安時代から伊勢神宮領として存在していました(饗庭御厨)、また、このあたりで製塩された塩を「饗庭塩」と呼んだように、古くから開けた場所だったのです。酒井はそこから小川を挟んですぐそこの土地ですから、荘園としての成立は南北朝かもしれませんが、それ前から開発はされてたんじゃないかな と。