ありたい姿・あるべき姿

春の甲子園大会が始まって、「ペッパー・ミル」パフォーマンス がなんちゃらという話が話題になっていますね。

3月18日、第95回記念選抜高校野球大会は、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕。1回戦の第1試合では東北(宮城)は1対3で山梨学院に敗れた。
 この試合では“あるパフォーマンス”が波紋を呼んだ。初回に東北高校の1番・金子和志(3年)が相手のエラーで出塁した際に、自軍ベンチに向かって、「ペッパーミル」を行なったのである。

東北高校の“ペッパーミルパフォ”が賛否。高野連は異例の声明発表「不要なジェスチャーは従来より慎むようお願い」

ま、これの話も後で触れよう と思ったのですが、僕が違和感を覚えたのは、開会式の写真でした。

産経新聞記事から拝借

ねえ、このお年頃の子たちが集まって、屋外とはいえかなり密集しているのに、誰もマスクしてないって不自然じゃないです?  

個人的には、マスクなくても何ら問題なし とは思います。でも彼らは「卒業式はマスク着用しないことを基本としながら強制はしない」だったら言わなくていいんじゃね?という意味不明の通達に対し、果敢に背きマスク着用して式に臨む世代なんです。

開会式に臨んだ中にも「本当はマスクしたい」と思う子がいるほうが自然だと思うのです。でも、誰もマスクしてない。それにまあ、みんな帽子をかぶっているので分かりませんが、多くの選手は坊主頭なんでしょう。少なくとも選手宣誓した選手はそうでした。

開会式にマスクをつけるかどうか、髪を坊主刈りにするかどうかは、野球というスポーツをうまく行う上で何ら関係ないこと(プロ野球選手を見よ)です。ま、それ言ったらそもそも開会式や入場行進だって関係ないですが。でもそれがスポーツではなく、 「高校野球」となると非常に重要なことなんでしょう。

これは、当人である選手たちがが望んだ風景なのか、あるいは周りの大人(偉い人)が見たいと望んだ風景なのか、またはそれを敏感に察知した彼らの自発的行為(カッコつき)なのか、なんだろ と思いまして・・・

それでまあ、タイトルの言葉が ひょい っと浮かんだのです。

ありたい姿とは、自分自身、自組織または自チームが望む、理想の状態を指します。
あるべき姿とは、外部あるいは第三者が望む、理想の状態を指します。

ビジネス用語:ありたい姿・あるべき姿の違い  良い会社株式会社

 ありたい姿とあるべき姿。それが一致しているなら、別に第三者がどうこういう問題じゃないのだけれど、実体はどうなのかなって。 これ、最初に触れたペッパーミル問題についても、その間に齟齬が生じて発生した問題じゃないかと思うのです。

東北の先頭打者が遊撃手の失策で出塁した際、一塁上でこのパフォーマンスをしたところ、ベンチに駆け寄った一塁塁審から、しないように注意されたという。
佐藤監督はプロ野球巨人でのプレー経験があり、昨年8月から母校の監督に就いた。「脱スパルタ」を掲げ、髪形は自由にし、短パンを認めるなど練習着も自由にしている。
佐藤監督は報道陣に対し「僕は(注意には)大反対。もう少し子どもたちが自由に野球を楽しむということを考えてもらいたい」と語った。
 大会本部は、「高校野球としては、不要なパフォーマンスやジェスチャーは、従来慎むようお願いしてきました。試合を楽しみたいという選手の気持ちは理解できますが、プレーで楽しんでほしいというのが当連盟の考え方です」との日本高校野球連盟のコメントを発表した。(藤田絢子)

東北が「ペッパー・ミル」パフォーマンス 審判から注意、監督は反論

「髪型は自由」って、記事に取り上げられるような話なの とは思うけれど、逆に言えばこのレベルの高校野球部では画期的!なんでしょうね。

最近、いろんなスポーツ競技で世界の大舞台に立つ若い選手たちが、口々に「楽しみたい」という言葉を口にします。 僕自身にはよくわからないのですが、それを実践した結果として、輝かしい成果をつかむことも増えています。 そういう意味で、佐藤監督の言葉は含蓄が深いと思うのです。 

それに対し、審判がなぜ止めたのかについて、高野連の「フェアプレー精神」に触れたことが影響したと分析した記事もありました。

日本学生野球憲章の前文には「学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない」(一部抜粋)とある。さらには総則の第1章、第2条(学生野球の基本原理)、②では「学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする」と記述されている。
同憲章は1946年の制定以来、改正を経ているものの、前文などは制定時の姿を維持。

なぜ注意?東北 甲子園の「ペッパーミルパフォ」で物議 ネット賛否「エラーでやるのは」「教育の場」学生野球憲章に記述も

甲子園が「教育の場」であることは事実ですが、と同時に視聴率を気にするショービジネスの側面、将来のプロ野球選手を発掘(目利き)をする見本市の場、という側面だってあります。後者については、たいていの出場選手はそこで発掘され、プロ野球に進むことを望んでいることでしょう。その視点に立てば、高校野球ではプロを見習っちゃダメ って、厳しいんじゃない・・・

どこの世界でもそうでしょうけど、プロの世界は「綺麗ごと」や「純真さ」だけで成り立っているわけじゃありません。酸いも甘いも知ったうえでどれだけパフォーマンスが出せるかという世界です。彼らはまもなく、保護(監視)された学校生活を終了し、そちらの世界で生きていかなければいけません。

そこへの登竜門で、全面的に禁止する理由とは・・・彼らを「かまととぶらせたい」から・・・誰が?   なんて。

かまととの「かま」は「蒲鉾(かまぼこ)」、「とと」は幼児語で「魚」のことで、漢字では「蒲魚」と書く。
蒲鉾が魚から作られることを知らないふりして、わざとらしく「蒲鉾はトトからできているの?」と聞いたことから、「かまとと(かまととぶる)」という言葉が生まれた。
かまととが女性に対して多く使われる理由は、江戸末期の上方の遊郭で、うぶなふりをした遊女に対して使われ始めたことによる。

語源由来辞典

うぶな遊女を客が望んだのか、 うぶな遊女を客が望むであろう と察した遊女の演技なのか  です。

そもそも、1946年に制定された前時代的な野球憲章の前文の精神を体現せよ というほうが無理あるんじゃないかなあ と思います。

「幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの導く理念でなければならない」うむ、大和男児かくあるべし みたいな。

たかだか野球やるのに、こんなもの後生大事にしてどうするんでしょう? いろんな意味でメンドクサイ組織 ですねえ。

参考追記 同様の記事です。まったく同感です。

日本の高校野球は「高校生らしい振る舞い」を球児たちに求めてきた。全力疾走、全力プレー、目上の人に対する礼儀正しさ、真面目さ、ひたむきさ。

・・・高校野球の言う「高校生らしさ」は、今の高校生の「ありのまま」を反映するのではなく、大人たちが「望ましいと思う高校生像」なのだ。それは「昭和の高校生像」と大差ない。

・・・今の「野球離れ」の責任の大半は、球児ではなく大人にある。既存の価値観に固執する大人たちは、本当に残念で仕方がない。

なぜ野球を楽しんではいけないのか…「ペッパーミル騒動」で明らかになった高校野球の残念すぎる現状  これでは「野球離れ」が止まるはずはない

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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