東信の中心都市である、上田に行きました。とはいえ、基本上田城に寄っただけなんですけど。
上田市(うえだし)は、長野県東部(東信地方)にある市。東信地方および上田地域の中心都市で、長野県内では長野市、松本市に次ぐ3番目の規模の都市である。
市の人口は、15万人程度なんですが、規模として長野市、松本市に次ぐ3番目なんだそうです。
上田城っていうと、真田氏(戦国時代)の居城で、徳川氏の大軍を二度も撃退した名城として有名ですね。
こちらは上田城本丸大手門を正面に撮影した写真です(下の鳥観図参照。↑が撮影方向)。 写真の左側に本丸南側の斜面が写っています。斜面の下は今は陸域化していますが、往時は千曲川の分流が流れており、尼が淵という深みになっていたようです。
今は堀も多くが埋め立てられていますが、往時は水堀と河岸段丘地形を利用した城だったようです。
城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。
こういう鳥観図を見ると、なんとなく往時の地形も見えてきそう。
余湖くんのお城のページより引用(「正保城絵図」を参考にしたそうです)
戦国時代のものではありませんが、まあ堀の位置とかはこんな感じだったでしょう。小規模ながら、攻めにくそうな城ですね。これだと、攻城側は東側から攻めるしかないでしょう。こちらは城下町側と城でほとんど高低差もないですし。
んで、徳川氏が攻め手となった、第一次上田合戦の様子は次のようなものでした。
天正13年(1585年)・・・家康は昌幸の造反を知ると8月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。・・・これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
真田軍1200と言っても、支城の守備にも割きますので、上田城は1000を切る兵しかいなかったんじゃないでしょうか。 数の上では攻城側が圧倒的に有利。
そこで守勢の真田昌幸は攻め手をうまくおびき寄せ、わざと二の丸まで進行させ、状倍の限られた土地で身動きの取れない大軍に対し反撃を仕掛けたようです。んで追撃。
これ「堅城を守る籠城戦」ではなく「城内にわざと攻め手を入れ、動けないところを攻撃、逃げる敵を追撃」してますから、城をうまく使った典型的なゲリラ戦(遊撃戦)をやったんですね。並みの神経なら籠城したいところ。なかなか取れる戦法じゃないな・・・
第二次上田合戦、俗説では「大軍の秀忠軍が大苦戦した」と言われますが、実際は小競り合いしかなかったようです。こっちは時間切れを狙った籠城戦で、運がなければ落城だったかもしれないですね。まあ、情勢を読んだ作戦勝ち・・・なのかもですが。
徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かった。・・・
秀忠軍は9月6日に牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てきたが敗れ、上田城へと逃走。それを追撃し上田城の大手門前まで迫ったが、ここで秀忠より撤退命令が下る。その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転進する。・・・秀忠は上田城を攻めあぐねたのではなく、それに専念する時間的な余裕を失い、打倒昌幸という本来の任務を中断せざるをえなくなったまでなのである。上田攻めに秀忠が専念していれば結果は違ったものになった可能性が高いと指摘されている。wiki
まあまあ、徳川家の恨みが積もってることは間違いなく、城は徹底的に破壊され、後に仙石氏により再建?新設?されたものが現在の城なわけです。真田氏の時代には、石垣はほとんどなかったよう。
1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。・・・寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却の後に近世城郭として新たに築城された。
wiki
上田城本丸中央には真田神社があり、「落ちない(落城しない)」と受験生の合格祈願に人気だそうです。 それと、本丸北部には招魂社があり、日露戦争での犠牲を悼む乃木希典の石碑が建てられています。
ここで希典は「源」と署名しているんですよね。調べてみたら、一応ルーツは源氏ということになっているようです。へー。
出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。
そのあと、城下の酒屋に友人イチオシのお酒を買いに行きました。岡崎酒造の「亀鈴」です。
この酒は蔵元限定だそう。 蔵元の周りは観光整備された小さな街並みで、なかなか風情があります。 柳町(北国街道上田宿) 一見(&一飲)の価値があるかと。
夜、宿で頂きました。非常に飲みやすく、後味がすばらしいです。 思わず深酒をしてしまい、みごと「酔っぱらったオッサン状態」に。人前では自制してるのですが、今回はダメでした。「僕が悪いんじゃない。酒が旨すぎるから悪いんだ!」
「信州亀齢(きれい)」は、岡崎酒造が長野県上田市で1665年から醸造している地酒です。長野県にある菅平水系の水を使用していることが特徴。2015年の関東信越国税局酒類鑑評会で吟醸部門の最優秀賞と純米部門の優秀賞を受賞し、全国的に注目を浴びる人気銘柄となりました。
また、2021年の令和2酒造年度全国新酒鑑評会でも「亀齢」が金賞を受賞しました。このように信州亀齢は多くの賞を受賞しており、現在では入手が困難なほどの人気商品となっています。
なるほど、うまいわけですなあ。ぐび。