小諸なる古城

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も籍くによしなし
しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る

あたヽかき光はあれど 野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む

島崎藤村「小諸なる古城のほとり」  落梅集より

佐久シリーズの最終。小諸城を訪問しました。 小諸城って言うより「懐古園」と言ったほうが有名ですけど。城マニアには「穴城」として有名なんですが、 城下町より低い城なんて、どうやって守備するんでしょうか?

城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称がある。また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されている。

wiki

google航空写真だと、城と城下町はこんな感じです。 左下に見えるのが千曲川です。千曲川を底にして、右上方向にある浅間山に向け、台地が広がっています。

城は河畔に川を背にして、河岸段丘を利用して造られています。だから必然的に、城下町は城より高い位置に立地せざるを得ない。 確かに城下町から城の内部を観察することはできるでしょう。

けど、城自体は上の写真のとおり。西は千曲川の河岸断崖に面し、南北は深い谷(田切) が空堀として走っています*。しかもその配置は東側を頂点(緑の□部分)とする逆三角形であり、かなめとなる東側頂点部には門が築かれています。大砲がない時代であれば、門さえ守ればよい、守りやすい堅固な城だったでしょう。 

*谷の一部は現在、駐車場として埋め立てられています。

西側は下の写真のようになっています。写真ではうまく撮影できていませんが、かなり急傾斜で千曲川に続いています。

下は南側の「深い谷」を写したもの。一部コンクリートで保護されていますが、保護せざるを得ないほどの急斜面であり、防備には好都合だったことが分かります。

ま、平和な現在では、城内に当たるこの部分は懐古園の一部として動物園になっているんだけど。 城内には神社や弓道場もあります。

その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園かいこえんの方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校からじか城址しろあとの方へ行くことにした。

島崎藤村「千曲川のスケッチ」より

私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、くわなどが植付けてある。
 こういう谷が松林の多いがけはさんで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川ちくまがわの方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張やはり谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間たにあいで水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。

同上

小諸城近くの小諸義塾の教師として7年を過ごした島崎藤村のエッセイも、実際に現地に言ってみると「なるほど」と実感できますね。

かなめに位置する門がこちら。三の門です。

三の門は寛保二年(1742)に千曲川流域を襲った「戌の満水(いぬのまんすい)」のとき、城下を流れる中沢川などの土石流により城下町の一部と共に流出しました。その後、明和2~3年(1765~1766年)に再建されました。寄棟造りの二層の渡り矢倉門(多聞矢倉門)で、石垣も切込みはぎの石積みによって再建、築かれています。

こもろ観光局

小諸城は小諸駅に隣接しており、駅から来ても、また駐車場から来てもこの門が城の入り口になるのですけど・・・そして、小諸城址の別名である「懐古園」の大扁額がかけられていること(ここから先が懐古園として有料ゾーン)、門前が下り坂になっているので、「穴城」が実感できる絶好の撮影スポットなんですけど・・・実はこれ、大手門ではなく、三の門(三の丸と二の丸をつなぐ門)なのです。

本当の大手門は、線路を挟んだ向かい側にあります。 大手門の位置が、城内で一番標高が高い位置にあるという・・・(上の写真、緑の○部分)。なぜこんなところに大手門を作る必要があったのか、謎だなあ。穴城だと見てくれが悪いのかしら?

ということで、城内を線路(小海線としなの鉄道)が横切る、なかなか例を見ない都市構造を取っているわけです。ま、駅を街の外れに設置したら、ここしかなかったというか。

本丸に建つ、「懐古園の碑」 題字は勝海舟の揮毫だそうです。ちなみに、三の門に掲げられた「懐古園」の揮毫は、徳川家達。 徳川宗家第十六代です。十五代が徳川慶喜なので、世が世なら十六代将軍だった人(後に貴族院議長)。

天守台

苔が美しいですね。こちらの石垣は、戦国時代末期に築かれ、「野面積(のづらづみ)」という積み方です。ほとんど加工されていない自然石を積み上げるので、必然的に隙間が多い積み方です。

一方、江戸中期に再建された「三の門」の石垣は、「切込接(きりこみはぎ)」という積み方がされています。写真を見るとわかるけれど、石同士がピッタリあうよう加工され、隙間がほとんどありません。

まあ、後者のほうが見た目も良いし、技術が進歩した・・・のですが、土木技術者からすると、ちょっと気になる点もあるのです。現代の技術でお城を造ると、多分、宅地になると思うのですけど。

第六条 
一 切土又は盛土をした土地の部分に生ずる崖面で次に掲げる崖面以外のものには擁壁を設置し、これらの崖面を覆うこと。
二 前号の擁壁は、鉄筋コンクリート造、無筋コンクリート造又は間知石練積み造その他の練積み造のものとすること。
第十条 第六条の規定による擁壁には、その裏面の排水を良くするため、壁面の面積三平方メートル以内ごとに少なくとも一個の内径が七・五センチメートル以上の陶管その他これに類する耐水性の材料を用いた水抜穴を設け、かつ、擁壁の裏面の水抜穴の周辺その他必要な場所には、砂利その他の資材を用いて透水層を設けなければならない。

宅地造成等規制法施行令

切土や盛土で急斜面を造ったら、 コンクリートか間知石練積みで擁壁を造れ ってこと(規模によるけれど)そして、その擁壁には透水層を持った水抜き穴を設けろ というのがこの法律の趣旨。

「練積み」というのは、石積みをする際、接着剤としてコンクリートやモルタルを使って、各部材を一体化しながら積み上げる工法です。もちろん当時はコンクリートやモルタルはありませんので、この法令の対象外にはなるのですが、要は「ぴっちり積んじゃうと、背面の水をどう排水するか考えないと崩れる恐れがあってヤバイよ」と言うことです。

ぶっちゃけ、野面積の場合は石垣の間が隙間だらけなので、雨が振っても隙間から水が抜けて石垣が崩れることは少ないです。日陰側の石垣では、抜けた水を頼りに苔がびっしりはえています。(日向側でも石の隙間には生えているはず。)

んでも、石同士がピッタリあうよう加工された切込接の場合、石垣の規模や想定降雨量によっては、水抜穴を設けるか、石垣裏に水が浸透しないような工夫をしないとヤバいんちゃうかなとか思って見てたりします。ま、上に建物が立っていて、石垣内部に水が浸透しにくい場所ならば、それほど問題はないのかもしれませんが。

排水を工夫した一例です。あと確か、名古屋城の石垣には水抜き穴が設けられていたような。

高知城があるのは、高知平野のほぼ中央に位置する標高約44メートルの大高坂山。高知平野は中世までほぼ内海で、水害が繰り返されてきた地域でした。現在も、高知県は年間降水量が全国でも1、2位を争う多雨地域です。

そのため高知城では排水が工夫され、各曲輪からの排水が石垣に直接当たらないよう、石製の樋を通じて地面に落ちるように設計されています。どの城にも排水設備はありますが、高知城の石樋は大きく、数が膨大。地面に設けられた水受けの敷石も、瓦を敷いた他城の水受けなどと比較するとかなり大きく頑丈です。地盤が螺旋状になっており、城内に降った雨は三方に分かれて伏流しているそうです。

“秘策”が満載!高知城の雨対策や「独自工法」が生み出す躍動感

美観面から考えれば、水が石垣に直接当たらないよう という表現も正しいのでしょうが、排水処理として考えるなら、表面排水を充実させ内部浸透する水を減らした というのが本質かと思いますが、違うかな。

小諸駅周辺も覗いてみましたが、なかなか寂れてます。

もう地方は車社会ですから、商業の中心は国道沿いに移っているし、小海線やしなの鉄道を利用する観光客もそれほど期待できないでしょうから、致し方ないところかもしれません。

そもそも、小海線ってなんのためにあるんだっけ?乗り鉄の聖地?

鉄道とは本来、人がたくさん住む場所での通勤通学のため、物資を効率よく輸送するため、遠くの大都市と大都市を結ぶために開通することが一般的です。
しかし、小海線は、大都市と大都市を結んでいる訳でもなく、人がたくさん住んでいる場所なんて全然通りません。なぜこんな山奥に鉄道が開通したのでしょうか。


答え:静岡と直江津を結ぶ壮大な計画があった


長野県と山梨県の山奥を走る小海線。最初は日本列島を縦断し、静岡と直江津を結ぶという壮大な計画がありました。

小海線の前身となる路線は、大正4年(1915年)、佐久鉄道株式会社によって立ち上げられました。当時の名前は佐久鉄道です。開通当初は、小諸駅~中込(なかごみ)駅を結ぶ訳13kmの路線でした。
大正8年(1919年)には、小諸駅~小海駅が開通します。
一方、この年に第一次世界大戦が終結。その後、日本は不況に陥り、(いわゆる線戦後恐慌)佐久鉄道は厳しい環境に置かれることとなります。
その後、佐久鉄道は延伸するなく、昭和9年(1934年)に政府により買収され、日本国有鉄道の一部となります。


現在では、身延線(富士駅)~中央東線~小海線~しなの鉄道線~北しなの線~妙高はねうまライン(直江津駅)と乗り継ぐことで、太平洋から日本海を縦断する路線の一部となっています。

【小海線】人口が少ない長野県の山間部に鉄道が開通したのはなぜ?

龍岡城 五稜郭は、なぜ星型なのか

長野県の佐久・小諸へ出かけたので、佐久市臼田にある五稜郭、龍岡城に行ってきました。日本で2つしかない五稜郭です。(もう一つは函館にありますね)

google map「航空写真」より

城内は学校に転用され、おかげで城の形がよく残っています。 この城は、三河国奥殿藩(1万6000石)の領主・松平乗謨(のりかた)が、1864年から1867年にかけて築城したものです。 明治維新が1868年ですから、幕末も末です。 

 奥殿藩は三河国奥殿(岡崎市奥殿)が本領だったのですが、岡崎には4000石しかなく、佐久周辺に領地の大半1万2000石があったのです。だから佐久に拠点を構えるほうが便利ではありますねえ。   *奥殿陣屋も、当時の書院が現存してます。

乗謨は幕府の老中・陸軍総裁を務めるほどの人物で、西洋の築城術に興味を持っていたので、城を函館の五稜郭と同じ「稜堡式城郭(星形要塞)」にすることにしました。もっとも、現地へ行けば分かるけど、堀は狭く浅いし、城は小さすぎてとても実戦に耐えられるものではありません。 てか奥殿藩の石高では「城持大名」にはなれず、この城も正式には「田野口陣屋」ですから、しょうがないけど。

感覚的には、「城マニアの殿様が趣味で築城した」って感じ。幕末の諸藩、特にこのような小藩は、どこも破産寸前の藩財政だったはず。ミニチュアながら「城らしきもの」を築く資金があったものです。世情不穏のなか、臨時増税を掛けられたであろう領民の感想を聞いてみたいものです(笑)。ま、今となっては。小さな小学校を内包するにはちょうどいい規模だけどね。

 ところで、星型要塞って、どんな利点があったのでしょうか?よく言われるのは「星のように城壁が延びたのは、その上に大砲などの火器を配置して、敵に対して効果的な十字砲火を浴びせるためだった」という説です。

函館五稜郭は、箱館戦争時、星(稜堡と呼ぶ)の先端に大砲が置かれていたようですし、龍岡城でも5つ稜堡のうちの一つには大砲が置かれていました(「であいの館」の復元模型でも確認できます)。

五稜郭の5つの稜堡の内側には、大砲を引き上げるためのスロープが築かれています。発掘調査により、このスロープは五稜郭築造当時にはなく、榎本武揚らが五稜郭を占拠した後に、戦いに備えて築いたものであることがわかっています。それ以前には、五稜郭に大砲はほとんどありませんでした。

戦いの場として見た、西洋式城郭「五稜郭」の魅力 函館市公式観光情報

けど、その位置に設置された大砲では、「十字砲火」すべく自由な方向に打つのは難しかったんじゃないかと。

なぜなら、当時の大砲には「駐退機」がついていないからです。駐退機というのは、「大砲を発射した際に生じる反動を砲身を後座させることによって軽減する装置」です。要するにダンパー。

これがついていない大砲を打つと、火薬爆発による作用で砲弾は前に飛びますが、反作用で大砲が後ろに吹っ飛びます。(そのために大砲の砲座には車輪がついています) 次の砲弾を撃つためには、砲座を元の場所に戻す手間があるのですが、何より大砲の後ろに砲が後退する場所を確保する必要があります。

稜堡の軸線方向であれば、この後退場所を取ることも可能でしょうが、極端な話、軸線から90度方向ともなると、稜堡内では十分な後退場所が取れないと思うのです。仮に可能だったとしても、スペース的に限られた数の大砲しか置けません。狭い中回転させ、隣の稜堡の大砲と共同で十字砲火を打つという器用な真似は、なかなか難しいのではないでしょうか? 

これが同様の大砲を載せていても軍艦であれば、砲の方向は固定し(狭い艦内左右に多数の砲を乗せるため、船と大砲砲座をロープで結束して後退距離を制限)、艦の向きを変えちゃうことで、効率的に大量の大砲射撃(「艦砲射撃」と言う)を行うことができたのですが。

 蛇足ですが、函館五稜郭はこの艦砲射撃にやられたとも言われます。もともと五稜郭は、艦砲射撃を避けるため、建設当時の砲の射程圏外の窪地に建設されました。ところが、新政府軍艦が最新鋭の大砲を積んでおり、五稜郭はその大砲の射程距離に入っちゃったのです。さらに、窪地にあったのに、時を知らせるため城内に高く峙立していた「太鼓櫓」が、軍艦から見えて照準を合わせられちゃったそうな。 五稜郭本城を艦砲から守るため、函館湾には「弁天台場」という対艦砲台があったんだけど、そこを守りきれなかったのが痛かったようです。(五稜郭にいた元新選組の土方歳三は、台場の援軍に向かい戦死)

 

閑話休題。高く築いた石垣や天守閣を持たず、低く築いた土塁(一部石垣)や天守閣のない五稜郭が、対大砲に備えた城(要塞)であることは確かです。けれど、防護主力兵器は小回りの効く「鉄砲」だったのではないかと。

じゃあ、鉄砲による十字砲火ってどんなものだったんだよう?星型の意味は?函館五稜郭についてですが、以下の説が説得力があるんじゃないかと思います。

学芸員の野村さんは、「五稜郭が星形である理由は2つある」と考えます。ひとつは、どの方向から攻められても必ず2方向から銃砲で反撃できる「十字砲火」を可能にする、西洋式築城法で設計されたから。

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 もうひとつの理由は、「欧米に対してのアピールだったのでは?」。その真意を、「つい最近開国したばかりの極東の島国に、ヨーロッパと同じ城郭があるという驚きを諸外国に与え、軍事力や技術力を誇示する意味があったに違いない」と説明します。

同上

攻め手は銃による十字砲火の火力を最小限に抑えたいので、「稜堡の先端めがけて突撃するか」と考えるかもしれません。でも稜堡の先端には、破壊力の大きい「大砲」が設置されています。正面は十字砲火(数)で敵を圧倒する鉄砲群。数を置けない弱点となる交点(稜堡)は、少数だけど大火力の大砲で守られている・・・大砲は主に、稜堡垂直方向の敵を威圧するのが目的ではないかな。

そう言えば、城の形は全く違うのだけれど、日本の築城術でも銃や弓矢による有効な防御法が採用されていました。「横矢」という手法です。

人は、正面からの攻撃は見えますが、横からの攻撃は見えません。そこで、横から弓を射かけたり、鉄砲を撃ったりして、確実に敵をしとめるわけです。このように側面から攻撃することを「横矢を掛ける」と言います。側面からの攻撃が可能なように土塁や石垣を折り曲げたり、曲輪の隅を張り出させたりする工夫のことを「横矢掛り(よこやがかり)」といいます。塁線に折れが多用され出入りが激しいのは、横矢を掛けるためと、石垣や土塁を崩れにくくするためです。

城歩き編 第33回 横矢(よこや)を掛ける   理文先生のお城がっこう

同じ手法は、西洋でもありまして、函館五稜郭にも、写真では見づらいけど龍岡城でも用いられています。

◆星形に切り欠きがある

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五稜郭を上から見ると、単純な星形ではなく、稜堡と稜堡の間の凹部に切り欠きがあることがわかります。この切り欠きは稜堡式城郭に見られる特徴のひとつで、「フランク」と呼ばれるもの。おもに、銃撃戦の際に稜堡の側面を援護する役割があります。

戦いの場として見た、西洋式城郭「五稜郭」の魅力 函館市公式観光情報

 ということでした。あ、ちなみに星の数は5(五芒星)とは限らず、四とか六とかいろいろあります。要するに稜堡が数多く出ていれば良いのです。

龍岡城を見に行かれる方は、近くにある 「新海三社神社(しんがいさんしゃじんじゃ)」もあわせて見に行くことをオススメします。神社に併設されたお寺(神宮寺)は現存していませんが、その遺構であろう檜皮葺の三重塔(重文)と、鬱蒼とした参道の森は、一見の価値があります。 

海も湖も池もない地で、「新海」って不思議な地名だよね。この臼田からさらに山奥に行ったところに、「日本で一番海から遠い地点」があるのだけれど・・・。

海に面していない長野県にも、意外に「海」のつく地名が多い。国土地理院の地形図閲覧サイト「地理院地図」の地名検索機能を利用して「海」をキーワードに検索してみると、実に100か所以上はヒットする。中には「東海旅客鉄道株式会社(飯田支店)」などの地名以外も拾われてしまうが、それにしても多い。
 実は、その中で海を「かい」と読む地名は多くを占めている。そもそも日本の地名は当て字が目立ち、たとえば安曇平にある寺海戸・道海戸・小海戸(いずれも大町市)、窪海渡・北海渡・南海渡(松川村)などの小地名は、関西の「垣内(かいと)」などと同様、小集落の単位を指すものと考えていいかもしれない。
 JR小海線には「海」の字を含む駅名が4つある(海瀬のみ読みは「かい」)。普通鉄道としては日本で最も高いところを走り、また、海から最も遠い部類のこの路線に海つきの駅名がこれだけあるのはなぜだろう(ちなみに、海瀬はつい先頃「日本で一番海岸線から遠い駅」であることが”判明”したばかり)。線名にもなった「小海」の地名の由来について『角川日本地名大辞典』では、「古代に相木川が堰き止められて湖を形成していたことによるという」としている。海といっても「湖」由来という説だ。
 現代語で海と湖は明確に区別されているが、大和言葉では広い水面を一般に「うみ」と呼んでおり、強いて区別する場合は「しおうみ(潮海)」と「あわうみ(淡海)」であった。古代の畿内(京都に近い5国)から見て代表的な淡水湖といえば琵琶湖と浜名湖だが、前者のある国を近江(近つ・あわうみ、転じて「おうみ」)、後者の国を遠江(遠つ・あわうみ、転じて「とおとうみ」)と表記した。本来なら近淡海・遠淡海とすべきところ、古代の国名は2字に限定されていたため近江・遠江に落ち着いた次第である。

【第14回】なぜ内陸県に海の地名? 海ノ口から海尻まで