天災は忘れた頃来る

1995年1月17日、2011年3月11日。何の日か覚えているでしょうか。そう、阪神大震災と東日本大震災の日です。

どちらの地震も起きた時は「まさか神戸で大規模直下型地震が!」「まさか東北一円にあれほどの大津波が!」って言われていました。後になってみれば、識者が「警告は発せられていた」って言ってますけど。

残念ながら常識的に考えれば、日本のどこでもいまこの時間に、あの規模の地震があってもおかしくない と思っておいた方がいいでしょう。

今年になってからでも、関東地方や台湾で地震がありますし、みんな心の中で「そろそろヤバくね?」って思っているかもしれません。

でも、そんな心掛けしている時は得てして何も起きません。日々の忙しさに紛れ、備蓄の交換を、心構えを、忘れかけた頃に大震災は起こるんです。

それを戒めるのが、タイトルに掲げた「天災は忘れた頃来る」。

この言葉は、物理学者「寺田寅彦」の言葉とされていますが、その全集の中に、この言葉ずばりは無いんです。弟子の「中谷宇吉郎」さんが随筆に書かれています。

実はこの言葉は、先生の書かれたものの中には、ないのである。しかし話の間には、しばしば出た言葉で、かつ先生の代表的な随筆の一つとされている「天災と国防」の中には、これと全く同じことが、少しちがった表現で出ている。

・・・これは、先生がペンを使わないで書かれた文字であるともいえる。

短い随筆「天災は忘れた頃来る」は、青空文庫で無料で読めますんで、読んでみてください。

じゃあ、寺田寅彦の「天災と国防」にはどんなことが書いてあるんだよ と思った方。こちらも青空文庫にあります。 「天災と国防」

この随筆はぜひ読んでいただきたいのですが、この「天災は忘れた頃来る」と関連したところはこちらです。

それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

この続きが更に興味深いです。まるで東日本大震災後の識者のコメントのよう。

しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。

やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦い経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。

この随筆が書かれたのが昭和9年。大震災とは関東大震災です。また、この情景が、いつか間違いなく起こります。

自分は土木技術者だったので、特にそう感じるのかもしれませんが、昔からある取水や治水施設は、本当によく地形を見て造られています。それは、技術的に水を抑えることが難しかったから、水当たりの弱いところを狙って造ってあるからです。逆に、水当たりの強いところに造った施設は、後世まで残らなかったんです。

文化財巡りしていても「現代まで残ってるものは、やっぱ、いい場所に建ってることが多いな」って感想を持つことが多いです。丘陵の端とか。そういう所は、景観的にも一等地が多いですし。

技術が進んだ現在でも、そのような土地を選んで施設を造れば、無理のない、経済的な施設ができます。最もそういう場所はすでに何かが造られているから、新しい施設は、田んぼの中や埋め立て地に造らざるを得ないわけですけど。

寅彦先生の文章で言えば「丘陵のふもとを縫う古い村家」と「田んぼの中に発展した新開地の新式家屋」との対比ですね。

そうは言っても、いろんな事情で(経済面や田舎の慣習とか)、田んぼの中に発展せざるを得ない事情もあります。その弱点を当局が「文明の力」で対策するにしても限度はある ってこと、「決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろう」ことは、やっぱり心しておくべきことかと思います。

本の紹介

岩波文庫「中谷宇吉郎随筆集」「寺田寅彦随筆集 第五巻」

前者では、「日本のこころ」「I駅での一夜」「貝鍋の唄」の随筆が好きだよ。

後者の第五巻は、地図の話、噴火の話、日本人の自然観 とか収められていて、地理や防災に関心のある人には一番面白い巻だと思う。随筆集なんで、映画の話とか俳句についても面白い随筆が載ってる。

両者とも守備範囲が広いから、旅行の移動中なんかに読むのにおススメ。

 

西尾で鐘楼門のある寺院

そろそろ、西尾の有名どころのお寺はだいぶ回ってきました。

寺院の建物を「伽藍(がらん)」といいますけど、伽藍の中で面白いな と、僕が思ったのが「鐘楼門(しょうろうもん)」です。

「鐘楼(しょうろう)」ってのは、寺院内で梵鐘を吊し、時を告げる建物です。いわゆる「鐘つき堂」。普通は独立した建物なんですが、それと「門」が合体したのが「鐘楼門」です。普通は二階建てで、一階が門、二階が鐘楼になっています。

鐘楼門のイメージ

この建物、考え方が合理的だと思うんですよね。

鐘楼は鐘を鳴らして時を告げるわけだから、鐘が高い位置に設置するほうが、音を遠方に届かせるには有利です。だったら、建物は一階建てより二階建てにして、二階に載せたほうが合理的でしょう。お城でも、時を告げる太鼓を高い位置に設置する目的で「太鼓櫓」を設置することがありますね。

どうせ一階は空いてるんだから、そこを門にして合理化しよう! そうすると、鐘楼と門と本来二つ建てる必要がある建物が、一つに減らせます。さらに、門って通路だから、大抵は寺の中央動線上にあります。

参拝者が鐘を撞く場合、通路の上に鐘があるので、「鐘楼はどこか」迷わないし、お寺さんが撞く場合も、移動距離が短くて済む。(移動動線がスムーズ)

何より、二階建ての見栄えのする門ができるんです! だから・・・なのかは分かりませんが、市内でも古刹とか大寺院に多いですねえ。

(そもそも「二階建ての建物を立てて良いか」という問題もあったかも。※)

市内にあるお寺で鐘楼門のあるところを挙げてみましょう。

養寿寺(下矢田)
海蔵寺(荻原)
瑞用寺(巨海)
養国寺(寺津)

ね、どのお寺も見栄えがいい。また、後正面に本堂。中心に鐘楼門、前面に山門を配置する「いい場所」にあるでしょ。

ん?  これらのお寺の伽藍配置、基本はみんな同じですねえ。

四つのお寺はすべて「浄土宗西山深草派」ですね。たまたま、この宗派のお寺だけ、門が後世に残っているってことも考えづらいだろうし、この宗派の大規模なお寺は、山門ー鐘楼門ー本堂 って伽藍配置にしていたんだろうか?※2 修正アリ

(西山深草派の本山は京都の「誓願寺」です。このお寺に鐘楼門はなさそうですが、明治期に「新京極通り」を造るため大規模に境内を収用されているそうで、現状は参考にならないかな・・・)

それとも、これらの門が造られた時期が一致していて、たまたまそういう建築様式が流行っていたんだろうか? うーん。

2月8日追記:海蔵寺の鐘楼門の写真を取りに出かけたのですが「カメラを忘れて、陽気なサザエさん」でございました。しかも鐘楼門じゃなくて、楼門でした(別個に鐘楼がある)訂正させていただきます。

※2 2月8日追記:コメントをいただきました。八王子に桂福寺という鐘楼門のあるお寺があるのですが、そのお寺は「曹洞宗」だそうです。つまり、この伽藍配置が「浄土宗西山深草派」独自の物ではないということね(笑)。 鈴木様、ありがとうございました。

 

 

 

「建物高さの歴史的変遷」によると、

701年に制定された大宝律令の営繕令には、楼閣を建てて人家を覗くことの禁止と、宮中内の建物の建設にあたり日照を確保することが規定されていた。・・・

中央集権的な封建体制が整備されていくにつれて、士農工商による身分格式が重んじられるようになり、1649(慶安2)年に3階建が禁止される。その後、度々規制が強化され、享保の改革では、「家作り、なるべき成(棟高)はひきく(低く)建て」ることを市中に要請し、さらには1806(文化3)年には、棟高が2丈4尺(約7.2m)に制限された

とあります。