二級建築士・資格試験

今年、二次試験(製図試験)を受けてて、今日無事合格してました! あとは登録すると「二級建築士」を名乗れます。えっへん。

もともと、建築やランドスケープなどの分野に興味がありまして、自分の家を作ったときにもかなり勉強しました。 なかなか奥深くて面白いデス…

関連蔵書 だいぶ処分したけれど・・・

その上、大学の卒業学科の関係上、建築士の受験資格は持っていました。てか、建築士の資格はいつかは取りたい資格の一つでした。 仕事と全然関係ない「個人的趣味」ですけど、ブログでうんちく語る上で、少し箔がつくかも(笑)。

11月29日(月)発売の『週刊プレイボーイ50号』のグラビアでは、”お姉さん界の超新星”桜田茉央(さくらだ・まお)ちゃんと、海辺の温泉宿での秘めごと。誰もいない場所、ふたりだけの世界。しっとりとした雰囲気に妄想は膨らむばかり。
――「ミスマガジン2019」で審査員特別賞を受賞し、それ以降、グラビアでも活躍中の桜田茉央ちゃん。SNSを見ていたら、二級建築士の資格取得を目指して勉強しているんですね。
桜田 そうなんです。もともと大学で建築デザインを専攻していて、建築系には興味があったんです。けど、大学4年生のときから芸能活動を始めて、そこからあまり勉強していなくて。

建築士タレントを目指す24歳の桜田茉央「二級建築士の試験を受けていて、学科は合格できました!」

なんの引用やねん・・・

が、受験資格を持っているとは言え、大学の講義で学習したのは、「構造力学」のみ。製図に至っては一課題しか書いてません。それも家の平面図を渡され、「これを複写して来週までに提出してね」と。しかも教官はバックレて指導なし完全自習・・・。 その基礎となるべき「図学」の単位は落としていたし、ほぼ素人。(土木技術者だったので、図面読みとか学科の測量、安全管理とかはある程度知ってましたけど。)

 予備校に通うと、学科試験と製図試験の総合対策講座で50万円以上かかります。趣味にそこまではかけられん。てか土日は仕事だし、通うのやだし、通信講座でなんとかなりませんか・・・ なんとかなりましたので、僕の事例を紹介します。それでも製図道具とか受験料とか含め、25万くらいはかかってる・・重複避けても、20万弱はかかったでしょうね。高い趣味。

①学科試験対策

独学も可能だと思います。が、範囲が広いし、法律をどう読み解釈するのか、判断に迷うとき聞けるほうが有利だと思ったので、僕は「最短製図」の学科クラブを受講しました。 悪くないと思います。受講を考えておられる方はお試しとして、講師が書かれた「二級建築士はじめの一歩」という本を読んで判断されると良いかと思います。

 こちらは1年目に合格しました。

②製図試験対策

これは独学は厳しいんじゃないかと思います。学科試験には明確な答えが存在しますが、製図は答えが一つではないからです。

条件をきちんと満たし、建築常識に外れない設計(これである程度型は限られるかも)。をし、それを製図としてきちんとかければ(ここはいろいろパターンがありえるかも)よいので、答えは色々ありえる。指導はケース・バイ・ケースの部分も出てきますね。

それでも試験の製図では「限られた制限時間内に、現実的な設計をまとめ上げる」こと(エスキスをまとめること)が重視されるのは確かでしょう。もちろん「できたエスキスを、減点をできるだけ抑え、図面として完成させること」は当然なんですけど。

そのためには、できた図面を経験者にチェックしてもらうことが必要だし、数もこなす必要があるでしょう。

 1年目は学科試験が7月はじめに終わり、9月半ばの製図試験まで2ヶ月弱しかありませんでした。僕はそのまま最短製図の製図講座(後半戦)に申し込んだのですが、この年は合格できませんでした。

 講座は参考資料も揃っており、ゼロから勉強できたのですが、いかんせん基礎から積み上げて2ヶ月弱。製図課題をなんとかこなすことがやっと(5課題くらいだった)で、製図に習熟するところまで行けなかった。 短期集中できる人なら、可能かもしれないけど。僕には無理でしたね。

受験してみて、反省事項として思ったこと。

 製図試験は、製図を練習してきた受験生を相手に、合格率を50%程度にする試験なので、必ず試験で「サプライズ条件」が課されます。学科試験と違い、どちらか言えば「落とす」試験かと。

令和3年の課題はこんな感じ。サプライズとして、「敷地に勾配があり、建築物の計画に当たっては、盛土・切土により敷地全体を平坦にしてはならない」という条件が課されました。これまで敷地はいつも平坦だったので、最初読んで悩みましたね。

「全体を平坦にしちゃだめでも、部分的にはいいんだ」 と気がつけるかどうかが鍵だったかと。いま思えばそう難しくないんですけど、時間が限られた中で、「これまでこんな課題やったことないぞ〜」と心の中で叫びつつ(受験生は、おそらくみんな・・・)では、なかなか厳しいものなんですよ・・・

閑話休題。いずれにせよ、サプライズ条件をどうクリアするか考える時間が必要になるのですが、そのためには「多くの製図課題にあたりそういう状況に慣れておく」こと、またとにかく時間がないので、サプライズ以外の条件について「基本となる製図鉄則に基づき製図することを体に覚えさせる(時間短縮のため考えずに書けるよう)」ことが大事だと思いました。

つまり、ある程度基礎ができたら、ひたすら製図演習あるのみ!と。

それらの条件を考え、2年目の製図試験対策は、全日本建築士会の長期製図講座を選びました。 最短製図の講座で基礎はある程度できた(と思う)ので、あとはひたすら製図演習を繰り返すほうがよい と思ったからです。

 本当にこの講座は、課題が出されて製図して・・・の繰り返して、20枚以上製図しましたね。 なかなか要求水準が厳しく、直前模試の判定はDとかひどいものだったけれど、ま、本番がうまく行ったらそれで良しということで。

僕が受講した製図対策の通信講座についてまとめます。

最短製図→製図をゼロからやる場合、良い講座だと思います。どう製図するかをしっかり学べますから。「伏図攻略テキスト」とかわかりやすかったし。ただ個人的には1年で学科試験合格後に製図の準備をして、製図試験合格まで持っていくのは、時間的に厳しかったなあ と思いました。 

今ゼロからスタートする僕なら、2年計画にして、1年目に学科試験に集中し、2年目は製図試験対策(前半+後半)を受けておけば、いけたかも と思っています。 

少人数の講師でやっているようで、講師間での齟齬みたいなのはなかったです。割とアットホームな雰囲気だったし。

全日本建築士会→ひだすらもらった課題に対し製図を行います。 ある程度基礎ができれば、この形式は試験対策として大変有効だと思います。逆に、ゼロからスタートでこの講座だけだとちょっと厳しいかと。普通は受験資格を得る段階で、ある程度製図基礎は出来てて、ゼロとかありえねー かもしれないけど・・・。

 価格の割にたくさん(20課題)演習できますし、課題解説ではひたすら基本となる製図鉄則を毎回強調しますので、真面目に聞いていれば、いやでもそれが身につくかと。また受講生が多いので、多くの受講生がミスっているところはその対策をまとめ適宜送付してくれるのは良かったです。

一方で、複数の講師の方が採点しているようで、同じような答案を出しても非常に辛口評価だったり、甘口評価だったりしました。ひどい場合には「解答例は○○となっているが、この場合は☓☓にすべき」みたいな記載もあり、「ちゃんと内部調整しろよ」と思うことも。

 ま、できるだけ低価格で多数の演習をこなす講座ですから、欠点もありますよね。演習数は圧倒的なのは確か。

ネット情報の中では、割とこのページの「10.製図試験の通信講座をリストアップしました」の意見が近いかなあと思います。価格と課題数は最新のものではないかもしれないので、それぞれのHPで確認したほうが良いかもしれませんけど。

資格学校を徹底比較!「二級建築士」の製図試験はどの学校に通うべき? 建築Camp

どの講座を選んでも、一人で製図をもくもくやり続けるのはなかなか大変なのは確かです。 でもやらないと合格もないしねえ・・・僕も今年受からなかったら、もー受験辞めようかと思ってたよ、正直。・・・

P.S. 世間では、建築士のことを「設計士」って呼ぶことが多いんだけど、あれなんでだろうね? 設計って、建築だけでなく自動車や機械、システム(プログラム)構築等、工学系の人々(を主として)幅広く行われるものだから、そういう人たちの総称をエンジニアなり設計士と呼ぶのが正しいとは思うのだけれど、世間的には建築士→設計士、プログラマとかSE→エンジニアみたいなイメージのような?

ま、僕的には設計士ってカッコいい名称だから、結果的にはOKなのだけれども。

依佐美送信所記念館

ちょうど70年前のこの頃(正確には12月2日)、日本から一通の無線通信が発信されました。

文面は「新高山登レ一ニ〇八」。太平洋戦争開始を告げる、真珠湾攻撃の暗号電報です。この暗号文は、当時の連合艦隊旗艦「長門」から発せられ、2つの無線送信所で中継され、各地の隷下部隊に通達されたのですが、中継された送信所の一つが、愛知県刈谷市にあった依佐美(よさみ)送信所です。

電報は1941年12月2日に岩国市柱島沖合の旗艦「長門」から有線で東京霞ヶ関の東京通信隊(東通)に送信され、同所から船橋と依佐美から「中継」された。船橋から短波と中波が、依佐美から潜水艦向け超長波が送信されたと考えられる。

依佐美送信所

施設は近年撤去されたのですが、一部が残され記念館となっています。そこを訪れました。

もともとは、日本〜ヨーロッパ間の遠距離無線通信(モールス)を「長波」で行うことを目的に建設された施設でした。ヨーロッパとの通信は愛知県刈谷にある依佐美が送信所で、三重県四日市市に海藏受信所が設置され、名古屋に送・受信所をコントロールする中央通信局が置かれました。

初のヨーロッパへの通信は、1929年(昭和4年)、ワルシャワへ向けて送信されたものでした。 この歴史的経緯について、IEEE(電気・電子・情報工学関連の国際的標準化団体)が、技術進歩の一里塚としてマイルストーン認定を行っています。

施設は、通信回路、アンテナ、それらを動かすのに必要となる電力施設*、建屋等からなります。

*高周波発動機は安定した大電力が必要なので、専用変電所から供給された商用電流(交流)で交流電動機(モータ)を回し、その回転で直流発電機を回し発生した電流(直流)に再変換、制御して得られた安定した電流を直流電動機と高周波発動機に使用するという、複雑な手順を取っていました。

復元された施設内は機器でいっぱい。*機器は当時のもので、特に心臓部である高周波発電機は最先端だったドイツ製。機械遺産やら技術遺産やらに認定されています。

直流電動機(モータ)と高周波発電機

アンテナを張る鉄塔は、高さ250mのものが、横2列×縦4列の計8本。およそ500mの間隔をおいて建てられていました。

左上ー専用変電所 中央左ー送信所、中央左右〜アンテナを支える鉄塔8基
変電所とつなぐ専用電話。解説には 「1923」とあるので、大正12年頃のもの?

ところが、施設開設後じきに、小電力で通信可能な短波無線が開発されます。海外通信も短波が主流に。依佐美送信所でも短波設備を増築し、長波・短波の欧州向け無線通信の拠点として活躍・・・とありますが、実際には24時間のうち、短波を使うのが22時間、長波が2時間くらい。巨額の金を掛けた長波施設、正直宝の持ち腐れか・・・

ところが!長波は水中でも減衰が少なくよく届くことから、 潜水艦への通信に最適ということが分かったのです。(状態が良ければ、でしょうが、水面下15mでも受信できたそうな)てなことで1941年、依佐美送信所は対潜水艦の通信拠点として日本海軍の管轄下に。それが「ニイタカヤマノボレ」につながるわけ。

(真珠湾攻撃には)航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が選ばれた。

wiki真珠湾攻撃

施設は戦後、在日米軍に接収され、1994年に日本に返還されるまでは、米国海軍の送信所として使われていました(長波の施設に戻ったので、潜水艦向けでしょう)。

返還後、これらの鉄塔や送信所は撤去されましたが、僕は子供時代、付近を通るたびに「でかい鉄塔だな」と見ていた記憶があります。 

 送信所の跡地に記念館が造られたのが2007年。 

高さ250m鉄塔の一部(25m程度)が残されています。 鉄塔基部は逆三角形型になっています。これは・・・

鉄塔が風で揺れても荷重を下部に均等に伝えられるよう、球状基礎になっているから。鉄塔の保持は張線(ワイヤー)で支えていました。

短い余談  真珠湾奇襲電報にある「新高山」とは? 標高3,952m。当時の日本最高峰です。(富士山は3,776m)現在の台湾は玉山の旧称。

長い余談電報は1941年12月2日に岩国市柱島沖合の旗艦「長門」から有線で東京霞ヶ関の東京通信隊(東通)に送信され・・・」とあります。

桂島沖合の泊地に泊まっていた旗艦長門(連合艦隊司令長官・山本五十六座乗)から命令が発せられ、係船浮標に繋がれた通信ケーブルから東京へ有線通信されたんだろうけど、それなら連合艦隊司令部は船上ではなく、東京近郊の陸上にあったほうが指揮に有利だったんじゃないかなあ? 

日露戦争、海軍はほぼほぼ本土防衛戦。一回の決戦で決着がつきましたので、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が旗艦三笠で船上陣頭指揮を取ることが合理的でした。、けど、太平洋戦争で連合艦隊司令長官が戦闘で船上陣頭指揮を取ることはありませんでした。

日本海軍の対米戦略は、もともと本土防衛戦に近い、一回の海戦で決着をつけようとするものでした(補助兵器で敵艦隊を漸減させ、主力艦隊で決戦して勝利!)。したがって日本の主な軍艦は、この思想で割り切り設計された(一回使い切りもあり得る、防御力や航続力より攻撃力と速力重視)いわば「奇形の造形物」でした。 模型にするとカッコいいんだけど。

日本はまず、南方資源を確保する。そのときは当然ながら、アメリカの植民地フィリピンを押さえる。これに対して、アメリカはフィリピンを奪還した上で北上し、日本本土に向かう。これを日本はマリアナ諸島、ないしは小笠原諸島のラインで邀撃〔=迎撃〕決戦をする…ようするに、日本海軍にとって輝かしい歴史である、日露戦争における日本海海戦の再現を狙っていたのだ。

その際、艦隊決戦が行なわれるまでの間に、少しずつアメリカ艦隊の戦力を減らし、連合艦隊との戦力比を有利にするという、漸減作戦にも重きが置かれた。軍艦の要求性能もそれに基づいているので、日本の艦隊は遠くまで航海することを想定していなかった。

アメリカはあくまで仮想敵だった? 日米開戦を止められなかった「海軍の誤算」

が、山本五十六は、「そんな日本に都合のいい戦い方、起こるわけ無いだろ」と現実的に考えた結果、真珠湾を航空機奇襲し、一気に形を付ける「ばくち」作戦を実行します。

それでアメリカが音をあげなかったので、この戦争が1回の決戦で勝負がつかない戦いであり、戦域が広範囲に広がり長期戦になることも明白に見えていたでしょう(てか、賭けに負けたからあとは勝てる方法は無い・・・あとは絶対国防圏を守りつつ持久してチャンスを待ちつつ・・・軍人としての死に場所を探し・・・っていうのが本音だったのではないかと)。

であればなおさら、指揮・通信の有利さに加え、狭い船内での司令部の利便性向上や関係各所との連絡調整の容易さ向上のため、早期に陸上に移動すべきだったと思います。

(1994年5月、連合艦隊司令部が最後に海上。旗艦・大淀にあったときの司令部人員は、戦時増加要員を含まないで106人にもなります。 出典:学研「日本の軍用船」より) 

実際に連合艦隊司令部が陸上(横浜・日吉)に移ったのは、1944年9月。終戦までわずか1年。ここで移転しても、もう日本には油がなく、動ける軍艦がいない・・・なぜいつまでも船上にこだわったんだろ?