えっ、戦国時代の西尾城には「丸馬出し」と「障子堀」があったんですか!

西尾市資料館で10月1日まで開催されている「発掘された!中世西尾の城館跡」展を見に行ってきました。 無料です。

んで、僕的トピックスがこのタイトルです。

「丸馬出し」や「障子堀」は、戦国時代、城の防御力を高めるために考案された最新技術です。一般的には「丸馬出し」は武田氏流築城術で、「障子堀」は北条氏流築城術でよく使われた技法と言われます。

丸馬出とは、日本の城における防御装置である馬出(うまだし)の一種。馬出とは、敵の攻撃から虎口を守り、城兵が出入りしにくくなるように、虎口の門の外に設ける土や石製の小さな曲輪(くるわ)のことである。虎口とは、城郭内での戦の際に主要な出入り口となる場所のこと。馬出の小曲輪は様々な形状の物があるが大きくは2種類に分けられ、半円形になった物が丸馬出、四角形の物が角馬出である。丸馬出は武田氏が好んだことで知られ、

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障子堀は、堀の底に障子の桟のような格子状の畝を設けた物。似たような物に空堀の底に土手を掘って、直交に区画する「畝堀」(うねぼり)があるが、障子堀はこの発展形である。堀障子とも言う。障子堀は神奈川県の小田原城などいくつかの城で造られ、遺構が見られる場所として静岡県三島市の山中城などがある。

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その技術が、武田氏や北条氏がほろんだ後、その領地と技術を受け継いだ家康時代の西尾城で構築されていたとは(対秀吉)。  

丸馬出しが良好な状態で残されているのは、静岡県の諏訪原城です。 実際に見に行ってないんだけど、前に記事で取り上げたっけ。 まあ、下のイラストの右端にある施設です

   香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」より

攻め手は、馬出し突入後向きを変えないと主郭に入れないので勢いが削がれるのと、守り手はそこを横矢で攻撃できるという仕掛けですね。 真田幸村の大阪城「真田丸」も、大型化した丸馬出しと言えるかもしれません。

西尾城で発掘された時の写真がこちら

左側が主郭なので、右向きに丸馬出しがあり、その前に三日月掘(不完全?)その前にさらに細い堀と、二重に堀が巡っている?のでしょうか。ちょっと解説が欲しいなあ。

攻城マニアとしては、写真だけでは馬出しにどのように土橋が架かっていたか(おそらく発掘作業の移動効率化のため残した土部分もあるはず)がわからないので、残念ですね。せめてそういう個所は着色しておいてくれると分かりやすいんだけど。

小田原城の障子堀復元図がこちら。

    香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」より

 ただの堀と比較すると、格子があるので隣の区画にも簡単には移動できません。第一、格子の底に降りると、また這い上がるのはとても大変そう。格子の上を移動するのがまだ良さそうですけど、不安定な細い道です。いずれにせよ、堀を渡ろうとする攻撃方は城方から格好の狙撃対象となったことでしょう。

んで、西尾城で発掘された障子堀の写真がこちら。

うーん。どこが堀で、どこが障子(格子)なの~?見ても全然わかんないんだけど・・・

西尾市史によると、1585年(天正十三年)に家康が三河中の人足を集めて西尾城の大規模改修を行っており、これらの改修はそのとき行われた可能性が高いようです。

その後、1590年に家康は関東に移封され、そのあとに入った豊臣系大名(田中吉政)が、石垣を築くため、地形に合わせて構築されたこれらの施設を埋めて直線的な二の丸構造としたのではないか と解説されています。  ふむふむ。

障子堀は正直ビミョーなんですけど、丸馬出しはしっかり残っているようだから、発掘したものをそのまま展示しておけばマニアが大挙して見に来る観光資源だと思うんだけどな。(僕も見たい)

あと、前に見に行った「寺部城」の地形モデルがあってちょっと萌えました。現在でも城の地形がよく残っていて驚きましたが、でも樹木が覆い茂っていて、地形が分かりづらかったもの。やっぱり三次元模型の展示は、よくわかって吉です。 さて、アナタならどこから攻めますか?

西尾にいた地侍・鈴木氏について

西尾市の資料館にて、 「家康と西尾ー家康領国の時代ー」という企画展が開催されています。入館無料、6月25日までです。

興味深い展示会でしたが、僕が一番注目したのが、平口町や一色町前野を領していた地侍、鈴木氏についての展示でした。

 鈴木家一族の屋敷が今でも当地にあるのか、「鈴木八右衛門家文書」というのが残っているようです。 そこに、当時の領主であった吉良氏、今川氏、徳川氏からの領地安堵状が残っていて、いくつかが展示されていたのです。  一族は激動の三河戦国時代をどのように生き延びたのか 興味を持ちました。

が、ネットを見ても鈴木氏に関する記述はあまりないです。 ここくらいでしょうか。ですので、図書館へ行って調べてきた情報を共有します。 出典は「新編 西尾市史」「一色町誌」「西尾の人物歴誌」です。 すべて西尾市立図書館(本館)の地域本コーナーに並んでます。

西尾市教育委員会「西尾の人物誌」によると、鈴木氏(本家)は、初代藤右衛門、2代弥右衛門貞重、3代八右衛門重直、4代八右衛門隆次、5代八右衛隆政、6代九右衛門(?)重政、7代政弘・・・と続いたようです。  江戸時代には三河国代官、西尾城城代などを務め、伊勢国、出羽国、越後国と所替えののち、江戸詰めとなった旗本だったそうな。

戦国時代の歴史は以下の通り。あちこちから抜き出してきたのを、年表にしてみました。重直くん、忙しいねえ。

一色のどこかにいた2代目貞重に続く3代目重直は平口の屋敷の領有を、次々と変わる時の領主たちに認めさせてきました(一色から平口に、一族の養子にでも入ったのかな?)。

その後なぜか再度一色の海岸近く(前後)に移り住み、そこで新田を開発し、領主に領有を認めさせ・・・といろいろやってます。その間に戦争にも出て、褒賞に領有を認めさせ、加増され・・・まさに、「一所懸命」を地で行っているよう。

「一所懸命」[イッショケンメイ]は、「昔、武士が賜った『一か所』の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたこと」に由来したことばです。これが「物事を命がけでやる」という意味に転じて、文字のほうも「一生懸命」[イッショーケンメイ]とも書かれるようになりました。今では、「一所懸命」よりも「一生懸命」と表記・表現される場合が多くなっています。

NHK放送文化研究所

 ちなみに、平口と前後の位置関係は次の通りです。 今はないけれど、旧河道C(広田川)でつながっていたようなものです。

新編西尾市史より

重直の前後新田領有を認める際、家康の重臣「鳥居忠吉」が登場しています。大河ドラマ「どうする家康」でおなじみですね。

この人がこの地の領主(代理含め)であったという情報はないですが・・・実は忠吉の次男が平口の隣集落(上道記)にある不退院の住職で、忠吉の墓もここと言われていますんで、なんか隠然たる権力があったのかもしれないですね。あるいは矢作川水系水運業組合の親分子分関係だったとか・・・   不退院訪問記はこちら

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝されたという。その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守った。
元亀3年(1572年)に死去。長男・忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次男・本翁意伯は出家していたため、三男・元忠が家督を相続した。墓所は、次男・本翁意伯が住職となっていた不退院(愛知県西尾市)。
鳥居家は三河碧海郡を居としており、ここは矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていたと考えられている。

wiki

まあ、重直のおかげで鈴木家は激動の戦国時代を生き延びられました。それにしても、その当時の文書が個人蔵としてきちんと残っているって、すごいなあ。

補足。平口の土地を譲られた重直の弟・又太夫の子供が、家康の息子信康に小姓として仕え、信康自害の際殉じた「吉良おはつ」だそうです。(正式名は鈴木長兵衛)

中学生だか高校生の時、部分的に読んだ山岡荘八の「徳川家康」で、おはつの殉死シーンがえらく妖艶・・・つーか詳細は覚えていないのですがBL風に書かれていたような・・・。その衝撃?か、この名前は僕の記憶の中に長く残っていました。そうか、名字から吉良氏の一族かと思っていたのですが、鈴木氏の一族だったんですね。なんかちょっとすっきりしたよ。(いやどうでもいいけど)