菱池

むかしむかし。三河国幡豆郡に、菱池という池がありました。下の図は、文政天保国郡全図 という地図の一部に加工を施したものです。黄色の枠で囲まれた部分が、大まかに現在の西尾市の領域です。

「郷土資料事典 21愛知県・観光と旅」 より引用

この絵図の河川状態は江戸時代初期のものだと思いますが、これを見ると西尾市の西部(この絵図は下が西)は、矢作川、矢作古川、弓取川、広田川という大河に囲まれた、大規模な輪中みたいですね。 まあ、当時の大河川下流部は多かれ少なかれこんな感じだったのですが。

この広田川の水源に当たるのが、菱池でした。当時は四方の山々から流れ出た細流がこの池に集中し、地図にも載るような三河最大の池だったそうな。

池の名産品はヒシの実(食用)。だから「菱」池なのね。

幸田町立図書館 菱池物語展パンフより

余談ですが、ヒシの種によっては棘が四つあるものがあり、どのように置いても一本が必ず立つので、忍者がこれを「マキビシ」として利用したそうです。たくさん集めて乾燥させ、竹筒に入れて携帯。敵に追われた際にばらまいて、追っ手が混乱する隙に逃げるとか。昔の履物はわらじですから、これが十分障害になったんですね。

閑話休題。広い面積を誇る菱池ですが、江戸時代から徐々に干拓され、最終的には明治18年に完全干拓。それにより50haに及ぶ水田が造成されました。

現在は、大字「菱池」という名称が残るだけ(下google map航空写真の赤枠範囲が字・菱池)この菱池地区の、二つの線路(東海道線と新幹線で囲まれた部分を中心に、菱池がありました。

まあそんなのはただの昔話。今は関係ないから・・・と思ってたら、平成20年、一夜にして突如池が復活するイベントが! 

広報こうた より引用

ハイ。平成20年8月末豪雨で、広田川と赤川の合流点から氾濫が起こりました。その時の浸水範囲が上記。ほぼ菱池が復活だぞっ と。

幸田町立図書館であった「菱池物語」展でも、「現地でわずかに池のふちの跡らしきものが観察できる」とか「往時は東海道線の土盛りが池の堤防みたいだった」 という記載の展示もあったんで、 池を水田化(陸域化)といっても、地盤高が気持ち周囲より低いんですな。水は正直だからそこに集まるわけです。

以上、防災には、地歴が大事だよね っていうお話でした。

参考

  • 西尾市史
  • 幸田町立図書館文化振興展「菱池物語」パンフレット
  • 同展報道記事(中日新聞)

西尾の室町・戦国時代

室町・戦国時代の西尾

室町時代、西尾の地は吉良氏が治めています。吉良氏の当主は室町幕府の将軍である足利家の一族の名門・重臣として常時京都におり、西尾は不在領主として小さな領地を持っているだけでした。

西条吉良氏は石橋氏、渋川氏と共に将軍の「御一類」と呼ばれ、毎年正月5日に行われる将軍対面の式など様々な面で別格扱いを受けていた
wiki吉良義真

永正5年(1508年)6月8日、前将軍義尹(義稙)が入京すると、義信は一条室町の自邸を将軍の仮御所として提供、将軍に復位した義尹はここで犬追物や能を開催している。wiki吉良義信

西尾の小さな領土なのに、吉良氏は東条と西条の両家に分かれ、両家が主導権争いを繰り返していました。家柄が重視されている時代はともかく、次第に実力がものをいう時代になると内紛続きの弱小豪族である吉良氏は、西の織田氏、東の今川氏の侵略や後ろ盾・庇護を受け※、それぞれの家の存続を図るようになります。 まあ、西尾は両雄の前線・草刈り場になったんですな。

そのころの状況を示すエピソードがあります。西尾市室場にある室(牟呂)城が舞台です。

室城跡(現在の林松寺)

裏山(城跡)へは結構な高低差があります。

墓地なんで写真がとれませんでしたが、これは土塁跡・・・かなあ

徳川家康の祖父、松平清康(在岡崎城)は有能な武将で、1535年尾張国へ攻め込みます。この時の相手は、織田信長の父、信秀です。 が、家臣に暗殺されます(守山崩れ)。残された子、広忠(10歳)。

広忠は織田と結んだ一族に裏切られ城を追われ、縁戚の東条吉良氏・持広を頼ります。(この時西条吉良氏は織田方についたようです。)持広は広忠を伊勢にかくまうと共に、東条吉良氏の後ろ盾である今川義元に庇護を依頼します。

今川義元はその依頼にこたえ、1540年に広忠を三河へ戻し、一旦東条吉良氏の家老である富永忠安の居城・室(牟呂)城へ入城させ、岡崎城への帰還は成功。広忠は今川氏の庇護のもと松平家を継ぐことになりました。めでたしめでたし。

 

西尾草刈り場説の他の例を挙げると・・・

・1546年・織田信秀が西三河に侵入。松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎(今川義元の軍師)は大軍を率いて西三河に介入 →この辺りで大原雪斎が西尾実相寺の住職に(中興の祖)

・1547年・織田信長初陣。 吉良・大浜(碧南市)に駐在する今川勢への焼き討ち

・1560年・織田信長・実相寺を焼く。この年、桶狭間の合戦で今川義元が討たれる

今川義元亡き後、西尾の地は今川氏から独立し織田と同盟を結んだ松平氏(徳川氏)に攻められるようになります。 吉良氏の居城東条城を巡る前哨戦で吉良側の勇将・富永忠元が破れ、そのまま戦国時代の吉良氏は滅亡します。富永忠元は松平広忠を匿った忠安の子です。その人が広忠の子家康に討たれるんだから、因果というか、なんというか。

吉良氏滅亡後、西尾は徳川家の領地になります。 その後江戸時代になってから、吉良氏の末裔は、吉良の地を治める旗本として徳川家に仕えるようになります。こちらが忠臣蔵で有名な 高家吉良家です。

 

※戦国時代には今川氏に攻められてばかりのイメージのある吉良氏ですが、それ以前には吉良氏の領地が浜松(遠州国)にもあり、その領有をめぐって今川氏と吉良氏はずーっと争っていたのです。

吉良氏の所領である遠江国引馬荘(静岡県浜松市)の代官となった一流があり、戦国期に大河内貞綱は遠江守護職の斯波氏と結び、侵攻する今川氏に執拗に抵抗した。(wiki大河内氏)

大河内氏ってのは、寺津城主(吉良氏家臣)の家系ですな