西尾の文化財(8) 長圓寺(板倉氏菩提寺)

長圓寺(ちょうえんじ)は、江戸初期に京都所司代として活躍した板倉勝重とその一族の菩提寺です。寺ができたのは寛永7年(1630)と新しいです。

なかなか立派な山門です。お城みたい。山門前に駐車場があります。

山門(1630市文化財)
本堂(1816)文化財ではないけど、かなり立派

板倉勝重は、天文14年(1545)に岡崎市北部で生まれました。次男だったので、小さいころ、禅宗のお寺に入れられ、僧侶をやってました。ところが徳川家(松平家)の家臣だった父親がおが戦死、後を継いだ兄貴も戦死したため、徳川家康に「お前が跡を継げ~」と言われ、1581年に還俗して板倉家を継ぎました。禅宗の坊主を30年近くやってきて、戦国時代の武家が務まるんかな~? うーん。

が、勝重は主に民政面で重用されます。良かった~

例えば、1586年駿河町奉行を始め、江戸町奉行等で、業績を上げます。関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601年)、三河国に6,600石を与えられ京都町奉行(のち京都所司代)に任命、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に務めます。元和6年(1620年)に息子に譲るまで京都所司代を務めました。その間に大名になります。

武芸に優れた武将 ではなかったかもしれませんが、禅僧だった時の教養と経験を生かせば、大名や公家、寺社との付き合いや折衝は、得意だったのでしょう。さらに庶民の間では、名奉行と慕われました。家光の乳母「お福」を推薦したのも彼だという説もありますね。

息子は、長男重宗・・・京都所司代を三十五年勤めあげる。 次男重昌・・・島原の乱の総大将。でも配下の大名があんまり言うこと聞いてくれなくて成果が上がらず、総大将は老中松平信綱に交代。交代の前の総攻撃で戦死。

しかしまあ、板倉家は代々大名として続き、明治維新時は備中高梁藩主。当主勝静は幕府老中として徳川家に忠誠を尽くし、戊辰戦争を五稜郭まで転戦して戦いました(途中離脱)。

えーと、寺の話に戻ると、勝重が岡崎に立てた菩提寺を、重宗がここへ移したのが始まりです。たぶん、菩提寺をゆかりの領地に立てたのですね。 旗本、大名としての板倉家は勝重からなので、初代様の木像をつくり、肖影堂を造って墓の代わりとし、祭りました。(ともに県文化財

肖影堂への道  趣あり
途中に手水鉢があり・・・
なにげに本阿弥「光悦」の刻銘!
肖影堂 簡素ですが、着色が残って(維持されて)います。 額は石川丈山だそうです。そういや丈山はお隣安城の出身ですね。

また、寺は「万燈山長圓寺」で、万燈山のふもとにあります。

本堂の額

万燈山に登ると、北側が一部草が刈られ、市が一望できる場所があります。

草が刈ってあるのは、お盆に死者を弔う火祭りがあるからなんですね。 「かぎ万燈」といいますが、一説には京都の大文字焼のもとに、なったとか、ならなかったとか・・・

 

なお、お寺と万燈山は湿度が多く、蚊が多いので注意。だからなのか、万燈山はシダが奇麗でしたけど・・・

しーだ。

西尾の文化財(7)  華蔵寺(高家吉良家菩提寺)

今日は、江戸時代に再興された、高家旗本の吉良氏の菩提寺、華蔵寺の紹介です。

室町時代以降、吉良氏は東条吉良氏と西条吉良氏に分かれ、内紛を繰り返していました。戦国時代末期に統一吉良氏になりますが、徳川家康と敵対したためいったん滅びました(吉良義昭)。

しかし、義昭の兄義安は、徳川家康と仲良しだったことから、徳川家につかえます。その子義定が慶長五年(1600)年に、父の菩提を弔うため領地に造った菩提寺が華蔵寺です。その子義弥は、徳川家康が征夷大将軍になり幕府を開くのに協力したし ってことで「高家」という名門旗本になり家を再興します。

華蔵寺門構え

なかなか立派な門構えです。

なお、駐車場はこの前に広場があり、そこに停められます。トイレ有り。

門をくぐると、急な石段があります。危険なので、左右の坂を使うよう書いてありますが、階段を上ると、石段の上の門には「華蔵世界」の文字が。だから華蔵寺なんですね。

急な石段
華蔵世界の入口

さてと、このお寺の文化財としては、吉良義央公の木像(県指定文化財)その他池大雅の書等があるようですが、非公開です。外から眺められるのは、木造を納める御影堂と、お経を納めた経堂くらいかな。

御影堂
経堂

あ、それから、吉良氏の墓がありますね。高家旗本吉良氏の系図と、葬られている人の墓を写真で示します。 葬られている人が太字、吉良氏の家督を継いだ人を□で囲っています。

吉良義央さんは、米沢の上杉氏と太いパイプを持ってるんですね。上杉綱憲としてみたら、実父と実子が吉良家の当主になってますから、援助しないわけにもいきませんなぁ。でも、義央のあとを継いだ義周さん、かわいそうすぎ

大老酒井忠勝や、薩摩の島津家ともつながっています(娘はのちに離縁)。 ここには書いていませんが、四女の菊姫は再婚で公家の大炊御門経音(大納言)に嫁いでいます。この人の高祖父は、吉良義安の娘を妻にしていますから、大炊御門家とは、深い親戚になるのかな。

 

あ、せっかく華蔵寺を拝観したなら、そのまま隣の花岳寺にも行きましょう。途中に感じのいい散歩道が続いています。

案内看板
小道1
小道2

追伸:もう一つ見どころを忘れてました。吉良氏一族の墓に、「キリシタン灯篭」あるいは「織部灯篭」があります。写真はこちら。

キリシタン灯篭

典型的なキリシタン灯篭ですね。小さく矢印で示してありますが

・竿の部分の膨らみが十字架に見え、中央にローマ字にも見えそうな不思議な記号が彫られている。・一番下の像がバテレン(あるいはキリスト)にも見える。

千利休の娘はキリスト教徒でしたし、利休の高弟(七哲)もほとんど教徒でした。吉良氏の一族も、教養として茶道はしっかりやってたでしょうし、禁制になる前は、或いは誰かが信者だったのかもしれません。たとえ信者でなくても、「西洋文明は当時の最新ファッション」みたいな感じでしたから、流行のキリシタン灯籠を導入したのかもしれません。それがなぜかここにある。

茶道は禅宗とのつながりが強いのはもちろんですが、特に織部焼には西洋の燭台やワイングラスの影響が見えるものもあり、茶道への西洋文化(あるいはキリスト教)の影響はある程度あったんでしょう。で、このキリシタン灯篭は、信仰と関係があったのかどうかはわかりませんけど、

そういえば、吉良邸討ち入りの日は、茶会が開催されるため、その日に確実に義央が在宅するので、決められたんじゃなかったかな。ちなみに、彼は千宗旦の晩年の弟子だったそうです。

 

ところで・・・忠臣蔵、松の廊下の刃傷沙汰(浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた事件)の原因は何だったんでしょうか?

よく言われる理由として、塩田にまつわる確執があります。

吉良の富好新田にも塩田があったという伝承から、入浜式塩田技術の先進地であった赤穂に技術指導を求め、断られたので、朝廷の使い(勅使)の饗応役を命じられた内匠頭を、指導する立場(高家)だった吉良上野介がいじめ、逆切れした浅野君が切りつけたという説です。

もっともらしいですが、地元吉良饗庭塩の里の資料によれば、

・幡豆郡(吉良を含む地域)では領地が村ごとに混在しており、赤穂藩のように領主が大規模な塩田開発を奨励したとは考えにくい

・赤穂塩が廻船によって江戸をはじめ全国に流通したのに対し、吉良の塩(饗庭塩)は岡崎や知多以外は信州伊那谷に流通した程度で、生産量は瀬戸内産に遠く及ばなかった

という点から、この塩田確執説は成り立ちにくいんじゃないか としています。

うーん。僕の意見としては、たぶん浅野君が、ちゃんと賄賂を渡さなかったので、上野介君はやっぱ浅野君をいじめたんじゃないかと。

時は元禄時代。バブルの時代です。吉良さんはずっと江戸にいます。上野介は仕事ができた人でしたし、華麗なる家柄と有力大名や公家を親戚を持ち、話題のディスコも行かないかんし(笑)、付き合いには金が掛かったでしょう。上野介は仕事ができる人でしたし、その仕事は大名に儀式典礼を教えることと、幕府と朝廷の間を取り持つ役割。どうしても天狗(ストレートに言えば「上から目線のヤな奴)になりやすい環境だったと思います。でも領地は大した産業もない4200石しかありません。

とすると、教養を磨くためにも、大名に先生役で教えるにしても、(贅沢な暮らしをするためにも)先立つものが大量に必要だったはずです。

公然の秘密として、「指導料」を高く取らないとやっていけなかったことでしょう。でも浅野君は生真面目だったらしいから。袖の下が足りなかったんじゃないでしょうか?

地獄の沙汰も金次第って言うし、筆頭家老の大石さんは忠臣でしたけど、できれば主君が生きているとき、今はやりの「忖度」(笑)をしてそこまで気を配ってたら、あの事件はなかったかもしれませんな。ま、国元からではなんともできませんけど。

 

 

 

 

 

系図