長圓寺(ちょうえんじ)は、江戸初期に京都所司代として活躍した板倉勝重とその一族の菩提寺です。寺ができたのは寛永7年(1630)と新しいです。
なかなか立派な山門です。お城みたい。山門前に駐車場があります。
板倉勝重は、天文14年(1545)に岡崎市北部で生まれました。次男だったので、小さいころ、禅宗のお寺に入れられ、僧侶をやってました。ところが徳川家(松平家)の家臣だった父親がおが戦死、後を継いだ兄貴も戦死したため、徳川家康に「お前が跡を継げ~」と言われ、1581年に還俗して板倉家を継ぎました。禅宗の坊主を30年近くやってきて、戦国時代の武家が務まるんかな~? うーん。
が、勝重は主に民政面で重用されます。良かった~
例えば、1586年駿河町奉行を始め、江戸町奉行等で、業績を上げます。関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601年)、三河国に6,600石を与えられ京都町奉行(のち京都所司代)に任命、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に務めます。元和6年(1620年)に息子に譲るまで京都所司代を務めました。その間に大名になります。
武芸に優れた武将 ではなかったかもしれませんが、禅僧だった時の教養と経験を生かせば、大名や公家、寺社との付き合いや折衝は、得意だったのでしょう。さらに庶民の間では、名奉行と慕われました。家光の乳母「お福」を推薦したのも彼だという説もありますね。
息子は、長男重宗・・・京都所司代を三十五年勤めあげる。 次男重昌・・・島原の乱の総大将。でも配下の大名があんまり言うこと聞いてくれなくて成果が上がらず、総大将は老中松平信綱に交代。交代の前の総攻撃で戦死。
しかしまあ、板倉家は代々大名として続き、明治維新時は備中高梁藩主。当主勝静は幕府老中として徳川家に忠誠を尽くし、戊辰戦争を五稜郭まで転戦して戦いました(途中離脱)。
えーと、寺の話に戻ると、勝重が岡崎に立てた菩提寺を、重宗がここへ移したのが始まりです。たぶん、菩提寺をゆかりの領地に立てたのですね。 旗本、大名としての板倉家は勝重からなので、初代様の木像をつくり、肖影堂を造って墓の代わりとし、祭りました。(ともに県文化財)
また、寺は「万燈山長圓寺」で、万燈山のふもとにあります。
万燈山に登ると、北側が一部草が刈られ、市が一望できる場所があります。
草が刈ってあるのは、お盆に死者を弔う火祭りがあるからなんですね。 「かぎ万燈」といいますが、一説には京都の大文字焼のもとに、なったとか、ならなかったとか・・・
なお、お寺と万燈山は湿度が多く、蚊が多いので注意。だからなのか、万燈山はシダが奇麗でしたけど・・・