建稲種命を取り巻く話題(志葉都神社・蘇美天神社)

西尾の文化財(21) で、建稲種命を取り上げましたが、この人に関連する神社が、西尾市と幸田町にあります。

建稲種命を祭るのが、幡豆の幡頭神社。この人の息子である建蘇美を祭るのが、幸田町にある蘇美天神社。別の息子である建津平を祭るのが、西尾市にある志葉都神社なのです。 位置を確認してみましょう。

このあたりは、西三河の平野部(地図中央の低地)から東三河(画面右側)へ移動する際、最初にぶつかる丘陵地に当たります。

ちょうど「川」の字を横倒しにしたように、幡頭神社のある海岸平野部、志葉都神社のある盆地、蘇美天神社のある盆地が横に並び、その間に2つの山地を挟む地形をしています。 両神社の縁起を読むと、 建稲種命は幡豆郡の国造(?)だったと言われています。幡豆郡の郡役所は、幡豆神社の東側の海岸部にあったと言われていますから、息子(郡の有力者)を山間の盆地に使わし開墾させ、地域の開祖として祀ったのではないか ということが言えそうです。

(志葉都神社のある盆地は「角平御厨」、蘇美天神社のある盆地は「蘇美御厨」と呼ばれる伊勢神宮領だったようです。幡頭神社は饗庭御厨(金蓮寺のあたり)の範囲かもしれません。)

吉良町史によると、「この伝承はもとより史実を述べたものではないが、建稲種命を中心とした神々の系譜を作造し、西三河南部地域の開拓の歴史をつくりあげたもの」 とのことです。

実際の幡豆郡司は、伴氏と言うのですが、その先祖は大納言「伴善男」とされていますから、そういうきれいなストーリーの話を造る能力もあったのかもしれませんね。

ってことで、まず志葉都神社(シハトジンジャ)です。

志葉都神社
拝殿

祭神は津牧明神(ツノヒラノミョウジン)。地名は津平(ツヒラ)ですが、地元ではツノヒラとも呼びます。

写真の右横に赤い旗が建っていますが、これは併設された「磯泊天神」さんです。

天神旗
天神さん

もともと別のところに祭られていたのですが、明治時代にまとめられたようです。 この辺りは、古くは磯泊郷と呼ばれていたようです(和名抄・幡豆郡八郷)。神社と地名、どっちが先だったんかな?

縁起

なお、こちらの盆地はお茶(吉良茶)やなしの生産が盛んです。

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次に蘇美天神社です。

鳥居
拝殿
縁起

こちらの祭神は建蘇美命なのですが、名称「蘇美天神社」って、菅原道真を祀ってるの?って誤解されそうですねぇ。 ふつう天神というと、菅原道真を思い浮かべてしまいますもの。wikiによれば、日本で皇室や古代の有力豪族の祖先とされる神々を天神(あまつかみ、てんじん)と呼ぶそうです。 この神社の隣の丘には墳墓があり、伝蘇美命墳墓とされているようです。あ、現地名は「須美」です。

この下で石室があり、須恵器などが見つかったそうです。

追記:なお、この須美地区には、その昔真言宗の寺院がたくさんあり、「須美千坊」と呼ばれたようです。この須美千坊(真言宗)と近隣の浅井千坊(天台宗)が宗論から万燈山の麓で争い、多くの死者が出て。その供養のため、万燈山で火を焚き、死者の魂を静めた 。それが西尾市の文化財、万燈山の鍵万灯の起こりらしいです。詳しくは西浅井散歩 宿縁寺(浅井千坊の一つ)を読んでください。

須美千坊の位置はよくわからなかったのですが、幸田町立図書館にある「須美郷土誌」に一部記載がありました。 「須美の向屋敷にある敬覚寺はその昔真言宗の寺院で、妙覚山等覚坊と称し、須美千坊の一つだった」そうです。

敬覚寺
敬覚寺の鐘楼から本堂の屋根越しに蘇美天神社を望む。

こちらの盆地は、柿づくりが盛んですね。それから近年は国道23号のバイパスが、この谷を走っています。

これらの神社、現在ではひっそりと祭られているのですが、平安時代の末ごろ造られた「三河国内神明名帳」において、幡豆郡八座として載せられた中に記載があります。

  1. 正二位羽利大明神・・・幡頭神社
  2. 正三位内母大明神・・・伊文神社
  3. 従四位下熊来明神・・・久麻久神社
  4. 従四位下斎宮明神・・・野宮神社
  5. 従四位下津牧明神・・・志葉都神社
  6. 従五位下磯泊天神・・・磯泊天神
  7. 従五位下蘇美天神・・・蘇美天神社
  8. 従五位下草佐天神・・・鳥羽神明社

神社の神様に位階をつけて順位を決めるのは・・・もちろん朝廷(天皇)です。「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」(柿本人麻呂)だからできる神業(笑)ですが、考えてみると、これすごいシステムだよな。

ちなみに野宮神社はその昔斎宮明神と呼ばれてたんだけど、これはその昔、天安三年(859年)悠紀斎田(ゆきさいでん)つーのが置かれ、その時の斎宮あとだったからだそうな。

さらに悠紀斎田ゆうのは、天皇が即位後はじめて行う収穫を祝う祭儀の時に献上する米を作る田を言うそうな。(三代実録の記載より。 吉良町史)

 

 

 

 

深溝 本光寺

深溝(ふこうず)へ行ったついでに、本光寺を拝観してきました。 ここは島原藩・深溝松平氏の菩提寺です。また、地元では「アジサイ寺」として有名で、時期には大勢の花見客でにぎわいます。

曹洞宗 本光寺 門前

深溝の地を領有した松平氏だから、「深溝松平氏」。

家は 忠定ー好景ー伊忠ー家忠ー忠利ー忠房・・・ と続くのですが、戦国時代は主家である安祥松平家(のち徳川家)へ文字通り身命をかけた忠義を貫きます。なにしろ当主が3代続けて合戦で戦死しているんです・・・

  • 2代好景・・・善明堤の戦いで戦死 (家康の三河統一途上 vs.東条吉良氏)
  • 3代伊忠・・・長篠の合戦で戦死
  • 4代家忠・・・伏見城の戦いで戦死(関ケ原前哨戦)

(4代家忠さんは筆まめな人だったらしく、自身の日記(「家忠日記」)を残しています。家康を中心とした政治情勢や関係大名家の動向を知る史料として、ちょいちょい引用されます。)

5代忠利は父祖の地である深溝で1万石の大名になりますが、徳川家に忠実な家だと見込まれたのか、あちこち国替えされ、最終的には寛文8年(1668年)6代忠房の時、九州の島原藩6万5千石に落ち着きます。

島原は寛永14年(1637年)に「島原の乱」があった土地で、後始末のため2代高力家が治めますが、そのあとを信頼できる深溝松平家に託したのでしょう。

6万5千石と言っても普賢岳を抱え、また火山性土壌で土地がやせているため、難治の地。さらに国際港長崎の監視(直接の統治は長崎奉行ですが)と九州一円の外様大名の監視役 みたいな仕事も仰せつかっていたようです。

でも誰かに任せなきゃ。幕府は「あの忠義の家なら大丈夫だろ!」と思ったのかもしれません。何せこの家の当主は、代々「忠」の字を受け継いでます。しかし忠義はつらい。

例えば寛政4年(1792年)には普賢岳が激震と共に大崩落を起こし、島原城下の大半が埋没し、死者1万5千人とも言われる島原大変が発生しています。対応に当たった当時の藩主、11代忠恕は心労が重なったこともあり死去。「悲運の藩主」と呼ばれています。

その島原藩松平家ですが、島原に移って以降の殿様についても、お墓は島原ではなく、ここにあります。 もしかして、生前は難治の地の統治に頑張るけど、死んでからは領地を離れ、父祖の地でゆっくりしたい〜 という願望の表れだったのかも(笑)。

廟所は西廟所と東廟所に分かれ、西廟所には深溝松平家1〜5代と11代当主、東廟所には6〜10代、12〜19代当主の霊廟があります。

先に触れた初代~4代まではひとまとめ。まあ5代で大名になったのだから。それ以降の藩主の墓は東廟所ですが、11代「悲運の藩主」だけ西廟所の廟にいます。廟の形も歴代とちょっと違う。お疲れ様!ってことでしょうね。

代々の島原藩主の家の葬り方ですが、死ぬと九州島原の「本光寺」で戒名をもらい、船で遺体を愛知の「本光寺」まで運び、仏教の寺に神殿石造りの墓標を建て葬るという、いろいろな意味で珍しい形式です。

東廟所の門

19代当主のお墓が建てられたのは、昭和9年・・・今も連綿と続いているようです。

幸田町指定文化財として家忠・忠利・忠一像、京洛諸国名所図、梵鐘、春日曼荼羅図が指定されています。あとの見どころは本堂と庫裏かなあ。

本堂と庫裏   鐘楼も見えてますね。

写真ではわからないですね・・・。この建物、本堂と庫裏が完全一体型の建物となっています。一つの建物の左側が本堂、右側が庫裏と建物内部を二つに分けた形になっているんです。

お寺の場合、普通はそれぞれ建物を分け、渡廊下等でつなぐ形が多いと思います。

あんまり見ない形式だと思いますけど、建築的にはシンプルで、雨漏りの原因になりやすい、「つなぎ目」も発生しない、合理的でよい建物だと思います。見栄えとかはどうだか知らんけど。

5代松平忠利の廟「肖影堂」