書評 「太平記読み」の時代

若尾政希「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構想 を読みました。 この本、何かの書評で見つけて長らく積読になってたのですが(読みにくいんで・・・)、 実に面白かった!

まず「太平記読み」って言葉がなじみ無いす。これは「太平記」を詠む という意味ではありません。この本では、太平記に出てくる人物や事件を批判・討論した「太平記評判秘伝理尽抄」を講釈すること と定義しています。

「太平記評判秘伝理尽抄」って、この本を読む限り太平記を換骨奪胎したケシカラヌ本。私の印象としましては、この本の著者はマキャベリあるいは韓非子でしょう。つまり「為政者読むべし、庶民読むべからず」タイトル通り「秘伝」にすべき危険思想本でございました。なにせ「理尽抄」の要点は「武略の要術・治国の道」を説くってんだから(笑)。「太平記」って軍記物だぜ? (例をあげると、「太平記」では名将の楠木正成。「理尽抄」では名将かつ理想の為政者として描かれます)

この時代、宗教の持つ権力って大きく、政治とも複雑につるんでおりました。桓武天皇は一説に奈良仏教と縁を切りたくて平安京に遷都したんですが、やっぱりつかまっちゃったのね。この本の言葉でそれを表すと「仏法王法相依論」というらしいです。

比叡山の僧兵って聞いたことあるでしょ?この人たち、何か気に食わぬことがあると神輿を担いで都に雪崩れ込み(強訴)、時の権力者白河上皇(こいつも相当なタヌキジジイ!)が「ワシでもどうしようもないものが三つあってな、賀茂川の水、双六の賽、山法師」と。「あいつら手に負えんけど、宗教には手ぇ出せんわ」 っちゅうのが中世。

で、マキャベリ「理尽抄」はこう言うのだ。

あいつら学問もせん、くそ坊主や。世俗権力(足利尊氏)はあいつらタタキ殺して、学問に励む学僧に寺を取り戻さなアカン。

そう書いてあるんだよぉ。ちょっと関西弁で意訳しただけ。・・・ じゃあマキャベリさん、あんた宗教や学問、主従関係についてどう考えてるの?

領主は法に依って国を治める。だが法による強制だけでは、民は道を知らないので、ここに宗教の出番がある。僧は民衆に対する教化・教導を行い民に道を教え、領主の治国を補佐するもの。だから領主は「神も仏もないわ!」と言ってはいけない。後世を願い神仏を崇めなければいけない。これは民に道を教える方便なんだから!だけどね、この「方便」ってこと、愚かな者に講釈すれば悪影響が出ちゃうから、人物を見極めて講釈するんだよ。

儒学、神道や仏教だって世渡りの道具にすぎん。ぶっちゃけ聖人や釈迦すらも功利主義を免れんのじゃ。学問や宗教で私欲の心を根絶するのは不可能。修己は「世のため人のため、国を利するため」行為することを通じてのみ可能。そのように導くのが儒仏神の学問。学問の目的は人情に通じ、それらを戦場では相応の謀(ハカリゴト)として、政治においては相応の治国として現実に生かすこと。

が、誉れ高い学者が必ずしも有能な為政者ではない。そういう人たちは世の動きや人心の機微に疎い事が多い。だからそれらは読み書きを聞くために養いおけばよろしい。これが「器によって人を使うってことだ!」

主従ってのは功利的なもん。主君と家来は恩と忠で、領主と民は撫民と年貢の関係なのね。あと、それより上位に「国(あるいは天道)」みたいな概念があって、主君も家来も領主も民も、それに忠を尽くさないかんのじゃ

まじすか~?。マジ。要約して桃尻語訳してるけど、そう書いてあるんだよぉ。ここにあるのは政教分離論であり、仏教なんて治国の方便だもんね って言う超近代的合理思考じゃないすか。

実際に 織田信長の比叡山焼き討ち、石山本願寺(一向宗)との血みどろの戦い、徳川家康においては三河一向一揆との戦いを経て、寺院諸法度や寺請制度で政教分離と宗教が政治の元に置かれるようになり、支配地も「一所懸命」から「藩は公器、法人。」と見るように変わっていったんだよね。(司馬遼太郎「この国のかたち」1 「藩の変化」)

が、思想として主従を露骨に功利的に捉えるってのは、まあ時代的はちょいまずいね。本でも

朱子学者曰く「主従関係は功利ではない!「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」を自覚するのが、真の武士、またそれを自覚するために学問をするのじゃ! って反論してるもん。

これが幕府推薦の朱子学(支配者に都合がよい)。大っぴらに言うと睨まれますわ。

まあ、これらの思想が、山鹿素行や熊沢蕃山、安藤昌益につながり、発展していき、また金沢藩(前田綱紀)や岡山藩(池田光政)の治世に影響したということが論説してあります。ふむふむ。

そうか、この思想が池田光政(幼名「新太郎」)に影響したのね。

以下私の妄想。根拠なし。

池田光政は、江戸初期の名君の一人です。 祖父は姫路城を築いた池田輝政。が、二代目の父親が早くに亡くなり、幼少の新太郎君が三代目を継ぎます。でも幕府「幼君では要衝姫路は任せられん!交換!」と10万石減らされて鳥取に配置換え(のち岡山へ)。 「俺が幼かったから、領地減って家臣が苦しむんだ」と新太郎少年は苦しんだ・・・かまでは分かりませんが、学問に励みかつ悩み、やがて名君と呼ばれるようになります。

もちろん名君として「撫民」を掲げ善政を敷き、閑谷学校を造り後世に観光地として残したり(笑。江戸初期に藩校造る、それも武士以外も可って珍しい。)するのですが、一方で寺院整理したり、不受不施派弾圧したり、朱子学でなく陽明学や心学を学び、幕府に睨まれたり(一時期謀反とのうわさも)、当時としてはラディカルでヤバいことしとる。  参考wikiと「少年少女人物日本の歴史 18 大名の生活」

これ、陽明学や心学、熊沢蕃山の影響って言われてますけど、僕は早くに父親を亡くした新太郎少年が、その時邪道を学んだんじゃね?」って思ってたです。彼の政策のある部分はかなりイッちゃってる。 ほら、三つ子の魂百までって言うでしょ。

陽明学だってヤバい面があるそうですが、まず朱子学を極めた者にしか教えちゃダメ ってのがお作法だったみたいですし、大人になって学んでそこまでラディカルにならんしょ・・・

でも、この本を若いころに読んでいたとするなら・・・こうなるかも!って納得した次第。

百姓伝記「防水集」を全文訳(意訳)しました。

ファイルを添付するので、ご自由にお使いください。原文は岩波文庫版で確認してください。間違いがあったら、コメントで指摘いただけたらありがたいです。(修正します)

防水集ver-2

pdf防水集ver-2

意味が取れないところもありましたが、力業で訳した意訳です。また原本は目録と章立てが一致していないのですが、読みやすいよう適当に合わせ、ページを振りました。

翻訳の背景

江戸時代の農書「百姓伝記」の第七巻は、「防水集」と言って、江戸時代の治水本です。なんで農業書におさめられているかと言えば、明治に内務省や県ができる前は、治水利水工事は民間(百姓)主体でやってた部分も大きいからです。水防は今でもそうです(水防団)。

最近,、河川工学の分野では、この本に書かれた治水思想が注目されています(例えば 大熊孝「洪水と治水の河川史」水害の制圧から受容へ

明治以来、日本は莫大な費用をかけて堤防を整備し、江戸時代より格段に安全度が高まっています。それなのに、なんで現代、江戸時代の治水が注目されるのか?
それは、日本の治水事業が、その方向性が大きく変える転換期だからです。まあこの流れは治水に限らず、「想定外」を扱うリスク管理や防災事業にも言えるのですが。

転換前の治水思想は「まず想定規模内の洪水をハード設備で防ぐよう頑張る。そのうえで徐々に想定規模を高め、最終的に安全を確保していく。」というものでした。逆に言えば想定内の堤防を造ることに追われ、「想定外」まで真剣に考える余裕はなかった。とも言えます。

それが、ある程度の堤防整備ができたこと、「線上降水帯」型豪雨の多発など降雨形態の変化による洪水被害の頻発などの理由から「想定外」に真剣に向き合う必要性が出てきたという事です。

もっとも、それは十年以上昔から指摘されてきたことでした。2005年あたりから「ある程度の規模までの水害はハード対策で制圧するけど、それを越えた洪水はソフト対策で被害を最小化する」という方向性は出ていました。

けどこの思想、理論的に正しくても、実施はなかなか困難な一面があったのです。しかしもうやらざるを得ない実施段階に来たというのが実態ではないかと。(詳細は補足※)
そこでこの本の出番というわけ。なにしろ重機もトラックもない時代の治水ですから、「想定外」事例も豊富。事例を踏まえた身もふたもないホンネの治水術の書かれてるんです。

でもネット上に全文現代語訳は落ちてないようなので訳してみました。

もちろん江戸時代の「筆書きずらずら文」なんて読めません。、それを現代仮名遣いに直したものが岩波文庫から「百姓伝記」(絶版)で発行されており、そこから現代文に訳したわけです。

ちなみに、この岩波文庫の底本は、僕が住んでいる西尾市の岩瀬文庫に収蔵されています。(岩瀬文庫に行くと、原本が無料で閲覧できます。ちゃんと拝んで来ました。)たまたま自分も退職前は河川管理をやってたので、この本、暇になった僕に翻訳してもらうの待ってたんじゃ(笑)?って。 ほんの40ページくらいですけど、いやあ、翻訳家って大変だね・・・

全体を通して、その技術力の高さに驚きました。補足すればかなりの部分は現代の河川工学の教科書として十分使えんじゃね?まあ中には「竜の昇天。対策は前触れの黒カモを追払うこと」とか笑っちゃう部分もあるけれど。(これは文字通り「竜巻」を描いています。)

前書きが長くなっちゃいました。読んでて面白いところを少し紹介します。

「水防のこと」P26   洪水の時は「上流から大量に流木が流れ、橋が倒されて氾濫しちゃうぞ」これって九州北部豪雨災害でありましたよね。じゃあ江戸時代はどうしたのか?この章は川沿いに暮らすなら、知識として知っておくと良いと思うなあ。

「大河川の築堤について」P3    大河川の堤防は二重堤防にして、間は「流れ田地」にして、大洪水の時はそこを遊水地にしなさい。  理論上その通り。なんですけど、実際は市街地にそんな土地は残さず利用したいですよねぇ。このあたりだと豊川の霞堤(実質遊水地)がまさにこれに当たりますね。あと、堤防の土質を議論してるのも注目。

「澪止め堤防の築堤について」P6  沈埋式瀬止め堤防の造り方 これは技術的に面白いとお思う。

「三河矢作川の瀬替えについて」P10  ここに書いてある内容は、西尾市史にも転記されているのだけど、読んだらもっと詳しいこと書いてあるんじゃね? 残念。当時でも「堰止め工法を記憶している地元民がおらず、その内容は記載できない」そうです。残念

「治水の心得」P16

・地図に堤防の長さ、治水施設の位置を記しておき、予め水防担当村と人数を決めておくことなど、水防のことがきっちり書かれています。

・「ご当家は幕府奉行なんだから・・・」との記載あり。作者不詳だけど、特定する手がかりじゃないかな

「水防のこと」P26
・水防の教科書
・万一の際、「最も被害が小さくなる場所で積極的に堤防を切る」究極の水防工法について。
・竜昇天の話

※長い補足。この本には、水防の最終工法として「最も被害が小さくなる場所で積極的に堤防を切れ」「役人はその場所をあらかじめ造って準備しとけ」って書かれています。これが洪水を受容する究極の形だし、理論上それしか解はないと思います。が、現実問題として実施する役所としても、その地域の人たちも、受け入れは困難ですよね? もうすでに歩みは始まっているけど、どこへどのように着地させればいいんだろう?

下の記事、書かれた年にも注目!

(2006年)あふれさせる治水へ、住宅周囲に堤 国交省方針
明治以来の河川改修は、下流から上流へ続く堤防を築き、堤防で洪水を防げなければ、ダムを造るのが基本。多額の費用と時間がかかるため、中上流域の整備は遅れがちで、各地で浸水被害が繰り返されてきた。
一昨年、全国で大規模な水害が相次いだことから、国交省は昨年から洪水の「封じ込め」から「減災」へと治水政策を転換。新制度はこうした考えに基づく。
一方、治水上の安全度の「格差」が固定化する可能性があることから、不安視する農村部選出の与野党議員らの抵抗も予想されるなど新法制定への障害も少なくない。
国交省は「流域すべてを洪水から守る目標を捨てるわけではないが、完全な改修には時間がかかる。氾濫が頻発する農村部では、あふれるのを前提とした治水を一つの手法として採り入れたい」としている。

(2016年)「決壊しない堤防はない」鬼怒川で河川事務所長ー「粘り強い堤防論」の新たな始まり
「この堤防では決壊しますよ」と指摘する声に、国土交通省関東地方整備局の里村真吾・下館河川事務所長は、「決壊しない堤防はありません。もちろん決壊しないよう、堤防を高くし、河床を掘り下げますが、計画を超える大きな水が来れば堤防は決壊します」と断言した。
5月28日土曜日の朝から行われた茨城県常総市若宮戸の築堤工事見学会の席である。
昨年9月の「関東・東北豪雨」以前には見られなかった議論である。「決壊する」と語気を強めた石崎勝義さんは河川官僚のOBであり、両者の応酬はある意味、画期的なのである。

河川官僚OBが「堤防は決壊」する、現役官僚が「決壊しない堤防はありません」と回答しているのである。しかも、鬼怒川溢水で被災させられた地権者や住民向けの築堤見学後の質疑でである。

上記の記事にもありますが、明治以降の河川工事では、「溢れさせない」こと。理念としてどこも「平等」にある程度の安全度を確保することを重んじてきたわけです。(もちろん例外だらけでしょうが、思想として)

全国に三百近い藩が分立していた時代には調整が困難で実施できなかった大規模治水も、強力な中央政府があれば実施できます。これは明治維新の恩恵です。

その理想を「現実として困難」と認めてしまうことは、裏を返せば、地域により安全度の「格差」が表面化することでもあります。極端な話、「こちらを守るため、あんた泣いてくれ」ってことですから。実施側も、受け入れる側も、幻想だとわかっていても、みんな「平等」を信じていたいですよね。
治水でも、原発問題でもそうなんですが、「想定外を考えていなかった。」「安全神話に囚われていた。」という言葉の行間に、こういう側面もあったことは事実でしょう。だから免責されるものではないですけど、まあ共同幻想として。

あの事故以来「想定外」をマジで考えだしたことはもちろん良いことなんですが、なんでいままでそれが封印されてきたのか という点も(見たくないけど)しっかり考えておくことが大事だと思います。

幻想論であれば、実施側だけに責任押し付けることもできたんですが、マジ論では、受け入れる側もどこかで血を流す必要が出てくるから です。