干支の話

えーと、長い冬休みを取ってました。僕、毎日休みなんですが、それでもブログを更新しない・・・いかに人間は堕落しやすいかのお手本みたいですね。ここで思い浮かぶのは・・・故人曰く「小人閑居して不善を為す。※」

ま、まだ悪に染まってはいませんけど・・・とすがる様に、何か都合の良い続語がないかネットでことわざを引いてはみましたが。

【英語】By doing nothing we learn to do ill.(何もしないでいる人は悪事をはたらくようになる)
【用例】 「小人閑居して不善をなすと言うが、仕事をやめてからというもの彼は毎日競馬場通いをしている。いずれ身を滅ぼすだろうね」    故事ことわざ大辞典

げに恐ろしかことが書かてありもんそ。そういや、西郷どんの言葉にも、こんなのがごわした。「児孫のために美田を買わず」

よい田地を買うなどして財産を残せば、子孫は仕事もせずにのんきな生活を送ることになり、かえって子孫のためにはよくないことから。

ふ、ふーん! 家の畑で野菜造り楽しんでるけど、美田じゃないもんね!!!

閑話休題。

干支って言うと、年賀状でおなじみの「えと」と読み「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二支の意味で知られていることが多いですね。ことしは「戌」つまり戌年ですわなあ。おかげで犬山市が注目されてるわけで。

ですけど、本来干支は「かんし」と読み、「十干」と「十二支」を組み合わせた60を周期とする数詞 なんだそうです。 (wiki「干支」を読んでな。)

十干とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類。

昔は順番を表すのに、「甲・乙・丙・丁・・・」って使ってました。(軍艦マニアの僕がパッと思い浮かぶ用法は、巡潜甲型、巡潜乙型、巡潜丙型、輸送用丁型とかですねえ。)

横道にそれては遺憾。組み合わせは12×10で120周期でないとおかしくない? 僕も思ったんですけど、こう使うそうな。

甲子(1)、乙丑(2)、丙寅(3)、丁卯(4)・・・ときて、十干の終わる癸酉(10)の続きは、甲戌(11)に跳び、また続いていくわけですな。だから「甲丑」ってのは存在しないわけ。60ありきのような気もしますけど、これが決まりですから(笑)。

こうしてみると、いくつか知ってる単語が出てきます。

5番目の「戊辰」・・・戊辰戦争と言えば、新政府(明治政府)軍と旧幕府軍が戦った内乱ですが、この名称は戦いのあった慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったからです。

9番目「壬申」・・・壬申の乱ですね。天智天皇の息子と天智天皇の弟が、次の皇位を争った内乱。この時は弟が勝ちましたな。弟が勝って天武天皇になります。天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたります。

おうおう、日本の内戦は干支で呼ぶことになってるのか!ちなみに、明治十年の西南戦争を、鹿児島では丁丑戦とも呼ぶそうです。明治元年が5番目の戊辰だから、10年後の干支は14番目の丁丑でぴったりですな。

 

それから、各地で「庚申」とか「甲子」と書かれた石碑を目にすることがありませんか?

庚申の日は、人間の体内にいるという三尸虫(さんしのむし)が、人が寝ている間に天帝にその人の悪事を報告しに行くこと防ぐため、夜通し眠らないで天帝を祀って宴会などをする風習がありました。

甲子の日は、子の刻(午前零時頃)まで起きていて大黒天をまつる風習だそうです。

いずれも講(あつまり)を造ってやっていたのですが、60年に一度「庚申」の年、「甲子」の年がやってきますので、そのタイミングで、石碑を建てることもあったようですね。

何せ、人間五十年(信長の好きな敦盛の唄)の時代に、干支が一回りする60年間生きて「還暦」を迎えられるのはめでたい事だったはずです。その人が語る60年前の話は、自分に直接繋がる話ですから、「我々が安穏に暮らせるのも、ご先祖だか、神様のおかげだべ。石碑ぐらい立てるか~」って思ったのかもしれませんな。

20年近く前に「20世紀がおわり新世紀(millennium)が来る」ことを祝ってる人たちがいましたが、前の100年期が終わり、新しい100年期が来る・・・なんてどう祝っていいかあんまり実感ないですよね。(おおざっぱに明治元年が今から150年前。)

それに比べると「新干支」を迎えるってのは、はるかに我々の身の丈にあった、実感のある慶事だったのではないでしょうか。

 

干支は中国からやってきているので、かの国でももちろん使われています。歴史上身近なのは、三国志の時代。黄巾の乱のスローガンですな。

時の政権(漢王朝)の転覆を目的に武装蜂起した張角のスローガンは「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)です。スローガンは長いんで、役所の門などに「甲子」の二文字を書いて呼びかけた。そうな。(wiki黄巾の乱)

このスローガンは、「易姓革命(漢朝が死に、新たな王朝が始まる)」+「五行思想(シンボルカラー青が滅び黄が起こる)」を主体に訴えていますが、ちょうどよく西暦184年が甲子の年だったんで、蜂起してかっこいいスローガンを掲げるにはちょうど良かったんだな。この年、劉備は関羽、張飛等と義勇軍を結成し、KOEI「三国志」の幕が開けるのであります。いや、吉川英治でもいいんだけど(笑)。

まだ日本は弥生時代だけどね。 女王卑弥呼の使節が、238年に魏国(曹操が建国)に使いし、帝から「親魏倭王」に任じられました。

俗にいう魏史倭人伝は、 中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称です。

 

あと、十二支は、方位を示したり、時刻を示すのに使われますね。

船の操作をするとき、「とりかじ」「おもかじ」って言いますけど、あれは「酉舵」「卯の舵」がなまったもの。

「草木も眠る丑三時」と言えば、キョンシーや幽霊が跋扈する時間。良い子は外で遊んでちゃいけません。

丑の刻は午前2時を中心とする約2時間。「丑三」(うしみつ)は、丑の刻を4分し、その第3に相当する時、すなわち、午前2時頃から午前2時30分頃まで

 

 

 

 

 

 

※出典は「大学」っちゅう本のようです。じゃあ「小人」の対語である「君子」はどうなのかというと、「其の独りを慎む」・・・他人が見ていない場合でも言動を慎み、みずからを欺かないようにする そうです。

尾張の武将なのに、なせ織田「上総介」信長って言うの?

要点

  1. 信長は「上総介」という官職を自称していた。ドラマに取り上げられやすい「桶狭間の合戦」(VS今川義元)の時代と重なり、ドラマなどで上総介信長と登場してくることが多い
  2. 「上総介」は今の千葉県あたりにあった「上総国」の副知事職。知事は「上総守」だけど、上総守は皇族が任命される名誉知事職なので、副知事の上総介が実質的な知事に相当し、皇族を担いでいる分国なので、上野介は、他の知事職(○○守)と同等かむしろ格上という見方もあった。
  3. 信長が「上総介」を名乗ったころは、まだ尾張国を統一していなかったので、「尾張守」は名乗れなかったと思う。でも遠くにある関係ない国の副知事職なら、名乗ってもとりあえず近隣諸国からクレームは来ないだろう。
  4. のちに「尾張国」を統一し、知事職である「尾張守」を自称していた時期もある。けど、次々新しい領土を獲得し、新しい職名を名乗っているので、僕らは尾張守信長 や 三介信長 にはなじみが薄い
  5. 歴史を遡ると、室町時代の「上総介」に吉良氏の先祖が何人か就いている。その時代の吉良氏は三河国守護だった。でも戦国時代には勢力が衰え、吉良氏分家の今川氏が本家を抑え三河国を支配。 織田氏と今川氏はたびたび戦を交えており、信長の初陣も三河にいた今川氏を相手に戦った。 信長は今川への対抗上、三河を攻める理由付けとして、吉良氏の先祖も任命された「上総介」を名乗り、人々の記憶にある「上総介」ってそういや・・・ というPR効果を狙ったのではないか?

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信長の出身は尾張国だから、「尾張守」を名乗るなら意味わかるんだけど、どうして上総国(千葉県の一部)、しかも「守」じゃなくて「介」って?

と質問を受けました。なかなか興味深い質問です。僕なりのお答えはこちら。

信長が上総介を名乗ったのは、天文18年(1549)年、信長16歳で、斎藤道三の娘濃姫と結婚した前後からと言われています。

当時、官位は朝廷に任命される正式なものと、「私称」するものとがあったのですが、信長の「上総介」は後者。勝手に名乗っちゃう。

このころ、信長の父である織田信秀は存命しています(ただし晩年)。トウチャンは応仁の乱で焼けた御所の築地塀に破格の大金を献上したりして朝廷の覚えもめでたく、「弾正忠」という官位を朝廷に任命されていました※。

とすると、息子である信長も、父の死後弾正忠を金で買えばいいんじゃね?それはしていません。のちの永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて上洛した際(35歳)に、正式に「従五位下弾正小忠」に任命されるまでは、「上総介」→「三介」→「尾張守」を私称します。

信秀・信長の家は、当時有数の貿易港である津島を抑えており、官位を買う金は十分ありました。ただ官位をもらうには若すぎたかも。さらに商才をもち合理的な信長は、官職を買うのに大金を使うより、その金を軍備に回して早く尾張一国を統一したいと思ってたんだと思います。

つまり「上総介」を名乗った時点では、尾張国を統一しておらず、尾張国国主である「尾張守」は、さすがに名乗れんのです。

じゃあ、なんで「上総国」を選んだんだよー。

うー。

当時の信長(あるいは信秀)の野望は尾張統一ですが、敵は織田一族だけじゃありません。北の斎藤道三は、娘を嫁にもらってとりあえず抑え、最大の外敵は東の今川氏です。

信長君の初陣は、この今川軍の最前線に侵入して放火して無事帰ること。風の強い日に三河の国の吉良と大浜に侵入して放火! 軍勢は800くらいで、当時今川駐屯軍が3000くらいいたそう。放火して、幡豆の山中に野営して追撃する今川勢をやり過ごし、翌日無事に那古野城へ帰ったそうです。

『信長公記』

織田三郎信長御武者始として、平手中務丞、其時の仕立、
くれなゐ筋のづきん・はをり、馬よろひ出立にて、
駿河より人数入置き候三州の内吉良大浜へお手遣、所々放火候て、
其日は野陣を懸けさせられ、次日那古野に至りて御帰陣。

元々三河の守護は吉良氏だったんですけど内部抗争して弱体化。駿河・遠州の守護だった吉良氏の分家の今川氏が戦国大名として勢力を伸ばしていたんですな。

で、この吉良氏は足利長氏が吉良氏初代でを名乗り、以降吉良満氏、吉良貞義・・・と続いていくんですけど、この三代が皆「上総介」に任じられているんですな。

ここから先は想像ですけど、信長・信秀は「上総介」を名乗ることで、次のようなと選挙公約を打ったと思うんです。

「昔三河国を治めてたのは吉良氏でしたよ。今は今川氏が治めているけど、分家に治められるなんて面白くないでしょ。それだったら、対抗馬として織田氏を支持しませんか?織田氏は吉良氏ご先祖の官位を名乗ってるくらいですから、吉良氏への配慮を忘れませんよ!!」

まあ、いろいろあって、三河国は同盟者の家康君が領有することになって公約は守られなかったけど(笑)。それでもPR効果を狙うため、みんな公約を掲げますよね。

それからね、なんで「上総守」じゃなかったか。律令国家の分国の行政官として中央政府から派遣される役人は、上から「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」とありました。

上総国で一番偉いのはもちろん「上総守」なんだけど、律令国家体制ができたとき、上総国は、常陸国・上野国とともに大国に指定されました。しかもこの三国は、皇族が国司を務める国(親王が国司を務める親王任国)とされました。もちろん皇族がはるばる東国の任地に赴くことはなく(遙任といいます)、国府の実質的な長官は「上総介」だったのです。だから、上野介、常陸介、上野介は、他分国の守(かみ)と同等か、むしろ皇族を担ぐ分国だから格上 と見なされたのです。

この3国の北は陸奥国。あるいは「みちのく」(東山の最の国)で、時によって鎮守府が置かれたりする特異な国です。続く3国は辺境の重要国だったんですね。だから天皇の息子「親王」が治める大国に分類されたのです。

西洋で言う、辺境伯のような概念だね。(wiki)

元来はフランク王国が、国境付近に防備の必要上置いた軍事地区(マルク(Mark):辺境地区、辺境伯領)の指揮官として設けられた地方長官の名称である。異民族と接しているため、他の地方長官よりも広大な領域と大きな権限が与えられており、一般の地方長官である伯(Graf, count)よりも高い地位にある役職とみなされていた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた (wiki 親王任国)

基本的に官位相当は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。(wiki 国司)

ってことで、大国の介は同格なんだけど、名前は国主じゃなく次官ですから、まだ尾張国を統一していない信長さんには、適当な肩書じゃないでしょうか。

(最初はこの慣習を知らなくて、「上総守」って書いた書状も残っているそうです。そのうち間違いに気づいて「上総介」に降格しました(笑))

ついでに。忠臣蔵で悪役として描かれる、吉良義央は、一国を治めることもできる「大名」より小さな旗本(三千石級)ながら、「従四位上・左近衛権少将、上野介」に任じられています。普通の大名の官位は頑張って従四位下ですからそれを超えたうえに、実質国主格。そりゃ得意満面。「浅野家なんて目じゃないわ」と思っても仕方なかったのかもしれませんなぁ。

閑話休題。その後の信長君は、尾張の国を統一してからは尾張守を私称。岐阜を手に入れたら三介。これは正規の官職じゃないと思うけど(偉くなさそう)、意味はわかりますね。そう、先ほどの親王任国「三国」の「介」兼務っていう意味で、一国の国主を超えてることを表してます。

後日訂正。順序としては、上総介→三介→尾張守のようです。また上総介と尾張守はほぼ確実ですが、三介を名乗ったかどうかはやや怪しい。 すいません。

ちなみに家康は、永禄9年(1566年)三河国を統一し、朝廷から従五位下三河守に任じられ、同時に「徳川」に改姓しました。 その時信長は尾張守を私称。永禄11年(1568)に「従五位下弾正小忠」に任ぜられるまで、官位の上では家康が優位に立ちます。しかし力関係はご存知の通り。 官位と実力はそんな関係でございました。

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※朝廷側からすると勤皇ですが、信秀側としては、「権威からのお墨付き」が欲しかったんだと思います。

当時の尾張国は、守護として「斯波氏」(足利一門・三管領を務められる名門)がおり、その下の「守護代」として織田氏がいました。もっとも守護は名目だけであんまり実権力はありません。その下の守護代織田家は分裂しており、織田伊勢守家が尾張八郡のうち上四郡を、織田大和守家(ともに私称)が下四郡を支配する構造でした。

織田信秀は大和守家の分家で、大和守の家老にすぎなかったのですが、武力をもって事実上尾張下四郡を治めてたんです。ただし統治の正当性には欠けるんで、ちゃんとした官位をもって権威づけしたかったんだと思います。「俺は私称じゃないちゃんとした官位がある身分だぜ!」

あ、でも「弾正忠」って中央政府の役人で、地方に派遣された役人じゃないのよね。地方である尾張で、どの程度キキメがあったのかねえ?