比叡山  横断

テント泊で山登りに行くつもりが、悪天候のため、京都泊のうえ、比叡山見物と変更になりました!

京都から、公共機関で比叡山に行くには、①京都北部「八瀬」からロープウエイで行く方法②滋賀県は琵琶湖畔「坂本」からロープウエイで行く方法③京都駅からシャトルバスで「山中越え」を通って行く方法  の3つが考えられます。 もちろん、乗り換えのない③が1番楽な方法です。

山と水と光の廻廊<比叡山・びわ湖>
交通検索(電車・バスでお越しの方)

我々も③の手段で行く予定でしたが、前日の豪雨で山中越えにて土砂崩れが発生し、バスは運休になりました。  

どうせなら  ということで、琵琶湖畔の坂本ロープウエイで登って、京都側の八瀬ロープウエイで下るルートを取ることにしました。まあモノ好き以外の何物でもありませんが、こういうのって好きなのよね。

坂本までは、京阪電鉄 石山坂本線  で向かいます。一両編成の小さな電車が、いくつもの無人駅を進んでいきます。  大津は大都市なのだけれど、それから北部は寂れていますなあ。(でも、結構人家はあるのだけれど)

終点・坂本比叡山口駅をおりると、そこは寺社街。比叡山延暦寺に属する僧侶は、山の上で修行生活をするわけですが、山の上はいろいろ厳しい生活です。そこで、修行を終えた僧侶は、里である坂本で隠居生活を送ったのです。通りには、そのための僧坊が立ち並んでいます。

坂本は大津市北部にある地域である。日吉大社参道の両側には比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が並び、穴太衆積み(穴太積みとも)と呼ばれる石垣が街路を形成している。戦国時代には三好長慶に敗れた室町幕府12代将軍足利義晴・13代将軍足利義輝と細川晴元らが都落ちしてこの地に逃れ(後に朽木村へ移動)、安土桃山時代には明智光秀により坂本城が築城されたが、本能寺の変や続く山崎の戦い後に明智秀満が城に火を放った。

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見どころは日吉大社を筆頭に色々あるんでしょうけど、とにかく石垣が見事。

途中の無人駅に「穴太(あのう)」という駅がありますが、ここの衆が石積みの技術に優れており、それを見込んだ織田信長が安土城の石垣を作らたのが嚆矢となり。その頃作られた城の石垣は、みな穴太衆の指導の元で作られたのです。

穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。

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今回は通過しただけですが、それほど観光客もおらず、今度じっくりと散策してみたい地域でした。

ところで、隠居した僧侶は、なぜ琵琶湖側の坂本に住みつき、京都側の八瀬に住まなかったのでしょうか?  現在の感覚からすると、京都側のほうが都(平安京)に近いですし、色々便利そうに思えるのですが・・・京都側(八瀬)の方の駅は有人駅だしな。

この答えは、おそらく「琵琶湖の存在」が大きかったと思います。  

山の上の比叡山には多くの修行僧やそれを世話する人々が住んでいるのですが、山の上では食料や日用品を生産することができません。 つまり、大消費地である比叡山に、山の下から絶えず大量の物資運び込む必要があったのです。

トラックのない時代、都に近いとは言え、八瀬の山道を運ぶのと、琵琶湖を船で運ぶのと、どちらか運送しやすかったか。考えるまでもありませんね。  てなことで、舟運の拠点として坂本は比叡山の物資輸送の表玄関であり、歩きやすい登山道も整備されていたはず。隠居したとは言え、僧侶は山上とも色々繋がりがあったのだから、坂本に住む方が便利だったのでしょう。

付け加えて、今でこそ八瀬は瑠璃光院や蓮華寺で売り出している観光地  なんですけど、当時は都の人々から「鬼の子孫が住んでる」と思われるくらいの土地(田舎)だったので、隠居できるぐらいの僧侶(貴族階級出身者が多いと思われる)は、住む気になれなかったのかもね。

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡小野郷八瀬庄(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。

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そう言えば、信長の重臣であった明智光秀はこの坂本に居城がありました。(坂本城)その解説を読んでみると・・・やっぱり坂本は、比叡山の物資輸送のための港町として栄えてたんだね。  そこと比叡山を抑えるため、信長は光秀軍団をここに駐屯させたわけ。

比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。・・・元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。

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閑話休題。ロープウエイで登った比叡山からは、大津がよく見えましたよ。湖畔には高層マンション?もいくつか建っています。僕のイメージより、大津って大きな都市だったんだなあ。

大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市。滋賀県の県庁所在地及び最大の都市で、中核市に指定されている。    総人口343,394

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シガケンノケンチョウショザイチガ ドコカ  ソクトウデキルヒトハオオクアリマスマイ・・・

比叡山の中核である、根本中堂(国宝)は修理中で、外見は見ることが出来ません。が、修復工事を見られるのは、興味ある人には面白いかもしれないですね。

こちらは、根本中堂を囲む回廊の屋根の補修を、上から眺めたところ。

屋根は檜皮葺(ヒノキの皮を屋根材とする)かと思っていたので、いっぱい置いてある板材はなんじゃろな?と思っていたら、外に解説がありました。この屋根はとち葺と言い、厚さ24mmのサワラの板で葺くのだそうです。ヒノキとサワラの違いは・・・

ヒノキは山の中腹部より上の乾いた土地に生えるが、サワラは谷筋の湿ったところで育つ。・・・ヒノキよりも水湿に強く、桶やたらいなどの材によく用いられる。

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なるほど、雨の多い場所にはヒノキよりサワラが向いているかもしれないな。てか、比叡山あたりの原環境としては、ヒノキよりサワラが優勢だったかもしれません。  比叡山は乾いた山  っていうより、ジメッとした山っていう感じを受けましたし。

あと、歴史好きが比叡山で見るべきは戒壇院でしょうか。(一応、重文です)

戒壇(かいだん)というのは、奈良時代に正規の僧侶となるため、出家者に戒律を授ける(授戒)ための場所のこと。奈良時代の日本では、正規の僧侶は「戒壇」で授戒せねばなりませんでした(「正規の僧侶」は働いて税金を納める義務がなくなる、ある種の特別職国家公務員なので定員があった)。だから戒壇も国立の3つしかありませんでした。そこに比叡山の戒壇が4つめとしてできた、しかも最初の私立と異例のものだったのです。

当時の寺って、学校の役割も担っていたので、ちょうど1920年にこれまで官立しかなかった旧制大學に、早稲田と慶応が初めて私立として認められたみたいなもんです。やっぱりニューカマーには旧勢力からの軋轢もあったようで・・・人間は進歩しない・・・)

鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)。

これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。しかし、822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもある。

当時は、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、道元禅師の例にもあるように中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認められたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を抱き、両者の対立の原因の一つとなった。

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ちなみに、東大寺と観世音寺にも戒壇が残っています←僕、両方とも見たことあるよ〜。。残念ながら、薬師寺(現在は後継寺院として安国寺)には残っていないようです。

まあ、上層部がそのあたりのしょうもない争い(でも当人たちは必死)を、政治(貴族階級)も巻き込んですげーエネルギーを消費しているうちに、比叡山で真面目に勉強していた僧侶たちの中から、鎌倉仏教と言われる新時代の仏教思想(と勢力)が出てきて、歴史は次の段階へと進んで行きます。

次はこちら。織田信長の比叡山焼き討ち関係

脇の解説によると、犠牲になったのは、山の下から避難してきた千名余と、山の上にいた千名余、合わせて二千名余りだそうです。  このとき、比叡山は徹底的に破壊、焼却されました。ところで・・・となると・・・その時、比叡山で有名な「不滅の法灯」はどうなってたんでしょう?

ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。

比叡山延暦寺  東堂

天文12年(1543年)、山形・立石寺の再建の際、同寺からの要請で分灯。その後、元亀2年(1571年)9月の織田信長の比叡山焼き討ちの際に今度は比叡山の法灯が消えたため、立石寺から再分灯してもらい復活させた。

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「不滅って言いつつ、本尊前の灯明としては一回確実に消えてんじゃん」とか、善男善女は言ってはいけないのです、決して。 (根本中堂内でお坊さんに解説されて、一言言いたかったのをぐっと呑み込んでありがたく拝聴した僕。このことを仏教では「功徳を積んだ」と申します😂) 

帰りまーす。  八瀬ロープウェイでおりると、今度は京都側が眺められます。

京都の町。緑は、左から京都御所、左下が下鴨神社。右側は京都府立植物園ですな。変な形の建物(多分温室)が見えましたので。

☆関連記事  比叡山には、戦争末期、特攻機・桜花のためのカタパルトが設置されていたそうです。

犬山散歩3  (脱線話だらけ)  瑞泉寺

犬山遊園駅の裏に、なにやら立派なお寺が現れました。丘の上(正確には山の中腹)にあるお城のようです。  門もまるで城門ですな。これは見ていかねば。

線路を超えると、大きな石段が現れます。石段はやや荒れているけど、植栽も手入れが行き届いた見事なアプローチです。大樹(くすのき?)が山門を隠してしまっています。にしてもデカい!

山門の写真を取り忘れたけれど、柱が驚くほど太いです。寺には不釣り合いなくらい。どこかの城門を移設したものではないかと。

山門は犬山城内田御門を移したものであるが、この山門は以前は美濃国兼山城の大手門であった。

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うん。戦国時代の城門だと言われれば、納得です。

こちらは中門です。 左側の表札には「専門道場」とあります。禅宗の僧侶を養成する場所ですね。なるほど、修行僧がいるので、庭の手入れをする人手があるんだな(作務)。

右側の碧巌録「提唱」ってどういう意味なんだろ?。最初は「いまの時期は、これを読経しています」という意味だと思ったのですが、碧巌録というのは、お経ではなく禅の公案集ですから、声に出して読む  にはそぐわないでしょうねえ・・・

提唱

禅宗で、大衆に宗旨の大綱を説き示すこと。提綱。

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なるほど。  ここは教育機関なので、「大衆に」というより、「修行僧に」ということでしょうけど、そういう意味なのね。

僧堂を開単したのは、1928年(昭和3年)三島龍沢寺の山本玄峰を拝請した時である

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山本玄峰・・・僧侶としての業績は知りませんが、終戦時の詔勅「耐え難きを耐え、しのぎ難きを忍び」という表現の一端を担った  と言われている方ですな。ま、龍沢寺時代のことだから、瑞泉寺と直接の関係はないんだけれども😂。

八月の確か十二日頃であったと思いますが、朝雨の酷い日に、一人の青年が朝早く龍沢寺を訪ねて来ましてね―その当時、私は玄峰老師の侍者をしておったんですが、「是非玄峰老師に直接お会いしたい」と、そういうものですから、老師のところへ案内をしましたところが、老師は、早速手紙を書き出しましてね、「この人はすぐこれから東京へ帰らんならんから、朝早いけれども、朝飯を食べさしてあげてくれ」そう言って、老師は自分で手紙を―当時大事な手紙は老師は自分で書かれましたが、まあほとんど私や宗淵(そうえん)老師が代筆をしておりましてね。しかし老師は自分で手紙を書かれて、それまであまり自分の手紙を人に見せたことはなかったんですが、老師は、「これは非常に大事な手紙で、もしあまり字が間違ったり、文章の意が届かないと悪いから、お前、一度見直してくれ」と、そう言って私に見せられましてね。それで拝見してみますと、「忍び難きをよく忍び 行じ難きをよく行じ」という言葉がありました。話は前後しますが、これは結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。これが巷間(こうかん)伝えられておるところですね。

忍び難きを忍び―山本玄峰の禅―

閑話休題

本堂の前庭も、きっちり維持されています。枯山水の庭園って美しいんですけど、雑草一つなく維持するには、恐ろしいほどのコスト(人手)がかかるはずです。修行僧によってそれが維持され、我々はそれを無料で拝観できる、ありがたいことです、合掌。

いわく有りげな鐘楼。  背景の小山には、犬山城天守閣が見えています。

鐘楼は明応3年(1494年)建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。

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うう、やっぱりなあ。でも写真を見てもどこに三猿(日光東照宮で有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」のこと)がいるのかわかりません・・・

裏手に、突如そこだけ岩が露出した不思議な一角があります。  岩山の上は門と塀に囲まれています・・・門の先(進入禁止)には小さな池があります。その奥には、写真に写っている「窓の大きな展望室のような建物」とそれに連なる建物群が。だいぶ荒れていますが瀟洒で、寺院建築っぽくはないです。昔は宿坊でもあったのでしょうか?

池はこれでしょうね。

犬山たび  物語の巻  犬山市文化遺産活用実行委員会

地図を見ると、寺のある山が犬山の町から東にあるから、「青龍」山(青龍は四神の一つで、東を示す)という見方もできそうですが、それはそれで・・・あ、東の青龍は、流水を意味するそうだから違うか、失礼しました。

地相からみて、天の四神に応じた最良の土地柄。すなわち、左方(東)は青龍にふさわしい流水、右方(西)は白虎の大道、前方(南)は朱雀の汚地(おち)(=くぼんだ湿地)、後方(北)は玄武の丘陵を有すること。官位・福祿・無病・長寿を合わせ持つ地相で、日本の平安京の地勢はこれにあたるという。四地相応。

コトバンク  四神相応

先程の岩山?から続く階段をのぼると、寺の裏手の山にある墓地群に出ます。いい眺めです。

中央に流れるのが木曽川(右から左に流れる)です。見にくいですが、左上の川に突き出た丘(山ではない)に築かれたのが犬山城。  攻めにくい要害であるとともに、木曽川を監視できる位置にあることがわかります。

にしても、凄まじい数の墓石ですね。このあたりのお寺は、瑞泉寺の塔頭が多く、それらの共同墓地みたいな感じになっているのです。永代供養墓(宗派問わず)も売ってましたよ。この風景を眺めながら永眠  というのも悪くありません。

写真には写っていませんが、右側の鉄橋を渡った対岸の丘に鵜沼城という城跡もあります。犬山城と対で、当時の交通の大動脈である木曽川を上り下りする船をバッチリ抑えられます。

と思い出すのが、ドイツのライン川下りですな(強引)。あそこも川を使った輸送が盛んで、領主が通行税を取るためにボコボコ城を作ったのが観光施設として残っています。小領主が乱立していた  という面もあるけれど。

ライン川のクルーズ船はマインツからケルンまで約185kmを往復しています。でも、一番のおすすめはリューデスハイムから乗船し、ビンゲン・アム・ライン~コブレンツ間の「ライン渓谷中流上部」を下る、直行すると約1時間40分のルート。古城はもちろん、「ローレライ」「ラインの大蛇行」「ドイツの角」と、ライン川を代表する見所のつまったコースです。
ビンゲン・アム・ラインを出発してまもなく、左側に見えてくるラインシュタイン城はライン川で最も美しいとされる古城のひとつ。13世紀後半にライン川の通行料を徴収するために建造されました。その後戦乱による破壊と修復を繰り返し、19世紀にはプロイセン王国によって復元され、王族が夏に滞在したといわれています。現在は、ホテルとして宿泊でき、なんと結婚式を挙げることもできます。

ドイツ世界遺産を縦断!ライン川クルーズで古城巡り    ANA

それもあって?  このあたりの木曽川の峡谷は、日本ライン  と呼ばれています。

日本ライン(にほんライン)とは、岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川沿岸の峡谷の別称。 風景がヨーロッパ中部を流れるライン川に似ていることから、1913年に志賀重昂によって命名された。

日本ライン

志賀 重昂は、大正から昭和初期の地理学者です。  愛知県岡崎市出身。攻玉社を経て札幌農学校卒。海軍兵学校の練習船に便乗して世界を巡りました。著書「日本風景論」で有名です。他に雑誌「日本人」を発行。wiki

明治の大ベストセラー。明治期の地理学者による、日本を地理学的に解説した初期の書籍であり、詩情豊かな文章でこの国の風土を讃えるものです。科学的・実証的な論述でありながら、日本文学の古典を豊富に引用し、明治画壇きっての名手である樋畑雪湖・海老名明四の挿画とあいまって、日本の自然の美しさを述べた古典的名著です。日本人の景観意識に重要な変革を与えた記念碑的作品です。

(講談社学術文庫)

日本風景論、講談社学術文庫で発行されています。決して読みやすい本ではありませんが、風景論?で有名な和辻哲郎の「風土」と比べると(こちらは日本と海外との比較論ですから比較は難しいけれど)、和辻が哲学者、志賀が地理学者というベースの違いもあり、理系の人にはこちらのほうが興味深いかもしれないです。もっとも、時代的な素養もあり、かなり古典も引用した漢文調ではあります。

この人、登山もお好きだったようで、火山が日本の風景を形作った要因の一つだとして、日本全国の主要な火山に言及されていますし(当時の知識水準において)、登山ガイドやら「登山の気風を興作べし」という一文も付録されています。

解説によれば、小川琢治☆は「進化せる名所図会」と評価していたそうです。一読した感じでは、「言い得て妙」だと思います。    

☆日本の著名な地質・地理学者。日本人でノーベル賞受賞第一号の物理学者・湯川秀樹の父親。

と、ところで(脱線しまくり)、瑞泉寺には非公開だけど何点か寺宝があり、その中に「血達磨図」というのがあります。

犬山市

名前に引っかかって調べてみたのですが・・・(「達磨図」は珍しくないけど「血」達磨となると)足利氏あるいは細川氏と縁のあるものという表記が散見されました。

 細川氏は足利氏の一族ですし、足利幕府(室町幕府)の管領職ですから、足利・細川両氏に縁がある可能性もありますが、 本当に細川氏と縁のある血達磨図なら、有名なこれ・・・の可能性もあるんかと・・・

講談。肥後熊本の細川家に伝わる名宝の由来譚。主人公の名をとって《大川友右衛門(おおかわともえもん)》とも題する。細川綱利侯に仕えた大川友右衛門は,江戸屋敷類焼の際,切腹して主家の重宝達磨の掛軸をみずからの腹中に収め,命にかえてみごと,お家の宝を守り通したといわれる。この血に染まった達磨が,細川の血達磨と呼ばれ,長く友右衛門の忠節がたたえられた。いわゆる武勇物,忠義物の一つであるが,その他友右衛門が綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ話や,妖刀村正のたたりなど面白いくだりがある。

コトバンク

ま、本物なら、公的なホームページでデカデカと紹介されても良さそうなものですけど、それは見つからないですねえ。 それに瑞泉寺と細川氏との関わりも出てきませんし。コレではないかな・・・  不明です。

晴れていたら、連山の奥の寂光院まで足を伸ばしたかったんですが(個人的には途中にある犬山国際ユースホステルも覗いてみたかった)、雨がひどくなったので、山を降りて帰りました。    

 このお寺、色々みどころがあるし、妄想の連想もできて、なかなかよい場所でしたよ。何より無料ですしね!