比叡山に、特攻施設があったそうな

夏に訪問したので、記事に「比叡山」という言葉が出てくると注目してしまいます。今回注目した記事はこちら。先の戦争で特攻兵だった方のインタビュー記事です。

戦局が悪化した太平洋戦争末期、日本軍は無謀な作戦を敢行した。その一つが、大型爆弾に翼と操縦席を付けた「桜花」と呼ばれる兵器による特攻だ。10代半ばの若さで隊員となった横浜市の浅野昭典さん(93)。そもそも生還を想定していない“人間爆弾”で出撃していく仲間を何人も見送った。
・・・
(1945年)7月に入ると燃料が不足し、代用となる「松根油」をつくるために松の根を掘る任務が新たに加わった。その後、間もなく始まるといわれた「本土決戦」に備え、滋賀県の比叡山へと移動した。山頂近くに設置されたカタパルト(射出機)から桜花を発射する作戦の準備が進められていた。詳しい説明はなかったが、大阪湾に来る敵艦を攻撃するんだと覚悟を決め、出撃命令を待っ

絶対に生還できない兵器、人間爆弾「桜花」の乗組員だった93歳 「死を覚悟した仲間たちの笑顔が頭から離れない」

「桜花」というのは日本軍が開発した「専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一」の自国の若人を殺す棺桶。 アメリカ軍に付けられたコードネームは「Baka Bomb」

桜花はロケットエンジンの加速と落下エネルギーを利用して高速度で敵艦に突っ込む「有人誘導ミサイル」なのですが、ロケットエンジンが30秒くらいしか起動しないのです。だから、単独で長距離を飛ぶことはできず、  桜花の特攻攻撃は一式陸攻という母機に吊るされ、敵艦に近づいたところで切り離し出撃する短距離攻撃兵器。

実戦では、一式陸攻には「重すぎる吊り下げ兵器」だったため動きが緩慢になり、ほとんどの一式陸攻が桜花共々、迎撃の米軍機に撃墜されたのだけれど。

救いようのない話なんですが、兵器マニア?の僕としては、そんなものを内陸にある標高850mの比叡山頂から発射して、大阪湾まで届いたんだろうか?というしょうもないもの。

 比叡山から大阪湾までは、直線距離で40km以上あります。(ただし、地図をみて気がついたのですが、大阪湾、伊勢湾、若狭湾までほぼ同距離で、どの方向にも出撃しやすい立地ではあります。ま、計画止まりだったけれど、この機のエンジンと貧配合の燃料で、間に横たわる山脈を越え、海やその先に浮かぶ敵艦まで飛べたのか疑問ですが。)

調べてみると、実際に作られたのは燃焼時間の短いロケットエンジンの11型だけだったのですが、比叡山を含む陸上基地から発進できるよう、モータジェットエンジンを搭載し航続距離を伸ばした43型乙など、大量の改良型も開発中だったそうです。特攻機の改良に時間をかけるくらいなら、防空戦闘機でも作ればいいのに・・・

一一型では母機からの切り離し後に固体燃料ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。
終戦までに11型が製造され755機生産された。桜花で55名が特攻して戦死した。

・・・桜花43乙型発射基地の内で、先に完成したのは比叡山であり、次いで武山の基地が完成した。武山ではカタパルトからの桜花の射出実験も行われ成功している。その後、43乙型の実戦部隊である第725航空隊が編成されたが、出撃することなく終戦を迎えた。

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比叡山には基地ができていたようですが、肝心の兵器は「大量生産予定」だったそうで、順序逆じゃね?と突っ込みたくなります。。当時の日本で、モータジェットエンジンを含む兵器がまともに生産できたとはとても思えないし、仮にできたとしても、特攻隊員にまで松根油掘りに動員する極度の燃料不足の中で、どうやって出撃に必要な燃料を調達するつもりだったんだろうね・・・

松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。広義にはテレビン油の一種であるため、松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。
・・・1945年6-8月頃、北京市の南苑飛行場にあった第5航空軍の第28教育飛行隊では、飛行機の燃料が不足して2,3日に1度の発着をすることしかできなくなっていたため、日本から送られてきた松根油を混ぜた燃料を積んで試験飛行を行い、傾斜角度をつけて旋回したり、垂直旋回したりしたところ、エンジンが詰まり、プロペラが止まったため、部隊長らは相談して「松根油を使うときは、傾斜15度以上の急旋回はすべからず」という珍命令を出した。第28教育飛行隊の操縦者だった高田英夫は、それでは旅客機並みの機体操作しかできず、戦闘機がおとなしい旋回をしていたらたちまち撃ち落とされてしまうと考え、命令を聞いて情けないやら、くやしいやらで腹が立ってきた、と回想している。

・・・米国戦略爆撃調査団およびシャウプ使節団のメンバーとして来日したことのあるジェローム・B・コーヘンによると、進駐軍が松根油をジープの燃料として試験的に用いてみたところ、数日でエンジンが止まって使い物にならなくなった。

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やることが支離滅裂というか、これが敗戦直前の末期的症状だといえば、そのとおりなんでしょうけど、いろいろやりきれない話です。

ちなみに、比叡山にあった基地?の痕跡は一切残っておらず、写真は残っているようですが、どこに建設されていたかもはっきりしていないようです。  実際に実地調査された方の記事です。

比叡山に桜花基地が作られた経緯は”本土決戦と滋賀”に詳しい。1945年の5月に工事発令、ケーブルカーを資材と桜花の運搬用に接収して5月から6月にかけて基礎工事、7月に滑走路のコンクリートとカタパルトのレールが設置されたらしい。工事の完了は8月15日となっていて、引渡し前日には発射用の台車の運用試験も成功していたようだ。機密保護のため工事は滋賀海軍航空隊によって行われ、近接する延暦寺にも知らされず山門を出ることも許されたかったそうだ。
したがって当時の様子を示す資料はほとんどないのだが、その著書にカタパルトの位置を推測した地図があったので、これを頼りに山中に入って痕跡を探してみた。写真の地図に加筆したオレンジの矢印がそのルート。延暦寺の東塔エリアの登山道から山林に入りカタパルトのあった場所を探す。

比叡山の桜花      ミカンセーキ

比叡山  横断

テント泊で山登りに行くつもりが、悪天候のため、京都泊のうえ、比叡山見物と変更になりました!

京都から、公共機関で比叡山に行くには、①京都北部「八瀬」からロープウエイで行く方法②滋賀県は琵琶湖畔「坂本」からロープウエイで行く方法③京都駅からシャトルバスで「山中越え」を通って行く方法  の3つが考えられます。 もちろん、乗り換えのない③が1番楽な方法です。

山と水と光の廻廊<比叡山・びわ湖>
交通検索(電車・バスでお越しの方)

我々も③の手段で行く予定でしたが、前日の豪雨で山中越えにて土砂崩れが発生し、バスは運休になりました。  

どうせなら  ということで、琵琶湖畔の坂本ロープウエイで登って、京都側の八瀬ロープウエイで下るルートを取ることにしました。まあモノ好き以外の何物でもありませんが、こういうのって好きなのよね。

坂本までは、京阪電鉄 石山坂本線  で向かいます。一両編成の小さな電車が、いくつもの無人駅を進んでいきます。  大津は大都市なのだけれど、それから北部は寂れていますなあ。(でも、結構人家はあるのだけれど)

終点・坂本比叡山口駅をおりると、そこは寺社街。比叡山延暦寺に属する僧侶は、山の上で修行生活をするわけですが、山の上はいろいろ厳しい生活です。そこで、修行を終えた僧侶は、里である坂本で隠居生活を送ったのです。通りには、そのための僧坊が立ち並んでいます。

坂本は大津市北部にある地域である。日吉大社参道の両側には比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が並び、穴太衆積み(穴太積みとも)と呼ばれる石垣が街路を形成している。戦国時代には三好長慶に敗れた室町幕府12代将軍足利義晴・13代将軍足利義輝と細川晴元らが都落ちしてこの地に逃れ(後に朽木村へ移動)、安土桃山時代には明智光秀により坂本城が築城されたが、本能寺の変や続く山崎の戦い後に明智秀満が城に火を放った。

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見どころは日吉大社を筆頭に色々あるんでしょうけど、とにかく石垣が見事。

途中の無人駅に「穴太(あのう)」という駅がありますが、ここの衆が石積みの技術に優れており、それを見込んだ織田信長が安土城の石垣を作らたのが嚆矢となり。その頃作られた城の石垣は、みな穴太衆の指導の元で作られたのです。

穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。

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今回は通過しただけですが、それほど観光客もおらず、今度じっくりと散策してみたい地域でした。

ところで、隠居した僧侶は、なぜ琵琶湖側の坂本に住みつき、京都側の八瀬に住まなかったのでしょうか?  現在の感覚からすると、京都側のほうが都(平安京)に近いですし、色々便利そうに思えるのですが・・・京都側(八瀬)の方の駅は有人駅だしな。

この答えは、おそらく「琵琶湖の存在」が大きかったと思います。  

山の上の比叡山には多くの修行僧やそれを世話する人々が住んでいるのですが、山の上では食料や日用品を生産することができません。 つまり、大消費地である比叡山に、山の下から絶えず大量の物資運び込む必要があったのです。

トラックのない時代、都に近いとは言え、八瀬の山道を運ぶのと、琵琶湖を船で運ぶのと、どちらか運送しやすかったか。考えるまでもありませんね。  てなことで、舟運の拠点として坂本は比叡山の物資輸送の表玄関であり、歩きやすい登山道も整備されていたはず。隠居したとは言え、僧侶は山上とも色々繋がりがあったのだから、坂本に住む方が便利だったのでしょう。

付け加えて、今でこそ八瀬は瑠璃光院や蓮華寺で売り出している観光地  なんですけど、当時は都の人々から「鬼の子孫が住んでる」と思われるくらいの土地(田舎)だったので、隠居できるぐらいの僧侶(貴族階級出身者が多いと思われる)は、住む気になれなかったのかもね。

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡小野郷八瀬庄(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。

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そう言えば、信長の重臣であった明智光秀はこの坂本に居城がありました。(坂本城)その解説を読んでみると・・・やっぱり坂本は、比叡山の物資輸送のための港町として栄えてたんだね。  そこと比叡山を抑えるため、信長は光秀軍団をここに駐屯させたわけ。

比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。・・・元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。

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閑話休題。ロープウエイで登った比叡山からは、大津がよく見えましたよ。湖畔には高層マンション?もいくつか建っています。僕のイメージより、大津って大きな都市だったんだなあ。

大津市(おおつし)は、滋賀県の南西端に位置する市。滋賀県の県庁所在地及び最大の都市で、中核市に指定されている。    総人口343,394

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シガケンノケンチョウショザイチガ ドコカ  ソクトウデキルヒトハオオクアリマスマイ・・・

比叡山の中核である、根本中堂(国宝)は修理中で、外見は見ることが出来ません。が、修復工事を見られるのは、興味ある人には面白いかもしれないですね。

こちらは、根本中堂を囲む回廊の屋根の補修を、上から眺めたところ。

屋根は檜皮葺(ヒノキの皮を屋根材とする)かと思っていたので、いっぱい置いてある板材はなんじゃろな?と思っていたら、外に解説がありました。この屋根はとち葺と言い、厚さ24mmのサワラの板で葺くのだそうです。ヒノキとサワラの違いは・・・

ヒノキは山の中腹部より上の乾いた土地に生えるが、サワラは谷筋の湿ったところで育つ。・・・ヒノキよりも水湿に強く、桶やたらいなどの材によく用いられる。

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なるほど、雨の多い場所にはヒノキよりサワラが向いているかもしれないな。てか、比叡山あたりの原環境としては、ヒノキよりサワラが優勢だったかもしれません。  比叡山は乾いた山  っていうより、ジメッとした山っていう感じを受けましたし。

あと、歴史好きが比叡山で見るべきは戒壇院でしょうか。(一応、重文です)

戒壇(かいだん)というのは、奈良時代に正規の僧侶となるため、出家者に戒律を授ける(授戒)ための場所のこと。奈良時代の日本では、正規の僧侶は「戒壇」で授戒せねばなりませんでした(「正規の僧侶」は働いて税金を納める義務がなくなる、ある種の特別職国家公務員なので定員があった)。だから戒壇も国立の3つしかありませんでした。そこに比叡山の戒壇が4つめとしてできた、しかも最初の私立と異例のものだったのです。

当時の寺って、学校の役割も担っていたので、ちょうど1920年にこれまで官立しかなかった旧制大學に、早稲田と慶応が初めて私立として認められたみたいなもんです。やっぱりニューカマーには旧勢力からの軋轢もあったようで・・・人間は進歩しない・・・)

鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)。

これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになった。しかし、822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもある。

当時は、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、道元禅師の例にもあるように中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認められたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を抱き、両者の対立の原因の一つとなった。

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ちなみに、東大寺と観世音寺にも戒壇が残っています←僕、両方とも見たことあるよ〜。。残念ながら、薬師寺(現在は後継寺院として安国寺)には残っていないようです。

まあ、上層部がそのあたりのしょうもない争い(でも当人たちは必死)を、政治(貴族階級)も巻き込んですげーエネルギーを消費しているうちに、比叡山で真面目に勉強していた僧侶たちの中から、鎌倉仏教と言われる新時代の仏教思想(と勢力)が出てきて、歴史は次の段階へと進んで行きます。

次はこちら。織田信長の比叡山焼き討ち関係

脇の解説によると、犠牲になったのは、山の下から避難してきた千名余と、山の上にいた千名余、合わせて二千名余りだそうです。  このとき、比叡山は徹底的に破壊、焼却されました。ところで・・・となると・・・その時、比叡山で有名な「不滅の法灯」はどうなってたんでしょう?

ご本尊の前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。

比叡山延暦寺  東堂

天文12年(1543年)、山形・立石寺の再建の際、同寺からの要請で分灯。その後、元亀2年(1571年)9月の織田信長の比叡山焼き討ちの際に今度は比叡山の法灯が消えたため、立石寺から再分灯してもらい復活させた。

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「不滅って言いつつ、本尊前の灯明としては一回確実に消えてんじゃん」とか、善男善女は言ってはいけないのです、決して。 (根本中堂内でお坊さんに解説されて、一言言いたかったのをぐっと呑み込んでありがたく拝聴した僕。このことを仏教では「功徳を積んだ」と申します😂) 

帰りまーす。  八瀬ロープウェイでおりると、今度は京都側が眺められます。

京都の町。緑は、左から京都御所、左下が下鴨神社。右側は京都府立植物園ですな。変な形の建物(多分温室)が見えましたので。

☆関連記事  比叡山には、戦争末期、特攻機・桜花のためのカタパルトが設置されていたそうです。