都への道(奈良の都ですけど・・・)

所要がありまして、奈良へ出かけてきました。  西尾(三河国)あたりから奈良へ行くには、三河湾・伊勢湾を海路で渡り伊勢国へ上陸。その後山脈を越えて伊賀国へ入り、そこから大和国の都(平城京)に行くのが一番早いです。

しかし現在、伊勢方面への船便は中部国際空港から津へエアポートフェリーがあるだけ。これも面白いルートだと思いますが、運賃もかさみますので名古屋を経由し電車で行くことにします。 候補は、JR関西本線(地図一番上の青枠)もしくは、近鉄大阪線(地図一番下の青枠)ですな。 どうせなら、周遊しましょう。

伊勢国と伊賀国を隔つのは、北が鈴鹿山脈、南が布引山地です。それを超えるには大きく三つの道があります。

江戸時代であれば鈴鹿峠を越え伊賀の国へ。鈴鹿峠は東海道最大の難所。それについては前に「東海道五十三次あれこれ」で記事にしました。(地図では赤左矢印)。難所と言いつつ、鈴鹿峠はそれまでの峠があんまり険しいので、新しく開かれたルートなんですが。それまでは「関西本線」に隣接する国道25号が旧東海道でした。本能寺の変の際、徳川家康が「伊賀越え」したルートもこれ。(地図の青枠一番上)

「関西本線」と名前は立派ですが、亀山から先を走るのは電車じゃありません。汽車(ディーゼル機関車)です。しかも一両編成で乗客はほとんど通学の高校生。伊賀国に入るまで山の中を走りかなり揺れます。伊賀国に入っても丘陵が多く、人家はまばら。

伊賀国。上の地図でも分かりますが、東西南を山に囲まれた山国です。 赤枠で囲ってありますが、「伊賀」「甲賀」と有名な地名が。 そう、ここは忍者発祥の地です。山がちで大きな平地がないので、大軍を動かせずゲリラ戦に適した土地で忍術(ゲリラ戦術)が発達したのでしょう。

江戸時代は藤堂高虎を藩祖とする津藩の領地として支城伊賀上野城が置かれました。本城は津城ですので、両城を結ぶ交通確保のため、それまであった街道を整備し「伊賀街道」が出来ました。(国道163号・地図中央の青枠) 残念ながら、ここは電車は通っていません。

近鉄大阪本線が通るのは、参宮街道と呼ばれた国道165号です。大和国から伊勢神宮へお参りに行くのに使われた道路ですね。沿線はそれほど都市化していませんが、唯一名張駅周辺だけ異様に家が建っています。

ここは大阪府や奈良県のベッドタウンとして高度成長期に大規模住宅地が造成され人口が急増した場所です(桔梗が丘住宅とか)。しかし周りに何もないし、大阪まで一時間って、ベッドタウンとしても不便だよね。・・・やっぱりというべきか、現在は世帯・人口ともに微減傾向だそうで・・・。

 

この辺りは、京都・奈良・伊勢・吉野とも近かったので、その時代の権力をめぐる様々な遺跡も残っています。例えば、関西本線に笠置という地名があります。関西本線が、大和盆地に出る手前、伊賀国と大和国の境である笠置山地を越えるあたり、木津川に囲まれた山地に「行在所跡」があります。(地図の赤い家のマーク)

南北朝の時代、北条政権(鎌倉幕府)を倒幕しようとした後醍醐天皇は、ここで挙兵したんですね。京都の都に近く、奈良(大寺院の僧兵をあてにした)にも近い要害の地です。この時の挙兵は失敗したんだけど、このあと建武の新政でいったん京都を奪回。そののち劣勢になってからは吉野で南朝を開きますが、吉野は笠置山地の南の方。峰続きと言ってもよいかと。

南朝を支えた有力な武将に北畠氏がいます。 神皇正統記を書いた北畠親房の家系です。この家は伊勢国司となり、伊勢多気に拠点を設け南朝を支えました(多芸御所)。

多気ってどこよ〜? 地図上では北畠神社として表示しています。(赤い家のマーク)こんな山深くに伊勢国司館(霧山城)があったのかよ と思ってしまいますが、都が吉野なら、まあねぇ・・・

南朝が終わっても北畠氏はその地に残り、戦国大名北畠氏となります。最後は、伊勢統一を図る織田信長と敵対。信長は北畠家に三男を養子に入れ、家督を譲ることを条件に和解します。養子になった子は「北畠信雄」を名乗りますが、のちに北畠一門を殺害し、北畠家は織田家に乗っ取られました。

乗っ取った信雄君は、調子に乗り、実父に無断で隣国伊賀国に攻め込みますが大敗。「そんなバカは勘当するしかねえ」と激怒されます。その後、信長指揮の下で伊賀国を平定。村や寺院は焼き払われ、住民は片っ端から殺害され、その様は地獄絵図の様であったそうです。これが天正9年(1581年)。

本能寺の変は天正10年(1582年)。伊賀の国は織田軍に恨みを持っていましたから、この時少数の供を連れただけで伊賀越えをした信長の盟友徳川家康は、ひやひやしながら通過していったはずです。実際には伊賀の土豪は家康が一揆に襲われた際、家康を守る立場を取り、後に伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えることになりました。

 

 

 

 

 

愛知大学豊橋キャンパス (旧十五師団司令部跡)

季節の変わり目で、鼻がムズムズ。花粉症?風邪?状態の今日この頃。

用事があって、豊橋に行ったついでに、愛知大学(豊橋)にキャンパス見学に行ってきました。このキャンパスはなかなか面白いところです。

始まりは、帝国陸軍第十五師団司令部。その後陸軍予備士官学校。さらにその後、旧制愛知大学(中国にあった東亜同文書院の教授と学生を収容)となり現在に至る という歴史を有してます。

下の写真は、明治41年(1908)に第十五師団司令部として建てられた建物です。(愛知大学旧本館) 明治村に移築されてもおかしくないくらいですが、ここは記念館としてまだ現役。

十五師団が設立されたのは、日露戦争中。この戦いは日本に余裕がなく、内地の師団を根こそぎ対ロシア戦に持って行ってしまったので、内地の守りと予備師団が無くなっちゃいました。ヤバいぞー ってことで明治38年に動員を行い、この年に全国に四師団造ったうちの一つ。

あ、「師団」というのは、独立して、一つの作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位のこと。 なので歩兵だけでなく、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵(輸送部隊)を傘下に持ってました。参加の部隊は以下の通り。()は旅団司令部や大隊本部があった場所。

歩兵第17旅団 (豊橋)、歩兵第29旅団(静岡)、騎兵第4旅団 (豊橋)、野戦重砲兵1旅団(三島)、工兵第15大隊(豊橋)、輜重兵第15大隊(豊橋)

一師団は総計ではだいたい2万人くらいの人員になります(時代により異なります。まあオーダーとして)。部隊は各地に分散して駐屯していたのですが、それだけの人が所属する組織の駐屯地及び司令部がここに置かれたのですから、明治時代の地方都市の経済やらなにやらに、ドーンと大きな影響を与えるわけです。

が、大正14年(1925年)第一次大戦後の軍事的脅威の薄れから四個師団の廃止が行われ、第十五師団は廃止になりました。時の陸軍大臣宇垣一成の名前を取り、宇垣軍縮と言われます※。

廃止だと〜!地元としては企業城下町で主要工場を閉鎖したり、原発が稼働を停止したりする事態に似てます。税収が・・・ 施設が落としてくれる金が・・・ という感じ。

大丈夫です。もんじゅ廃炉にするけど、そのあと研究炉やるから、勘弁してよ・・・

に似た地元救済策として? 陸軍教導学校、そののち陸軍予備士官学校が置かれます。 これはいざ戦争になると、前線指揮官である中尉、少尉が大量に必要になるので、それをあらかじめ育成する学校です。「平時は民間人として働いててね、お国の大事となったら動員するね💛」ってこと。でも実際には日本帝国は昭和12年の日中事変以来、ずっと戦争してましたんで、ずっとお国の大事状態でした。 なお教導学校は下士官を養成する学校です。

ですが戦争に負けて軍備は禁止になったので、この学校も不要になり、跡地が開いちゃいました。そこで高校を移転させ(時習館高校 wikiによれば、敷地面積公立高校全国二位だそう)さらに中国にあった東亜同文書院の教授と学生を収容する大学が開学しました。

「東亜同文書院」は明治34年(1901年)に中国は上海に設立された日本人を対象とする高等教育機関(昭和14年には大学に昇格)でしたが、敗戦と同時に中国に接収され消滅。

ただし愛知大学は東亜同文書院大学を「前身ともいえる」という立場をとっており、豊橋図書館には旧東亜同文会所蔵の図書や支那調査旅行報告書が残されたり、愛知大学東亜同文書院大学記念センターが設置され、東亜同文書院大学の資料の展示が行われているようです(日曜閉館。見たいのに、日曜日休みとは・・・)

愛知大学は現代中国学部が設置されてもいて、地元では「中国に強い大学」というイメージがあります。 (んー、でも確か現代中国語学部は名古屋キャンパスで教育をうけるんだよね・・・)

旧司令部(裏側から撮影)
たぶん旧将校集会所・・・
たぶん旧銃器取扱所 基礎がレンガ造りだぞ!
記念植樹 大正時代に師団長を勤めました。

※この軍縮は、浮いたお金を陸軍の近代化に回したり(全く足りなかったんだけど)、軍隊にとって良いこともあったのですが、将官の整理(首切り)をやったので陸軍内では評判が悪く、後に宇垣氏が指名されても組閣に失敗し、総理大臣になれなかった※理由の一つになります。 いつの時代の官僚(軍官僚)も、自省の力を弱めるのは絶対のタブー。

※当時は「軍務大臣現役武官制」が復活しており、陸軍大臣と海軍大臣は、現役軍人でないとなれませんでした。(宇垣は予備役大将でしたが、予備役はダメ)。だから気に入らない総理大臣候補者の場合、陸軍(軍官僚)が結束して「陸軍としては現役軍人を大臣には出せません」とごねれば、その候補者は総理大臣になれなかったのです。 「軍務大臣現役武官制」は一度廃止(予備役でもOK)されたんだけど、その時強硬に廃止に反対したのが、官僚だった宇垣だったので、まあ仕方ないんですけど。  軍部の政治力増大もムベなるかな という気もします。

のちに東条英機は総理大臣兼陸軍大臣となりましたが、これは現役軍人のまま総理大臣になったから(異例)です。 ←軍部を抑えるには「毒を以て毒を制す」しかないと判断されたため。