浮世絵 広重 東海道五十三次あれこれ

名古屋ボストン美術館で開催中の、広重 東海道五十三次見てきました。 土曜日なので、さすがに混んでますね〜。

東海道の難所第一番は箱根。 ここは箱根の峠を越えなければいけませんし、関所もありますからね。 二番目の難所は、大井川だと思ってました。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」※ってありますもんね。 大井川は水量が多く、当時の技術だと橋を架けるのが難しかったんですね。

ちなみに、明治12年になって、大井川にかけられた蓬莱橋は、「木造歩道橋として世界一の長さ」とギネスに認定されていまして、この長さは897.4メートル。 江戸時代、日本最長の橋は、三河国あるいは三州岡崎の矢作川(当時は矢矧川)に掛るその名も矢矧橋。長さは150間ほどと言われていますので、まあ280mくらいかな。そのくらいが技術の限界だったのではないかと。近年は上流にダムができて、おとなしい川やけど。

さらに江戸初期では、江戸の大外堀、駿府城下の外堀でしたから、浅瀬を見つけて自分で渡渉するのは禁止でした。川越人足に肩車してもらって、或いは川籠(蓮台)で渡してもらうのですが、人足の脇の下(二尺五寸)を超える水量になると川止め。渡し船で渡ったらいいやん と思いますが、それもありません。なんでかgoogle 先生に聞くと、「いったん川越人足制度ができてしまうと、既得権益で廃止するのが難しかった」そうです(笑) 。まあ明治時代に、先ほど記載した蓬莱橋ができることで、失職した川越人足さんたちの転職先として、最寄りの牧之原台地に入植させたという話もありますから、あながち間違いでもないんでしょう。

牧之原台地は水がなくて開墾に苦労したのですが、水はけがよい土地柄をうまく利用して、お茶生産で成功。今に至るまでお茶の産地として有名です。

 

閑話休題。 実は、二番目の難所は大井川ではなくて、三重の鈴鹿峠だったらしいです。土山宿(つちやましゅく)に、次のような馬子唄(人や荷物を載せる馬引きさんの道中歌)に以下のようなものが残っていたとのこと。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」※

これはなかなか興味深い歌ですね。google mapで鈴鹿峠はこちらです。東側の亀山市に「坂(坂下宿)」があり、西に向け「鈴鹿(鈴鹿峠)」、「土山(土山宿)」があります。 歌は、「坂下宿は晴れ晴れだったのに、鈴鹿峠で曇り、土山宿では雨でした」と言ってます。これは、南北に延びる鈴鹿山脈の東西で、天気が激変するということを言ってるんですね。

この鈴鹿山脈を北上すると、一部山脈が切れる部分がありまして、そこが「関ケ原」。まさに交通の要衝であり、有名な関ヶ原の合戦の地ですね。両軍にらみ合ってたんだけど、霧が深く何も見えんぞー、お、はれてきた・・・敵だー、突撃ー。と合戦の火ぶたが切られたのでございます。 一部には東軍の抜け駆けという話もありますが、実は天候が激変するこの地ならではの合戦開始だったのでございましょう。

さらに関ケ原の北側には伊吹山が聳えておりまして、冬は北陸方面から関ケ原を通って名古屋方面にさむーい北風が吹いてまいります。これを地元では「伊吹おろし」と言いますな。

 

五十三次の話からだいぶ逸れてしまいましたが、東海道の終点は、京都の「三条大橋」。

三条大橋

終点の地はさぞかし と思いきや、現代ではもう一つ南の「四条大橋」のほうが栄えてます。 南座にちかいし仕方ないけどな。 夕方四条大橋から祇園をぶらぶら歩いてると、あまりの外国人の多さに、ここはチベットか?と勘違いしそうになりました。・・・そうどす、わて、今京都に来てまんのや。(どこの方言だろうね)

四条大橋たもと(川床)
祇園

 

※この二首を見て私は「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」という歌を思い出しました。西南戦争最大の激戦地、田原坂を歌った 「豪傑節(新豪傑節)」です。こちらは大正から昭和にかけての唄ですから、もとはこの二首から引用してるのかもしれませんね。

 

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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