「百姓伝記」巻七防水集は、治水工学の教科書(関東流)じゃない?

追記:勝手に全部現代語訳しました。よろしければご覧ください

 

 

マニアックでございます。最近、百姓伝記を手に入れ、パラパラ読んでおります。百姓伝記とはおおざっぱに言うと「江戸中期の三河から遠江にかけての東海地方を対象にした農業書」でございます。 岩波文庫として出されておりましたが、すでに絶版。中古品を手に入れることは可能です。この地方の慣行農法について研究するため購入しました。えーん嘘です。ホントは農業好き+郷土史好きの兼用趣味。

文化財の関係で言いますと、この本の「底本」は西尾市岩瀬文庫が所蔵しています。原本は失われてありません。校注された古島敏雄氏は、「伝承・書写年・書写者不明であるが、旧来の二種の刊本。祭魚洞文庫本に比して書写態度が依拠本に忠実であると判断して、これによった」とあり、なかなか貴重な写本のようです!すごいよ弥助さん

ついでに、古島敏雄は、岩波新書で名著「土地に刻まれた歴史」を書いた農業史家です。すごいよ敏雄さん

さて、農業書なんですが、7巻に「防水集」ってのが入っております。私は前職が河川管理業務 だったので、ここが一番興味を引くところ。 しかしなんで農業書に防水を入れたか・・・

本朝の大河には池・堀のかこひ、普請の仕かた善悪、見及び聞伝えたる所を、余、ひそかに書付、坊水集と名づけ、百姓伝記の類巻にのする。堤・井溝・川除普請は、世に耕作初りし上代よりこのかた、土民の役たり。末代も猶油断ありては、子々孫々水災にあふべし。

水防活動は地元住民(からなる水防団)が担っているのは現代もそうですから、農民に防水の技術を伝えるのは、まあ筋が通っています。ですが、中身を読んでいくと農民が知っておく知識をはるかに超え、当時の治水技術者向けの治水工学の教科書だと感じました。「密かに」とあるように、当初は秘伝だったでしょうが。

内容はもうすこし勉強してみますが、江戸初期の治水術「関東流」の香りがプンプンします。

百姓伝記の作者は不詳ですが、「現在の静岡県から愛知県あたりの人で、おそらく武士と考えられ、老農からの聞き書きであるが、著者本人も農耕に従事したと思われる」とされています。

しかし防水集の内容を読むと、農業分野の記述のうえにさらにここまで全国の河川の状況や治水技術に詳しい人っているのか?って感じを受けます。あんまり聞き書きにも見えないし。それで

私の独断と偏見では、七巻の防水集だけ作者が違い、屁理屈をこねて農業書の中に入れたんじゃないか。さらに防水集の著者は「関東流」治水術宗家、関東郡代伊奈家関係者じゃないかと思うです。

関東流とは?    関東をはぐくんだ歴史的水路網(関東流と紀州流)から抜粋

新田開発の代表例は、死水化した古利根川を用排水路として利用した、葛西用水(4代目忠克によって開削)でしょう。上流の排水を下流の用水に使う「溜井(ためい)」というシステムは関東流の典型です。また、彼らは洪水処理にも、霞提(かすみてい)、乗越提、遊水池といった河川を溢れさせて流れの勢いをそぐといった独特の工法を用いています。

こうした関東流は自然の流れを上手に受け入れる技術であり、現在でいうところの自然型工法に近いものがありますが、人口が増えてくると水に浸かる土地も多く、江戸の洪水被害が増えたり、乱流地帯も多く残るなど新田開発には限界がありました。さらに用水兼排水の利水形態では、常に下流の用水確保が上流の排水困難をまねき、開発が進むにつれて上流と下流の対立が顕在化します。ここにきて関東流による新田開発は、技術的限界を迎えることになりました。

このころに登場するのが8代将軍吉宗です。吉宗は「享保の改革」推進のために新田開発を奨励します。これ以降、関東平野の開発は紀州から連れてきた天才技術者・井沢弥惣兵衛為永(いさわやそべえためなが)を祖とする紀州流にとって代わります。 為永は乗越提や霞提を取り払い、それまで蛇行していた河川を強固な堤防や水制工(水の勢いを止める構造物)で固定し、連続提によって直線化しました。これにより、遊水池や河川の乱流地帯は必要なくなり、広大な新田が誕生することになります。

当時はコンクリートや重機はないので、関東流が水を溢れさせ、紀州流は連続堤で河道を固定化さました とぎっちりと分離できるほどの技術力まではなかったと思いますが、治水哲学が違うようですね。紀州流の考え方は現代にまで続いてます。

関東郡代(代官)は代々伊奈家が世襲しておりました。代々治水や利水事業に巧みだったことから、「関東流」は「伊奈流」とも言われています。

関東の新田開発の歴史説明文を引用しましたが、ここに出ている「止水化した古利根川」が生じた原因は、もともと江戸湾に流れていた利根川を太平洋(銚子)に流すべく人工的に東遷させたためです。この事業は「家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。」ものです。

防水集には、常総国ふかわ新田の記載がありますして、注釈には、利根川本流移設工事のころのことを記すか?とあります。利根川東遷そのものの記載はありませんが、「大河の堤をつく事(大河の堤をば二重つきたるがよし)」「みよとめ堤(水脈止め堤)を付事」など、大規模な河川改修の仕方が書かれており、さらに「田畑用水のため井堀をほらずしては不叶もの也。」「為用水、雨池をかまえる事」と等の小見出しがあり、関東流の治水・利水の特徴を良くとらえているように思います。

さらに。百姓伝記の防水集には、慶長十年(1605年)の矢作川新川開削がかなり詳しく記載されています。この工事の様子はあまり他の書には詳しく書かれておらず、著者はこの工事を見ていたのか、関係者に詳細まで詳しく聞いたものと思われます。

初代関東郡代、伊奈忠次は短期間ながら西尾の小島城主を務めました。付近のお寺には、彼の連名安堵状や位牌が残っています。(西尾市史)

小島城は今や工場用地として跡形もありませんが、城と矢作川の位置関係は下図の通りです。

元々の矢作川本流は東から西進し、小島城下で急に南へ流れを変え、現在矢作古川と呼んでいるところを流れていました。西進する流れが急縮・急旋回し南流するため、洪水時に水がしょっちゅう詰まり、氾濫していました。そこで小島城西側の平地を開削し、本流をスムーズに西へと流し、早く海へ導いてあげるのが、矢作川新川開削工事の狙いでした。

この工事は、米津清右衛門が奉行として指揮を執ったといわれています。しかしはっきり確定してはいません。米津清右衛門清勝という人は記録が少なく、素性が良くわからないのです。(部下の不祥事の責任を取り処刑されたとも、切腹したとも。そうなら不名誉だからあまり記録が残ってないのでしょう)

また、「伊奈備前守および米津清右ヱ門奉行して、矢作川の川筋を変更せしむ」(「三和村誌」)と、忠次が指揮してたという説もあります。

いずれにせよ、施工個所は、伊奈家の旧領として勝手知ったる場所であり、治水に長けた忠次は洪水発生のメカニズムもよくわかっていたでしょう。直接奉行じゃなくても 、忠次は慶長6年に三河国検地を実施していたので工事の詳細を把握していたと思います。検地への影響はでかいですからね。

そんなこんなで、伊奈家の関係者(家臣とか子孫を含む)が防水集書いたんじゃないかなとおもうんですが、どうでしょうね?

 

 

 

 

「糟糠の妻」の真の意味が分かったぞ  〜糠漬け〜

「糟糠の妻」とは、貧しいころから苦労を共にしてきた妻 という意味です。

ここで使われている糟糠とは、米かすと米ぬか。米ぬかと水と塩で野菜を漬けたのが糠漬け。粕漬や糠漬で食事をとっているのは貧しいことの象徴だったんでしょうか?今なら自家製野菜の糠漬の食事って、贅沢ですよね。あなたが漬物嫌いなら別ですが・・・

今年は6月頃から糠床を準備し野菜の捨て漬を行い、糠床を育成させてきました。乳酸菌を繁殖させるわけです!はじめてのお使い ならぬはじめての漬物作り。

僕をその気にさせた犯人は、暮らしの手帳「汁飯香のある暮らし」土井善晴氏

働いて疲れて帰ってきて、臭いのする糠味噌天地返しとか、持続不可能だもん。仕事を辞めたらやるべし とは思っていました。

7月に入ってからは食事のたびに自家製糠漬けを喰ってます。糠床完成は夏場で2か月かかるようですけど。すでにキュウリやナス、トマトが捨てるほどありまして、消費しないと。

今朝の糠漬け

手前味噌ですが、味はなかなかのもんです。少なくとも、普通に喰える。

しかし暑いさなか。朝晩少なくとも2回は手で混ぜてやらないと、発酵が腐敗に変わってしまうようで、いや~な臭いがします。好気性の菌と嫌気性の菌がともに繁殖しすぎないよう、天地返ししてあげる必要があるんですね。

で、かき混ぜるわけですが、手に独特の匂いが移りまして、これが臭い。あしはこの臭いが嫌なんで、混ぜてからしっかり洗浄液で洗うんですが、「消えないや、発酵した糠の匂い」。かといって食べるほうはやめられません。誰か交代してくれないかな。混ぜるの嫌だなあ。

ああ、これが「糟糠の妻」の真の意味か。女房は朝晩糠床をかき混ぜてたでしょうから、古女房は移り香がして臭かったんじゃないか?慣れれば気にならないのかもしれないけど。

ちなみに和英辞典(研究社 新和英中辞典)で「糠味噌臭い」を検索すると、”housewifely”だって。座布団一枚持ってきな!

特に男性は、糠漬けは好きでも臭いは嫌いかもしれない。僕の記憶の中に、糠漬けを喰いたいけど臭いを嫌った男がなんとか という川柳があったように記憶していましたが、あ、コレ。

さい箸で 糠味噌を出す 妻の留守 (俳風柳多留)

糠漬けを食べたいけれど、味噌に手を突っ込むのが嫌だ。しかし肝心の女房が留守なので、しかたなく箸で糠味噌をかき回す。 糠漬けが庶民の生活に密着していた光景がありありと浮かぶ一句である。 永山久夫「江戸めしのすすめ」

良くわかるぞ。ほんとにそうだよね。

現代を生きる我々の場合、冷蔵庫に入れておけば週一で混ぜてあげればいいようで、混ぜるたびに臭いがつく回数は減らせるようです。。しかし庫内で他の食品に移り香するのも嫌ですし。代わりに混ぜてくれる女房もいませんので(もっとも現代では、女房が無条件で混ぜてくれるとは限りませんね。むしろむしろ旦那が趣味でやって、奥さんから「臭いから片付けて買ってこい」と言われそうですな。)ですから、自らの糟糠の手でせっせと天地替に励むことにします。 働かざる者、喰うべからず。  いや違うな。これだと無職の僕は食事できないじゃないか。